第65話 ここで読む
西日が、書庫の段に、斜めに落ちていた。窓の外で、油蝉が、一匹、鳴きやんでは、また鳴く。処理の綴りは、もう束ねられて、上へ回っていった。机の上には、その控えが一つ、残っているだけだ。
地図の写しも、判番号の控えも、来た順に重ねて脇へ寄せてある。机の面が、これまでのどの朝より広く見えた。線を追っていた間、机の端まで埋めていた紙が、今日はなかった。
クロイスは、控えの一枚を指で揃えた。朱の判が、縁で少し褪せている。押されてから、幾度も机を回った紙だ。夏の熱が風のないまま書庫にこもり、夕立のあとの土の匂いが窓の隙から入ってくる。
段の上の扉が、開いた。足音が、段を、降りてくる。書庫の机は、いつも、上から誰かが降りてくる場所ではない。クロイスが呼ばれ、無紋の馬車で、客間まで上がる。順は、いつも、そうだった。今日は、逆だった。
銀髪の女が、段を降りて、机の前に立った。青い瞳。堅実な装束に、装飾はない。供は、扉の外に置いてきたらしい。書庫の机まで、女のほうが、来ていた。
女は、革の帙から一枚を出して、机の上に置いた。王家の判が下に押してある。徴税官の職掌の集約の席、その主の罷免を公の摘発として王家が受理した、一枚だった。
クロイスは、その一枚を手前へ引いた。かつて宛を失った第二局の名が、今日の紙では、王家の判の下にある。誰かが客間まで呼んで渡すのでなく、王家の側から書庫の机まで、判の押された紙を運んできた。
「業務上、と」女が言った。
抑揚は、ない。クロイスは、置かれた一枚の、判の位置を確かめた。
「業務の紙です」クロイスは言った。「席が一つ、職掌の欄から落ちました。落としたのは、紙です。王家が受理されたのも、その紙の筋です」
女の目が、机の脇へ動いた。束ねた綴りの上の縁には、資金の出所への白い線が一本引いてある。落ちた席のさらに上。この席へ落ちていた金がどこから来たのか、その問いだけが白く残っていた。
女は、その白い縁を、見た。指は、伸ばさない。見ている時間が、公の紙を置いたときより、少し、長い。その線の先が、女のずっと紙にならないままの何かと、どこかで触れているようだった。だが、女は、そこへ、名を書かない。今日、机に置いていくのは、公の一枚だけだった。
「その線は」女が言った。「今日は、いい」
女は、それだけ言って、段のほうへ、向き直った。白い縁は、白いまま、机に残った。段を上る足音が、来たときより、ゆっくりと、遠ざかっていく。
机の脇に、ライサが、いた。段を上らずに、そこに、残っている。女が段を降りてくる間も、公の紙が机に置かれる間も、机の脇から、動かなかった。移した席は、この机の、こちら側にある。
「見ていた」ライサが言った。「上から、王家の紙が、降りてきた。あんたが、呼ばれて上がるんじゃない。向こうが、ここまで、降りてきた。順が、入れ替わったな」
クロイスは、答えなかった。ライサは、机の上の、落ちた席の一枚を、見下ろした。
「前に、言ったことがある」ライサは言った。「あんたは、いつも、そこまでしか言わない、と。白い欄の、手前で、言葉を止める男だ、と」
彼女は、控えの上の、名の落ちた欄を、指で示した。
「今度は、そこまでの、先を書いたな。手前で止めずに、外した一点の、白いところへ、突く紙を書いた。名が、席から落ちた。……認める」
ライサの指が、控えから、離れた。
「だが、取り消しはしない」ライサは言った。「あんたの指示書で、隊員が死ぬ。それは、まだ、取り消さない」
クロイスは、聞いていた。
「その上で、だ」ライサは、机の、こちら側の椅子に、手をかけた。「第一局の端で、指示書を渡されて、後から結果を聞くんじゃない。この机の、こちら側で、あんたが何を読むかを、見えるところで読む。だから、私は、ここで読む」
クロイスは、机の上を、見た。落ちた席の一枚が、こちら側にある。その脇に、白い縁が、一本。出所の線だ。名は、まだ、入れられない。この机の高さでは、届かない名だった。
女が置いていったのは、公の紙一枚だけだ。紙にならないままの頼みは、白い縁の先に残っているのだろう。落ちた席の金の出所と、その頼みが、同じ縁で触れているように見えた。
夏の西日が、机の面から、少しずつ退いていく。落ちた席の一枚と、白い縁の出所の線。机のこちら側には、その白い縁を、下からでなく、この側から読む者が、一人、座っていた。
机には、束ねきれない線が二本残っている。一本は、出所の動かせない高さの名。もう一本は、女が今日も机に置いていかなかった、紙にならない頼み。その二本がどこで合わさるのかは、この机から、まだ読めなかった。
クロイスは、控えを、揃え直した。白い縁は、白いまま、次の綴りへ、繰り越される。




