第五話 温泉と色浴衣、四国転生の福利厚生が手厚すぎる
通された客室は、私が想像していた『老舗旅館の部屋』とは少し違っていた。
襖と障子。
低い座卓。
窓際の椅子と小さな丸テーブル。
そこまでは、いわゆる旅館らしい空間だった。
けれど畳の奥には、低めのベッドが二つ並んでいる。
照明はまぶしすぎず、壁際の間接照明が木目の天井をやわらかく照らす。
古いものを残したまま、必要なところだけ今の形に整えたような部屋。
「……わぁ」
畳の青い匂いと、磨かれた木の匂い。
それだけで、肩の力が少し抜けた気がした。
窓の外には、道後の町並みが見えた。
遠くに見える山の稜線が、夕方の光を受けて紫がかり始める。
知らない町の景色なのに、不思議と冷たくはなかった。
「こちらが館内のご案内です。大浴場は一階奥にございます。女性のお客様は、こちらの色浴衣もお選びいただけます」
「色浴衣……」
その言葉だけで、急に旅館に来た実感が湧く。
部屋の隅には、淡い色の浴衣が何枚か掛けられている。
白地に青い花。
薄桃色に小さな葉の模様。
それから、みかん色に近い柔らかな橙色の浴衣。
「うわ、可愛い!」
「お好きなものをどうぞ」
「え、いいんですか?」
「もちろんです。宿泊のお客様ですから」
曽我部さんはごく普通のことのように言う。
けれど、今の私は、その普通の親切だけで胸にくるものがあった。
私は仕事を辞めた。
結婚もなくなった。
転職活動も全滅した。
失業手当も終わった。
そんな私が、どういうわけか愛媛の旅館で、色浴衣を選んでいる。
しかも目の前には、やたら顔のいい若旦那。
肩には、みかん色の広報神。
人生、何が起こるかわからないにもほどがある。
肩の上で、いよぴよさんが偉そうに胸を張った。
「ほやけん、四国転生は福利厚生が手厚いんよ」
「福利厚生って言った。やっぱり転職じゃないの」
「転生なんよ」
「転職でしょ」
「転生」
「転職」
「焼き鳥にされる前に黙るけんねぇ」
「……瀬川様?」
曽我部さんの声に、私ははっと我に返る。
やばい。また何もない空間に向かって会話をしている人に見えたかも。
「すみません、独り言です」
「……そうですか」
完全に、納得していない顔。
けれど曽我部さんはそれ以上は何も聞かず、静かに一礼した。
「お食事は十九時にお部屋へお持ちします。それまで、よろしければ温泉でお疲れを癒してください」
「温泉……!」
その単語に、背筋が伸びた。
そうだ。私は愛媛に来たのだ。
しかも道後の旅館。
温泉。
大浴場。
広い湯船。
肩まで浸かって、何も考えずにふやけても許される場所。
「入ります。すぐ入ります」
「それはよかったです。長旅でお疲れでしょうから、どうぞごゆっくり」
そう言い残して、曽我部さんは部屋を出ていった。
襖が静かに閉まる。
その音が消えたのを確認して、畳の上にへたり込む。
「……顔がいい」
「そこなん?」
「そこよ。なにあの顔。送迎係の人がなんであんなに所作まできれいで、声も落ち着いてて、何なの」
「若旦那やけんねぇ」
「若旦那、怖い。顔面が宿泊特典すぎる」
「最初の取材先なんよ」
「取材対象の顔面偏差値が高すぎると、広報が浮つくんですけど」
「数字は取れそうやけんねぇ」
「そういう問題じゃない」
畳に座ったまま、私はそろそろと色浴衣の方を見た。
白地の浴衣も、薄桃色の浴衣も可愛い。
でも、どうしてもあの柔らかな橙色に目が行く。
完全に、愛媛の思うつぼ。
「……温泉入ってから考えよっかな」
「それがええんよ。まずは身体を休めるんよ」
「急に神様っぽいこと言わないで」
「広報神やけんねぇ」
私は深く息を吐き、畳の上に置いたバッグへ手を伸ばす。
まだ仕事は始まっていない。
契約社員、期間は半年。
その文字は頭のどこかに残っている。
それでも今だけは、温泉と浴衣と夕食のことだけ考えていたかった。
深く息を吐いてから、浴衣を見る。
せっかくなので、橙色の浴衣を選ぶ。
みかん色のゆるキャラに負けた気がして少し不快な気がしたけれど、今の気分には一番合っていた。
明るすぎず、派手すぎず、袖を持ち上げると、夕方の光を少し含んだみたいにやわらかい色。
