第十七話 しまなみ取材当日、若旦那の私服の破壊力が高すぎる
あのバズった投稿の日から、一か月。
SNSの反応は、順調に増え続けていた。
フォロワーも、コメントも連日増えている。
『愛媛の元カノ』という不本意すぎる呼び名も、なぜかすっかり定着してしまった。
そして、今日は念願のしまなみ海道の取材。
この日に合わせて何日も前から、服装を決め、髪型を検索した。
天気予報も何度も見た。
海沿いは風が強いかもしれないから、髪はまとめた方がいいのか。
でも、写真や動画に映るなら、少しは下ろした方が雰囲気が出るのか。
悩んだ結果、結局いつもより少しだけ手間をかけた髪型になった。
「張り切りすぎなんよ」
「仕方ないでしょ!」
メイクも、いつもより気合いが入ってしまう。
日焼け止めを塗って、下地を整えて、ファンデーションは薄めに。
今日は海と空が主役なんだから、顔だけ浮いても困る。
「デートやねぇ」
「……デート!?」
突然のいよぴよさんの爆弾発言に、グロスを持つ手が止まった。
「しまなみ海道はドライブデートの定番なんよ」
「定番とか言わないで」
「橋、海、島、車。どこを切ってもデートなんよ」
何度も乗ってきたはずの亮平さんの車が、私の中で突然別の意味になってしまう。
助手席。
長い道のり。
海沿いの景色。
朝から丸一日一緒。
並べて考えると、意味深な言葉ばかり。
いや、意味深だと思うから、そう感じるだけ。
仕事として、広報官として、しまなみ海道を取材するだけ。
「……チーク塗りすぎやけんねぇ」
「まだ、塗ってない……」
「そうなんね」
含みのあるいよぴよさんの言葉に、イラッとする。
でも、その一言のおかげで、平静を取り戻せた。
そう、今日はあくまで仕事なんだから。
……今日に限らずだけど。
『着きました』
スマホに表示されたメッセージを確認する。
いつもは亮平さんの仕事の合間に、取材の同行をお願いしている。
旅館のチェックアウト後からチェックイン前までの、限られた時間。
それが今日は、朝から丸一日一緒だなんて。
こんなの、にやけない方が無理じゃないかと思う。
いや、にやけてはいけない。
仕事に向かう顔を作らなければ。
鞄を取り、玄関に向かう。
「待つんよ〜」
「ちっ」
「舌打ちなんて、ガラが悪いんよ!」
パタパタと飛んで、ちゃっかり肩に乗ってくるいよぴよさん。
素知らぬ顔で置いていこうと思ったのに。
こういう時だけ、無駄に察しがいい。
マンションから出ると、車の外で待っている亮平さんの姿が。
目が合うとすぐに、私はその場にしゃがみ込む。
「美咲さん?どうしました?」
「いえ……その、破壊力が……」
ゴールデンウィーク前後は亮平さんが忙しくて、会ったのは二週間ぶり。
いつもの亮平さんは、伊予乃宿 月橘の若旦那で、言葉遣いも所作も整っていて、どこか一歩引いた場所にいる人。
背筋も視線も、宿の空気ごと背負っているみたいに見えた。
けれど今日の亮平さんは、ただ休日に車で迎えに来た、二十八歳の男の人。
白いシャツに、薄手のジャケット。
濃い色の細身のパンツに、歩きやすそうな革靴寄りのスニーカー。
旅館の名が入った羽織も、きっちり締めたネクタイもない。
それだけなのに、印象がまるで違う。
肩の力が少し抜けていて。
車にもたれる立ち姿も自然で。
こちらを見つけた時の表情も、若旦那としてのお客様対応ではなく、私を待っていた人の顔に見えてしまう。
久しぶりに会ったのに、このビジュアルは心臓に悪過ぎる。
「美咲さん?」
「……はいっ」
名前を呼ばれて、我に返る。
「何か変でしたか?」
「いえ!変じゃないです!」
勢いよく否定しすぎて、余計に怪しくなってしまう。
「では?」
「その……私服、初めて見たなと思って」
言ってから、しまったと思った。
何をわざわざ口に出しているのか。
これでは、まじまじ見ていましたと自白しているようなものだ。
亮平さんは一度だけ目を瞬かせ、それから笑う。
「そういえば、そうですね」
「いつも旅館の服だったので」
「今日は長く車に乗りますから、動きやすい方がいいかと思いまして」
「なるほど。取材ですもんね」
「はい。取材です」
取材です、と言った亮平さんの声は、いつも通り落ち着いていた。
