第1話 三つ数えたら
運び込まれた負傷者は七人だった。
救護所の土間に戸板が並び、付き添いの声が天井まで響いている。市場裏の倉庫で積み荷が崩れたらしい。ミリアは袖をまくりながら戸板の間を歩いた。
「血が出てる奴から診てくれ!」
大柄な荷運び人が叫んだ。太腿に巻いた布が赤く重くなっている。隣では若い男が腕を押さえて呻き、その向こうでは十歳くらいの女の子が母親の膝に座っていた。女の子だけが静かだった。
「おじさん、手をここに。強く押して」
ミリアは荷運び人の手を取って傷の上へ置かせた。布の上から自分の掌も重ね、治癒の力を細く流す。裂けた血管の縁が寄っていくのが指先に伝わった。全部は塞がない。血が止まる分だけでいい。
「縫うのは後。この手は離さないでね」
「お、おう」
次の戸板へ移ろうと立ち上がり、ミリアはもう一度女の子を見た。
母親が娘の髪を撫でている。額に小さなこぶがあるだけで、泣いてもいない。けれど女の子の目は母親の顔ではなく、少し横の壁を見ていた。
「お名前は?」
ミリアがしゃがむと、女の子はゆっくりこちらを向いた。
「……リタ」
「リタ。今日は何を食べた?」
「……」
答えまでの間が長すぎた。右と左で瞳の大きさが違う。
「この子を先に診ます」
「でも、この子は平気で。転んだだけだって」
「平気に見えるのが怖いの」
ミリアは母親の手ごとリタの頭を両手で包んだ。頭の中で何かが滲んでいる。骨の内側に溜まりかけた血を、急がず少しずつ散らしていく。治癒はこういうときが一番疲れる。どこまで流せばいいのか目では見えないからだ。
額の汗が顎まで落ちたころ、掌の下で滲みが止まった。散らした血がもう溜まってこない。ミリアは手を離さずにもう一度訊いた。
「リタ。今日は何を食べた?」
「……お粥。お母さんが作ったの」
今度はすぐに答えが返ってきた。瞳の大きさも揃っている。リタは顔をしかめて母親を見上げた。
「お母さん、頭痛い」
母親が泣き出した。ミリアはやっと息を吐いた。
「添え木を! 次は腕の人。それと包帯をもっと」
返事をしたのは見習いの救護員だった。困った顔で空の棚を指さす。
「包帯はさっきので最後です。添え木も足りなくて。薬屋さんが今朝から掛けでは出さないって」
「掛けって」
「神殿の支払いが三か月止まってるそうで」
ミリアは自分の前掛けを見下ろした。裂けば三本くらいにはなる。けれど腕の男は骨が折れているから、布だけでは固定できない。椅子の脚でも外すしかないかと考えたとき、戸口で荷車の音が止まった。
「添え木が二十、包帯が四箱。それから傷を洗う酒。足りなければ言いなさい」
よく通る声だった。藍色の外套を着た女が、荷車から箱を下ろさせている。その後ろでは薬屋の主人が帽子を握りしめていた。
クラウディア・ヴァレンシュタイン。帝国の財政と兵站を預かる実務官で、ミリアの知る限り一番口の悪い役人だ。
「支払いが止まってるって聞いたけど」
「止まっていたのは神殿の会計係の机の上よ。承認の印が一つ足りなかっただけ。今朝押させてきた」
クラウディアは書類を一枚ひらりと振った。薬屋の主人がそれを見て何度も頭を下げる。
「三か月分を今朝?」
「今朝でなければ今日の怪我人に間に合わないでしょう」
箱を受け取った見習いが走っていく。ミリアは添え木を一本抜き取り、腕の男の戸板へ戻った。
「ちょっと痛いよ。三つ数えたら引っ張るからね」
「三つ、ですか」
「一つ」
二で引いた。男の悲鳴が上がり、骨が元の位置へ収まる手応えがあった。添え木を当てて包帯を巻き、腫れ始めた肉に力を少しだけ流す。
「三って言ったのに……」
「三まで待つと力が入っちゃうから」
背後で小さく鼻を鳴らす音がした。振り返ると、クラウディアが戸口にもたれて腕を組んでいた。笑ったのか呆れたのか、ミリアには見分けがつかなかった。
* * *
負傷者を全員寝台へ移し終えたのは、昼の鐘がとうに鳴った後だった。
ミリアは救護所の裏口に腰を下ろし、井戸水で手を洗った。指先がまだ少し痺れている。リタの頭を診たときの疲れが今ごろ腕に下りてきた。
