↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/6

女の子は誰?

この作品を読んでいただきありがとうございます。

学園を舞台にした恋愛・心理ドラマです。

楽しんでいただければ嬉しいです。

プロローグ ―― 運命に抗い、奪われしものを取り戻すまで


---


ざあああっ……。


雨は、遠慮というものを知らなかった。容赦なく、街全体を叩き潰そうとするかのように降り注いでいる。


俺、キョウイチロウ・カネオは、傘も差さずに、ただ歩いていた。まだ八歳だ。けれど、この雨が年齢を選んでくれるはずもない。


濡れたアスファルトが、街灯の光を歪めて反射している。視界の端で、水溜まりが無数の波紋を描いていた。


ぴしゃ……ぴしゃ……。


革靴が水を踏むたびに、鈍い音が響く。制服のブレザーはもう、重たくて仕方がない。水が襟元から背中へと伝い、冷たい感触が這い回る。


――帰りたくない。


そう思った。あの広くて、静かで、何もかもが整然としすぎている屋敷に、今すぐ戻る気にはなれなかった。


俺は、いつもの道を逸れた。


左に曲がる。細い路地だ。雨樋から落ちる水が、ぽたぽた……ぽたぽた…… とリズムを刻んでいる。壁には落書きがいくつか。誰かの飼い猫が、段ボール箱の下で丸まって俺を見ていた。


もう一度、右に曲がる。


そこは、誰も通らない商店街の裏手だった。シャッターが閉まった店が並び、その隙間から風が吹き抜ける。


ひゅうううっ……。


冷たい風が、濡れた頬を撫でた。思わず目を細める。


俺は走り出した。理由はない。ただ、この雨と、この冷たさから逃げたかったのかもしれない。


ばしゃっ! ばしゃっ!


水溜まりを蹴散らしながら、狭い路地を駆け抜ける。スニーカーではなく革靴だから、足の裏が痛い。けれど、止まらなかった。


突き当たりで、また左へ。


そこは、小さな神社の裏手だった。錆びた鳥居が、雨に濡れて鈍い光を放っている。境内には誰もいない。当然だ。こんな雨の中、参拝に来る馬鹿はいない。


俺は、その鳥居の下で立ち止まった。


肩で息をしている。吐く息が白く濁るほど、気温はもう冬に近かった。


「……はあ……っ、はあ……っ」


自分がなぜこんなに走っているのか、その時になってようやく考え始めた。


――家に、帰りたくなかったのだ。


あの屋敷は、いつも静かすぎる。母は優しいけれど、どこか影がある。父は……もう、ほとんど顔を合わせていない。


考えすぎだ。八歳の自分には、まだわからないことだらけだ。


そう思いながら、俺はゆっくりと歩き出した。


いつの間にか、路地は抜けていた。目の前に広がるのは、小さな児童公園だった。


砂場は水浸しだ。ブランコが、風に揺られてきい……きい…… と不気味な音を立てている。


そして、その奥――


……ぐすっ……


俺は、足を止めた。


雨音の中に、混ざっている。確かに、混ざっている。


……うっ……ううっ……


泣き声だ。


俺は耳を澄ませた。雨足はまだ強い。けれど、その隙間を縫うように、かすかな嗚咽が聞こえてくる。


滑り台の、下からだった。


滑り台の赤い鉄骨は、もう色褪せていた。その下にある、暗い空間。雨を避けられる、わずかな隙間。


俺は、ゆっくりと近づいた。


足音を立てないように。水溜まりを避けながら。


しゃがみ込んで、奥を覗き込んだ。


――いた。


白い髪の、小さな女の子だった。


彼女は膝を抱えて、体育座りで震えている。薄いワンピースは既にびしょ濡れで、細い肩が小刻みに震えていた。顔を膝の間に埋めていて、表情は見えない。


「……おい。」


俺は、できるだけ優しい声を出そうとした。けれど、八歳の声はまだ掠れていた。


女の子は、びくっと反応した。ゆっくりと顔を上げる。


目が、真っ赤に腫れていた。鼻も赤い。頬に張り付くのは、雨粒か、涙か。区別がつかなかった。


「……ここ、危ないぞ。出てこい。」


女の子は、ただぼんやりと俺を見つめた。何かを言おうとして、唇が震えるけれど、声が出てこない。


「ほら、早く。」


彼女は、ゆっくりと首を振った。


「……や、やだ……」


声が掠れている。か細い。


「……ここに、いる……ここが、いい……」


その瞬間だった。


ゴロゴロゴロッ……!


