第2話 殺させた経路
ライサが外套の留め具を締めているとき、第一局詰所の扉が乱暴に開いた。
局長ハーグレイヴが、羊皮紙の束を机に投げる。
「今夜、三件。冒険者ギルド・ヴァルハイム支部だ」
詰所にいた四人が、それぞれの作業の手を止める。ライサは、剣帯を留め直しながら近づいた。
羊皮紙には、対象、時刻、実行者の番号、退路だけが書かれている。見出しも署名もない。地下書庫の男の指示書だ。
「また、あの男か」
ライサは口の中で呟いた。第一局の現場組は、第二局の頭でっかちを嫌う。剣も握れない人間が、机の上で人を動かす。気持ちのいい仕事ではない。
局長は四枚目を抜き、巨漢の#11——ガロウの前に置いた。
ガロウが指示書を覗き込む。短い沈黙のあと、首の後ろを掻いた。
「……俺の傷、覚えてんのかよ」
四枚目の末尾には、こう書かれていた。
実行者#11、左肩の旧傷あり、三十キロ以上の荷物は右肩で運ばせること。
ライサは思わず指示書を覗き込む。
「お前の傷、書類に出てるのか」
「採用記録の備考欄だ」と局長が短く答えた。「お前らの傷も、勤続年数も、家族構成も、全部第二局の閲覧権限内にある。だが、それを指示書に書く分析官は」
「あの男だけだ」
局長は外套を肩から外し、長椅子の背にかけた。
「ライサ、ナイル。お前らはフェルトン港だ。副支部長の妻の実家がある」
「逃げる気か」
「指示書には、逃走確率は五割、と書いてある」
ライサはフードを引き上げた。腰の剣に手をかけ、扉に向かう。
「ガロウ、マルク。お前らは東倉庫だ」
巨漢が頷き、右肩で羊皮紙の束を整え直した。左肩ではなく、右肩で。
◇
深夜、フェルトン港。
潮の匂いの中で、ライサは石壁の影に伏せていた。隣でナイルが双眼鏡を覗いている。指示書には潜伏地点まで指定されていた。波止場の倉庫の角、二本目の街灯から二歩内側。
「来た」
通りの向こうから、ギルド副支部長が現れる。妻が連れ添っている。船問屋の主の妹だ。
副支部長は何度も振り返っていた。誰かに見られていないか、確認している。
誰にも、見られていない。
ライサが石壁から出た瞬間、副支部長の顔が灯火の下で固まる。妻が小さく悲鳴を上げて、夫の腕を掴んだ。
「……どうして、ここに」
ライサは捕縄を引き寄せながら、淡々と告げた。
「お前が動く理由は、全部、指示書一枚の中だ」
その時だった。
妻が、捕縄に向かって伸ばされた夫の腕に縋りつくふりをしながら、上着の袖の内側に何かを素早く差し込んだ。
ライサは見逃さなかった。
「ナイル、夫の上着、袖を確認しろ」
ナイルが副支部長の左袖から、薄い油紙の包みを引き出す。妻の顔から血の気が引いた。
「……これは、夫のための」
「黙れ」
ライサは包みを証拠袋に収めた。捕縄を引きながら、副支部長の妻の手が、夫の上着から離れていく。船問屋の門の灯が、二人の足元に届かないまま暗く揺れている。
あの女は、夫が脱税で稼いだ金で何を買ってきたのだろう。
指示書には、書かれていない。
◇
同じ頃、冒険者ギルド支部・東倉庫。
ガロウは支部長の私室にいた。暖炉裏の煉瓦三段目を抜くと、指示書通りに鍵が出てくる。東倉庫の床下、深さ二尺で板に当たった。オーク材の箱。錠は三段歯車式で、回す順序まで指示書に書かれていた。
中には、二重帳簿、架空名義の取引記録、ギルド副支部長の私印。指示書のリスト通りに並んでいた。
マルクが息を漏らす。
「俺たちが踏み込むと、知らなかったわけじゃないだろうに」
「捨てられなかったんだろう」
ガロウは右肩で箱を背負った。左肩の旧傷は、今夜、痛まなかった。
◇
明け方。
ライサは港から本部へ戻った。副支部長の身柄は地下三階の独房棟へ。妻は別棟の証言室へ。所持品は第二局証言室の棚に並べさせた。袖から出た油紙の包みは、棚の上段に置かれている。
ガロウと並んで書庫の階段を降りた。地下三階よりさらに下、湿った石段。
書庫の扉の前で、ガロウが一度だけ叩く。
扉の向こうで、ペンが紙を擦る音だけが続いている。途切れない。
「指示書通りでした」
ガロウが告げる。返事はない。ペンの音だけが続いた。
ライサは扉に手の甲を触れた。冷たい。湿った石の匂いに、インクの匂いが薄く混じっている。