「三つ数えるなら三つで引きなさい」
頭の上から声がした。クラウディアが外套の裾を払いながら隣に立つ。座る気はないらしい。
「見てたの?」
「見ていたし聞いていたわ。あれは詐欺よ」
「治療だよ。あの人、三まで数えたら絶対に腕に力を入れてた」
「なら最初から二と言えばいいでしょう」
「二って言ったら一で力を入れるでしょ」
クラウディアは口を開きかけて閉じた。反論を探している顔だった。ミリアは濡れた手を前掛けで拭いた。
「それに、あなたに言われたくない。会計係の机で何をしたの」
「印を押させただけよ」
「押させたって言い方がもう怖いんだけど」
「三か月放っておかれた書類を本人の前で一枚ずつ読み上げたの。どの承認が誰の机で止まっていたか。大きな声で」
「それ、脅したって言うんだよ」
「事実を読んだだけ。顔色が悪くなったのは向こうの都合でしょう」
ミリアは吹き出しかけて慌てて口を押さえた。ここで笑ったら負けな気がした。
「……でも助かった。ありがとう」
「仕事よ」
クラウディアは短く答えて目を逸らした。礼を言われると返事が雑になるのは昔からだ。
二人が知り合ったのは二年前、ミリアが聖女として神殿に迎えられた頃だった。救護所の予算も聖女の旅費も、帝国の補助金を通る。その窓口にいたのがこの人で、最初の面会で「聖女の衣装代が高すぎる」と言われた。ミリアは「去年あなたが買い込んだ冬用の毛布、倉庫で夏を越してますよ」と返した。毛布の追加発注はその日のうちに取り消された。それ以来ずっとこういう調子だ。
「それで、どうしてここにいるの。補助金の視察?」
「灰門よ」
ミリアは顔を上げた。
「灰門って、河港の? 私もそこへ行くんだけど。救護の応援で」
「知っているわ。応援の名簿を通したのは私だもの」
クラウディアは書類入れから紙を一枚抜いた。帝国の印が押された補給の報告書だった。
「灰門の補給と復旧の調整を任されたの。灰門行きの便が、もう三日遅れている」
「三日」
「船が遅れること自体は珍しくない。でも今度は理由の報告が来ないの。理由の書いていない遅れは嫌いよ」
ミリアは報告書を覗き込んだ。数字の並びは読めても、それが良いのか悪いのかは分からない。分かったのは、クラウディアの指が紙の端を何度も叩いていることだけだった。
「急いだほうがいいってこと?」
「明日の朝には出るつもり。その前に神殿の定例報告がある。あなたも呼ばれているでしょう」
「あ」
すっかり忘れていた。ミリアは慌てて立ち上がり、前掛けの血の染みを見下ろした。
「着替える時間ある?」
「ないわね」
「あるって言ってよ」
「嘘はつかない主義なの」
* * *
神殿の記録室は、いつ来ても紙と蝋の匂いがした。
「ミリア。その前掛けは何」
机の向こうでセレーネ・オルディスが眉をひそめた。監察官の灰色の上衣に、髪をきっちり一つにまとめている。
「荷崩れがあって。着替えるなってクラウディアが」
「時間がないと言っただけよ」
「同じでしょ」
セレーネはため息をついた。
「せめて外しなさい。それとお昼は」
ミリアは慌てて前掛けを外し、丸めて腕に抱えた。
「……まだ」
「でしょうね」
干し杏の包みが飛んできた。ミリアは両手で受け取って頬を緩めた。神殿に来たばかりの頃、夜中に厨房へ忍び込もうとしてミリアを捕まえたのがセレーネだった。叱られた翌日から、彼女の引き出しにはいつも何か甘いものが入っている。
「あなたたち、知り合いだったの」
クラウディアが意外そうに言った。
「セレーネは私の先生で友達」
「先生になった覚えはないわ。記録の書き方を三回教えただけ」
「三回も教えてくれた」
「三回とも、あなたが患者の話を書き足しすぎて枠からはみ出したのよ」
定例報告は短く済むはずだった。救護所の患者数、薬の残り、灰門への派遣予定。セレーネが書き取り、最後に祭壇の間で祈りを捧げて終わる。聖女になってから何十回も繰り返してきた手順だ。
祭壇の間に入ると、奥の石盤が光っていた。