遠くで、雷が鳴った。同時に、空が真っ白に光る。


ドカーンッ!


女の子は、悲鳴をあげた。


「ひゃあっ……!」


彼女は体を縮こませ、さらに滑り台の奥へと逃げ込もうとする。目には、新しい涙が溢れていた。


「おい! 早く! ここは危ない!」


俺は、思わず怒鳴っていた。声が裏返る。


「出てこい! 今すぐだ!」


女の子は、びっくりしたように俺を見た。それから、おずおずと、小さな手を差し出してきた。


指が震えている。冷たかった。氷のように冷たい。


「……っ!」


俺は、その手を強く握った。そして、一気に引き寄せる。


彼女の体は、思った以上に軽かった。風船のように、地面から浮き上がるようにして、滑り台の下から引きずり出された。


彼女は、濡れた砂場の上に座り込んだ。ワンピースが泥だらけになる。


「立てるか?」


女の子は、こくんと頷いた。しかし、立ち上がろうとして、すぐに足を引きずった。


「……いた……」


左膝を見ると、擦りむいていた。血が滲んでいる。雨で洗い流され、傷口が白く浮き出ていた。


「……歩けそうか?」


彼女は、うつむいたまま、もう一度首を振った。


「……っ……ごめん……なさい……」


泣きそうな声だった。


俺は、ため息をついた。そして、彼女の前にしゃがみ込み、背中を向けた。


「……乗れ。」


女の子が、固まった。


「え……?」


「背負ってやる。早く。」


「……で、でも……あの……わたし……重いし……」


「軽い。さっき引っ張った時にわかった。早くしないと、風邪を引くぞ。」


女の子は、しばらく迷っていた。周りには雨だけが降り注いでいる。


やがて、彼女はおそるおそる、俺の背中に手を回した。


ひんやりとした体が、背中に密着する。重さは、ほとんど感じなかった。むしろ、彼女がぶるぶると震えていることの方が、はっきりと伝わってきた。


「……行くぞ。」


俺は立ち上がり、走り出した。


ばしゃっ、ばしゃっ!