階段を上がりかけたとき、上からナイルが駆け降りてきた。息を切らせている。
「ライサ」
「どうした」
「副支部長が、独房で死んだ」
ライサの足が、石段の途中で止まった。
「捕縛から、三刻も経っていない」
ナイルは声を落とした。
「首を絞められていた。看守は誰も気づかなかったと言っている」
ガロウが息を吐く。階段の壁に、ライサは一度だけ手をついた。冷たい石が、手のひらに張りつく。
「殺させたな」
ガロウが短く呟いた。
階段の上から、局長の声が降ってきた。
「ライサ。独房棟・第七号へ降りろ。確認したら、書庫まで戻ってこい」
◇
独房棟、第七号。
ライサは扉の前に立った。看守長が脇に控えている。
「副支部長への面会者は」
「ゼロです」と看守長が即答した。「面会簿、確認済みです」
「鍵管理台帳は」
「私の腰から離れていません。貸出記録は今夜分すべて空欄です」
「勤務交代は」
「通常時刻通りです。一分のずれもない」
「看守の食事は」
「全員、検食済みです。前夜から今朝まで、毒見の記録に異常はありません」
「差し入れは」
「早朝の犯行です。差し入れ時間帯ですらありません」
ライサは独房の扉に額を寄せた。冷たい鉄が、肌に張りつく。
全部、白だ。
普通の密室殺人なら、どこかに穴がある。看守の食事に何かが盛られた、鍵が一瞬でも離れた、面会簿に偽名がある、勤務交代の時刻に二、三分のずれがある。そのどれかに、穴がある。
ここには、穴がない。
穴がない、ということは、ここを通っていないということだ。
ライサは振り返らずに、看守長に告げた。
「副支部長の所持品は」
「第二局証言室の棚です。捕縛時の物も、含めて」
ライサは独房棟の階段を降りていった。書庫はその下にある。
◇
書庫の机の上には、第二局証言室から運ばれた所持品が並んでいた。
上着、靴底の泥を擦り取った紙、財布、副支部長の私印——そして、ライサが袖から引き出させた油紙の薄い包み。
クロイスは顔を上げない。万年筆の先がインクから一度だけ離れた。
「独房棟は」
「全部、白でした」
ライサが答えた。声の調子は、自分でも意外なほど淡々としていた。
「それなら、ここを読みます」
クロイスは油紙の包みを取り上げた。指先で、折り目を一度だけ撫でる。
「油紙の折り方が、王都の薬種商では使われていません。地方型です。北東、ベルヌス領あたりまでで流通する折り。王都に流れる経路は、宮廷御用ではない、市販の卸し」
包みの中から、薬包紙が一つ出てきた。粉末がわずかに残っている。
「薬包紙の透かしが、王立薬院の指定型ではありません。市販の安物。これも、宮廷御用ではない経路」
「中身は」
「副支部長の妻の出産月に、家計簿に鎮静薬の購入記録があります。同じ薬種商の同じ薬包紙です。妻は、今夜、夫を眠らせる気だったのでしょう。眠らせて、自分の実家の船に運び込む」
ライサの背中に、寒気が走った。
「じゃあ、独房で死んだのは」
「妻の薬ではありません」
クロイスは薬包紙の角を、ピンセットで持ち上げた。
「妻の薬は、夫を眠らせるだけです。死なせるには、量も処方も足りません。妻には、夫を殺す動機もない」
「だったら、誰が」
「現時点では、特定できません」
クロイスはペン先をインクに沈めた。七枚目の指示書の余白に、新しい一行が書かれる。
「ただ、妻が薬を入手できる経路があるなら、別の誰かが同じ経路で別の物を渡せる」
ライサは、その一行を覗き込んだ。
〈妻の購入薬種商と、独房棟出入り業者の名簿の重なり〉
「殺した犯人を、追わないのか」
「先に経路を読みます」
クロイスは顔を上げない。
「犯人は、経路の終点にいます。経路を読まずに犯人を追うと、犯人だけが捕まって、経路が残ります。残った経路は、次の誰かに使われます」
ライサは何も答えなかった。机の上の油紙の包みを、一度だけ見た。妻が、港の闇の中で、夫の袖に差し込んだあの包み。包みの折り目は地方型の折り。書庫の机の上で、薄く反ったまま、まだ閉じきっていなかった。
ライサは振り返らずに書庫を出た。
階段の途中で、自分の手の中に何も持っていないことに気づく。今夜、剣を抜かなかった。捕縄を引いただけだった。指示書は、まだ出ていない。これから出る。
扉の向こうで、ペン先がインクに沈む音が、もう一度した。




