第二十三話 島の香りに『岬』と名前をつけられました
「これ、どうですか?」
亮平さんから渡された試香紙を振って香りを確かめると、さっきよりもずっと複雑な香りになっていた。
最初に柚子の爽やかさが来る。
そのあと、みかんの甘さ。
最後に、花と木のやわらかい香りが残る。
明るいのに、少し落ち着く。
甘いのに、どこか背筋が伸びる。
「……好きです、これ」
素直に言葉が出た。
「よかった。では、それにしましょう」
「はい」
小さなガラス瓶に、完成した香水が注がれる。
淡い琥珀色の液体が、光を受けてきらめく。
店員さんが蓋を閉め、ラベル用の紙を差し出してくれる。
「香りの名前、どうされますか?」
「名前、決められるんですか?」
急に難しい。
柚子。
みかん。
ジャスミン。
しまなみ。
島の風。
海。
橋。
頭の中にいくつも言葉は浮かぶのに、どれも少し違う気がする。
「……だめです。全然出てきません」
私は小さく白旗を上げた。
「美咲さん。僕が付けても構いませんか?」
「あ、はい。お願いしてもいいですか?」
そう言うと、亮平さんは考えるように、目の前の小さな瓶を見た。
淡い琥珀色の液体が、窓から入る光を受けて、優しくきらめいている。
「……『岬』、はどうでしょう」
「みさき?」
思わず聞き返してしまった。
それは、私の名前と同じ響きだった。
亮平さんは、何事もないように続ける。
「島の道を抜けた先に、海へ向かって開ける場所のような香りなので」
「そ、そういう意味ですか」
「はい」
本当に?
本当に、それだけ?
そう聞きたいのに、聞けない。
柚子の明るさ。
みかんの甘さ。
ジャスミンのやわらかさ。
それから、木の落ち着いた香り。
その全部に、私の名前と同じ響きがつく。
「……変じゃないですか?」
「似合いますよ。この香りにも、美咲さんにも」
私は顔を逸らしながら、ラベルに小さく『岬』と書く。
たった一文字なのに、その文字まで見られている気がして、やけに落ち着かない。
その隣で、亮平さんも別の瓶を手に取っている。
「あれ?亮平さんも作るんですか?」
「はい」
「どんな香りにするんです?」
「同じ系統で」
「同じ?」
「美咲さんのものより、少し落ち着いた香りにします。柚子を控えめにして、木の香りを少し強めに」
「へえ……」
「並べた時に、違和感がないように」
「並べる?」
言ってから、亮平さんは間をおいて黙った。
そして、何事もなかったように続ける。
「……旅館の売店に並べる時の参考です」
「あ、なるほど。商品開発ですね」
「はい」
「ステキだと思います」
店員さんが、亮平さんの分のラベル用紙も差し出した。
「こちらのお名前はどうされますか?」
「……少し考えてもいいですか」
亮平さんはそう言って、私の香水の瓶を一度だけ見た。
私のラベルには、小さく『岬』と書かれている。
自分の名前と同じ響きだからか、見るたびに落ち着かない。
亮平さんは、さらさらと何かを書いた。
その手元を、つい見てしまうけど、大きな手に隠されてよく見えない。
けれど、一瞬だけ。
最後の一文字に、『咲』の字が見えた気がした。
「亮平さん」
「はい」
「今、何て書いたんですか?」
「僕の香水の名前です」
「それは、そうなんですけど」
「秘密です」
「秘密?」
そのまま、何事もなかったようにラベルを瓶に貼り、ラベルの貼られた小瓶を大事そうに箱へ戻した。
まるで、宝物のように。
「なんで秘密なんですか」
「少し、気恥ずかしいので」
「亮平さんでも、気恥ずかしいとかあるんですね」
「ありますよ」
そう言って、亮平さんは小さく笑った。
その笑い方があまりに穏やかで、私はそれ以上聞けなくなる。
私の香水は、明るい柚子とみかんの香り。
亮平さんの香水は、それより少し落ち着いて、木の香りが深い。
似ているのに、同じではない。
「……なんか、ペアみたいですね」
言った瞬間、口を押さえた。
しまった、私は何を言っているのか。
「そうですね。ペア、ということで」
「い、いや、今のは言葉のあやですよ!?」
「僕は気に入りました」
「気に入らないでください!」
なんで否定してくれないのか。
そこは、大人として軽く流すところではないのか。
そんなふうに言われてしまうと、亮平さんの手で見えなかったあのラベルの文字が、私の中で確信に変わってしまう。
亮平さんは、香水の入った小さな箱を二つ手に取り、会計へ向かう。
「本当に買ってくれるんですか?」
「約束しましたから」
「でも、取材費として処理できるかは微妙ですよ?」
「個人的な贈り物なので、気にしないでください」
「……個人的な」
その言葉が、香水より強く胸に残ってしまう。
取材でも、商品開発でも、売店の参考でもなく。
個人的な贈り物。
それはもう、かなり危ない言葉ではないだろうか。
少なくとも、私の心臓には危ない。
店を出ると、島の風が頬に当たった。
私は小さな紙袋を両手で持つ。
中には、亮平さんが選んでくれた香り。
「……ありがとうございます」
「気に入っていただけましたか?」
「はい。すごく……明日から、使います」
亮平さんの手にも、同じ店の紙袋が。
「いい思い出になりました」
「それはよかったです」
しまなみ海道の、思い出。
香水作りの、思い出。
それから、亮平さんが私のために香りを選んで、名前を付けてくれた思い出。
そこまで考えて、慌てて視線を逸らす。
また余計なことを考えてしまう。
肩の上で、いよぴよさんが小声で言う。
「恋の思い出なんよ」
「黙って」
「当たっとるけんねぇ」
「伯方の塩をまぶすぞ」
「塩対応なんよ!?」
私はいよぴよさんを睨みつけながら、紙袋を胸に抱えた。
香りはまだ瓶の中に閉じ込められているはずなのに、なぜかずっと、柚子とみかんの甘酸っぱい匂いが自分の周りに漂っている気がした。
たぶん、気のせいだ。
でも、その気のせいまで大事にしたいと思ってしまう。
紙袋の持ち手が、指に少し食い込む。
それすら、今だけは浮ついた私を現実につなぎ止める細い紐みたいで。
香水の瓶は小さいのに、今日の思い出を閉じ込めるには、十分すぎるほど重かった。
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