浴衣に着替え、備え付けの巾着に部屋の鍵を入れる。
慣れない帯に少し手間取ったけれど、鏡に映った自分は、東京のワンルームでお祈りメールを削除していた女とは別人みたいだった。
いや、中身は同じなのだけれど。
少なくとも、見た目だけは旅行中の人間に見える。
アメニティの袋を開けると、ふわりと柑橘の香りがした。
シャンプー、コンディショナー、ボディソープ。
どれも、ほのかに甘酸っぱい香りがする。
「……愛媛、ブランディングが徹底してる」
「柑橘王国やけんねぇ」
「そこは可愛い」
「ワシも可愛いやろ?」
「それは別」
「ひどいんよ」
いよぴよさんを肩に乗せたまま部屋を出ようとして、立ち止まった。
「……温泉まで来る気?」
「当然なんよ」
「女湯よ?」
「ワシ、広報神やけん」
「種族の問題じゃない。存在が邪魔」
「ぴよっ」
私はいよぴよさんを掴み、座布団の上に置いた。
羽毛越しの小さい体はむにっとしていて、思わずにぎにぎとしたくなる。
「留守番」
「ゆるキャラ監禁反対けんねぇ!」
「キャリーに詰めてもいいんだけど?温泉にまでついてきたら焼き鳥」
「留守番するんよ」
やけに物わかりが早い。
焼き鳥の一言で黙る神様、威厳がなさすぎる。
私は座布団の上で丸くなるいよぴよさんを置いて、廊下へ出た。
館内は静かで、畳敷きの廊下を歩くたび、足の裏にやわらかな感触が伝わる。
壁際の照明は低く、ところどころに飾られた花や器が、派手すぎない華やかさを添えていた。
大浴場へ向かう途中、中庭が見えた。
石灯籠のそばを小さな水が流れ、夕暮れの空を映している。
廊下の向こうから、誰かの小さな笑い声と、下駄の音がかすかに聞こえた。
東京では、こんなふうに歩いたことがなかった。
いつもなんでか急いでいた。
駅まで走って、電車に駆け込んで、会社で謝って、帰って寝る。
お風呂だって、シャワーだけで済ませる日がほとんど。
熱いお湯を浴びながら、明日の面接のことや、返信の来ないエージェントのことを考えていた。
それが今は、浴衣で旅館の廊下を歩いている。
「……変なの」
自分で選んだ道ではない。
半分は追い詰められて、半分は怪しい内定承諾書に釣られて、ここまで来てしまった。
それでも、ほんのちょっとだけ。
悪くないかもしれない、と思ってしまった。
大浴場の暖簾をくぐると、脱衣所には木の香りが満ちていた。
籠に浴衣を入れ、身体を流してから湯船に向かう。
引き戸を開けると、白い湯気がふわりと顔を撫でる。
広い湯船に、磨かれた石の床。
外へ続く露天風呂の向こうに、夕暮れの空がのぞいている。
そっと足を入れる。
「あっつ……でも、気持ちいい~~~……」
肩まで浸かると、身体の奥に溜まっていた力が、ゆっくりほどけていくのがわかった。
指先までお湯がまとわりついて、固まっていた肩が少しずつ沈んでいく。
ああ、私、こんなに力を入れて生きていたんだ。
目を閉じると、この半年であったことが浮かんでくる。
岡山で見つけたレシート。
淳一の青ざめた顔。
四百五十九通のお祈りメール。
失業手当の残り日数。
ひとつ思い出すたび、気持ちが重くなる。
けれど、その重さも湯気の向こうに少しずつ輪郭をなくしていった。
完全に消えたわけじゃない。
傷ついたことも、失ったものも、なかったことにはならない。
でも、今だけは遠い。
「……温泉、最高」
声がこぼれる。
誰もいない貸し切り状態の浴場に、自分の声が小さく響いた。
こんなにあったかい場所で、こんなに静かに息をしているのは、いつ以来だろう。
お湯の表面に映る夕方の光が、ゆらゆらと揺れている。
私の人生も、たぶん今、ものすごく揺れている。
何一つまともじゃない。
まともじゃないのに、湯船の中でぼんやり天井を見上げていると笑えてくる。
明日から働くのは嫌だけど。
この温泉に毎日入れるなら、少しくらい頑張ってもいいかもしれない。
そう考えてしまった時点で、私はもう、愛媛の沼にはまっていた。
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