セレーネの足が止まった。普段なら灰色の石でしかない盤面に、細い線が浮かんでいる。線は文字の形をしていた。古い神殿文字だ。
「……下がって。いえ、そのまま。動かないで」
セレーネの声がわずかに上ずった。ミリアは右手の甲がひりつくのを感じた。見ると、洗ったばかりの肌に淡い模様が浮かんでいる。円の中で二本の線が交わる紋章だった。
「何これ」
隣でクラウディアが手袋を外した。彼女の左手の甲にも同じ模様がある。ただし線の向きが逆だった。
「神託よ」
セレーネは石盤へ駆け寄り、筆記板を構えた。読み取りながら書き写していく指が速い。
「最後に記録されたのは百年以上前……。読みます。正確に読むから、途中で口を挟まないで」
ミリアは頷いた。クラウディアは黙っていた。
「『救済の道を二人に示す。ミリア・エルフェルト。クラウディア・ヴァレンシュタイン』」
「聖女と悪女の組み合わせね」
クラウディアが小さく言った。
「神殿の外に漏れたら、明日には酒場の歌になるわ」
「口を挟まないでと言いました」
ミリアは横目でクラウディアを見た。役所や商会の間で彼女が悪女と呼ばれているのは知っている。予算を削るときに容赦がなく、相手の言い逃れを一つずつ潰していくからだ。本人がそれを知っていることは、今初めて知った。
「続けます。『二人に示された救済の道は、どちらかが命を失えば閉ざされる』」
祭壇の間が静かになった。
石盤の光がゆっくり薄れていく。最後の線が消えると、手の甲の紋章も肌の色に溶けて見えなくなった。触るとまだ少し熱い。
「救済の道って、何の?」
ミリアが訊くと、セレーネは首を横に振った。
「分からない。書かれているのはこれで全部。世界が滅ぶとも、何をしろとも書いていない。だから余計なことは言えないの。紋章も記録も神殿で調べます」
クラウディアは何も言わずに手袋をはめ直した。指先が一度、ミリアの右手のほうへ動きかけて止まった。
セレーネは筆記板を胸に抱えたまま、ミリアの顔を見た。監察官の顔ではなく、干し杏を放ってくるときの顔だった。
「ミリア。灰門へは行くのね」
「行くよ。待ってる人がいるから」
「なら、ちゃんと帰ってきなさい。これは記録には書かないけど」
* * *
神殿を出ると、夕方の風が石段を吹き上げていた。
ミリアは手の甲をさすりながら階段を下りた。紋章はもう見えない。どちらかが命を失えば。さっきの声が耳に残っている。
「ねえ。灰門で危ないことしないでね」
一段下でクラウディアが振り返った。
「それはこちらの台詞よ」
「私は救護をするだけだよ」
「救護をする人ほど危ない場所へ行くの。あなたが死んだら何かを救う道が一つなくなる」
「あなたが死んでもなくなるんだよ」
「私は危ない場所へ行かないわ」
「行かないけど人を怒らせる。会計係の人、今ごろあなたを恨んでるよ。灰門にもああいう人がいたらどうするの」
「怒らせて刺されるほど下手な交渉はしないわ」
「そういうところが危ないって言ってるの」
通りがかった神官が、気まずそうに二人を避けて上っていった。
口が悪くて、礼を言われると目を逸らして、三か月止まった支払いを半日で通してしまう人だ。神託がなくても、いなくなられたら困る。
「じゃあ私があなたを守る」
「却下」
「早い」
「守られる予定はないの。私があなたを生かして帰す。危ない場所へは行かせない」
「危ないところに人がいたら行くよ。それが私の仕事だもん」
「なら行く前に、帰ってこられる段取りを組むわ」
「段取りで間に合わないときは?」
クラウディアはすぐには答えず、階段を一段下りた。
「……あなたも私も生きて帰る。そこは同じでしょう」
「うん。そこは同じ」
「方法は明日の朝、出発前に決める。私の予定表で」
「私の意見は?」
「聞くだけは聞くわ」
クラウディアはもう階段を下り始めていた。ミリアは右手の甲を握り、その背中を追った。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