「デートなんよ」
「黙って」
「……何か?」
「いえ、何でもありません!」
亮平さんは何も言わなかった。
けれど、なぜか楽しそうに見えた。
「では、行きましょうか」
「はい」
助手席のドアを開けてもらう。
これも、何度もあったことなのに、今日はやけに意識してしまう。
乗り込む前に、亮平さんがふと私を見る。
「今日の服、海に合いそうですね」
「え」
「淡い色なので、写真にもきれいに映ると思います」
「あ、ありがとうございます……」
仕事の話だ。
写真映えの話だ。
わかっている。
それでも、服を褒められたことに変わりはなくて、私はシートベルトを引き出しながら、視線を窓の外へ逃がした。
「チーク、いらんかったんよ」
「うるさい」
小さく返した声は、エンジンの音に紛れて消えた。
他愛もない話をしながら、亮平さんが運転席に乗り込む。
ドアが閉まると、車内は外より静かになった。
「今日は距離もありますし、疲れたらすぐに言ってください」
「ありがとうございます」
エンジンの低い振動。
窓の外で、朝の光が車体に反射している。
いつもと同じ人なのに、今日は服が違う。
服が違うだけで、なんでこんなに緊張してしまうんだろう。
「……今日は、朝からいいことがありましたか?」
「へっ!?いいこと、ですか?」
運転席に座る亮平さんに、じっと見つめられる。
亮平さんの私服を見られたことが、すでにいいことです。
なんて言えるわけがない。
そんなことを言ったら、出会った頃に見かけた亮平さんの追っかけと変わらない。
私は本音を飲み込み、必死に別の理由を探す。
いいこと。
いいこと。
「あっ!シャンプーとか一式、柑橘系にしてみたんです。そしたら、すごく調子がよくて」
「そうなんですか」
「はい。ほら、いつもよりまとまりが」
言いながら、私は毛先を少し持ち上げて見せた。
その時は、本当にただの話題そらしのつもりだったのに。
なのに。
ふいに、亮平さんの顔が近づいた。
「本当だ」
低い声が、耳元に落ちる。
「甘酸っぱい香りがしますね」
「!……っ」
彼の指先が、私の髪に優しく触れた。
耳の横で、さらりと髪が揺れる。
近い。
近い近い近い。
車内はさっきまでよりずっと静かで、息の仕方までわからなくなる。
固まったまま、瞬きも忘れてしまう。
「みかん、というより……少し花の香りも混じっていますか」
「た、たぶん、ジャスミンとか……だった気が、します……」
「似合います」
ただでさえ、車の中で距離が近いのに。
さらに近い距離でそんなことを言われたら、逃げ場がない。
「よかったら、途中にいいお店があるので、香水をプレゼントしますよ」
「本当ですか!?」
顔を上げると、亮平さんの目元が優しい。
「ええ。美咲さんには、柑橘の香りがよく合うと思います」
「嬉しいです。自分で選ぶと、いつも同じようなのになっちゃうので」
「では、選ばせてください」
「はい!」
答えてから、気づく。
亮平さんは、まだ髪から指を離していない。
きちんと手入れがされたきれいな指先が、私の髪をそっとなぞる。
触れているのは、ほんの少しなのに、そこだけ体温を持ったみたいにはっきりわかる。
意識すればするほど、頬に熱が集まっていく。
「……同じ香りも、悪くないけん」
「え?何か言いました?」
「いえ、何も」
そう言って、亮平さんは何事もなかったように手を離し、ハンドルを握った。
何もなかった。
何もなかったはずなのに。
さっきまで普通に吸えていた空気なはずなのに甘い。
柑橘と花の香り。
それから、亮平さんの低い声の余韻。
車内の空気だけが、出発前から別のものに変わってしまった気がした。
「……若旦那、出発前から彼氏面フルスロットルけんねぇ」
「は?何言ってんのよ。橋の上から落とすぞ」
「と、飛べるんよ!?」
「飛べるなら問題ないでしょ」
「問題あるんよ!」
肩の上で騒ぐいよぴよさんを無視して、私は窓の外を向いた。
仕事。
これは取材。
しまなみ海道の取材。
気を逸らしたいのに、耳の横に残った指先の感触だけが、どうしても消えてくれない。
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