水溜まりを蹴る音が、公園に響く。


背中の女の子が、驚いたように体を固くした。


「わ……っ! は、早い……」


「……そんなことない。」


「……すごい……まるで、かぜみたい……」


彼女が、小さな声で言った。まだ涙声だが、さっきよりは少しだけ、しっかりしている。


「……お前の家はどこだ?」


俺は、走りながら聞いた。


女の子は、しばらく沈黙した。


「……その……『さくら通り』の……12ばん……」


「桜通り?」


「……うん。おばあちゃんち……でも、おばあちゃん、今、びょういんにいるの……だから、わたし……ひとりで……」


声が、また震え始めた。


「……ひとりで、おるすばんしてるの……さみしくて……それで、こうえんに……」


彼女は、そこで言葉を止めた。


「……わかった。今は、うちに来い。」


「……うち?」


「ああ。雨が上がったら、送ってやる。」


彼女は、何も言わなかった。けれど、俺の首に回した腕に、少しだけ力が込められた。


その時だった。


後ろから、強い光が俺たちを照らした。車のヘッドライトだ。


ぶるるるっ……。


エンジン音が近づいてくる。


俺は立ち止まり、振り返った。


黒塗りの高級車が、ゆっくりと路肩に停まった。ドアが開く。


ばたんっ。


傘を差した男が、一人。


黒いスーツが、雨に濡れている。髪は短く刈り込まれ、目つきは鋭い。しかし、表情は機械のように無機質だ。


桐ヶ谷蒼平きりがや・そうへい 。カネオ家の執事だった。


「……若様。」


低く、落ち着いた声。


「ご帰宅が遅くなられましたので、香代子様がご心配されていました。お迎えに上がりました。」


俺は、黙って頷いた。


桐ヶ谷は、俺の背中の女の子を見た。一瞬、目が動いたが、それだけだった。


「……そのお嬢様は?」


「公園で泣いてた。置いては帰れなかった。」


「……かしこまりました。」


桐ヶ谷は、それ以上何も尋ねなかった。ただ、後部座席のドアを開けた。


「お乗りください。ご一緒に屋敷へ戻りましょう。」


俺は、女の子を背負ったまま、車に近づいた。


女の子は、目の前の高級車を見上げて、固まっていた。


「……入れよ。大丈夫だ。」


「……う、うん……」


彼女は、おそるおそるシートに腰を下ろした。濡れた体が、高級な革張りのシートを濡らす。彼女は縮こまりながら、「ご、ごめんなさい……」と小さく呟いた。


俺はその隣に座った。桐ヶ谷は静かにドアを閉め、運転席に戻る。


エンジンが静かに唸る。雨が窓ガラスを叩く音が、車内に響く。


ぱたぱた……ぱたぱた……。


沈黙が、重く流れた。けれど、嫌な沈黙ではなかった。


「……あの。」


女の子が、か細い声で言った。


「……さっきは、ありがとう……それと、よごしちゃって、ごめんなさい……」


「気にするな。」


「……あの……お名前、なんていうの……?」


「……キョウイチロウ・カネオ。」


「……かねお……さま?」


「『さま』はいらない。」


「……じゃあ……キョウイチロウくん……?」


俺は答えなかった。けれど、彼女の口調が、少しだけ柔らかくなった気がした。


「……わたし……『ヒヨリ』……ミケリア・ヒヨリ……です……」


「ヒヨリか。」


「……うん……」


それ以上は、何も言わなかった。


---


車は、やがて大きな門の前で止まった。


自動で開く鉄の門。その奥には、白と黒を基調とした巨大な洋館が、雨の中に佇んでいる。


女の子――ヒヨリは、息を呑んだ。


「……すごい……おしろみたい……」


「ただの家だ。」


俺は平然と言って、ドアを開けた。


桐ヶ谷が傘を差し出してくれる。俺はそれを受け取り、ヒヨリを先に降ろした。


玄関のドアが開く。


温かい光が、外へと溢れ出る。


そして、その光の中から、一人の女性が現れた。


――京子・カネオ。俺の母だ。


年は二十九。けれど、その顔は二十歳前後にしか見えない。黒く長い髪を後ろで一つに結び、背中に流している。清楚で、儚げな、けれど確かな強さを秘めた眼差し。


彼女は、俺を見るなり、ほっと息をついた。


「キョウイチロウ……! 遅かったじゃない……!」


そう言いかけて、彼女の目がヒヨリを捉えた。


「……まあ。」


「……拾った。」


「……拾った?」


「公園で、一人で泣いてた。」


母は、一瞬驚いたように目を見開いた。けれど、すぐにその顔が優しい笑みに変わった。


「そう……そうなのね。」


彼女は、ヒヨリの前にしゃがみ込んだ。目線を合わせる。


「あなた、名前は?」


「……ひ、ヒヨリ……です……」


「ヒヨリちゃんね。お家、どこ?」


ヒヨリは、うつむいた。声が震える。


「……さくら通り……でも、おばあちゃんが、びょういんにいて……わたし、ひとりで……」


母は、それ以上、何も尋ねなかった。ただ、そっとヒヨリの濡れた髪を撫でた。


「……そう。それなら、今夜はここにいらっしゃい。お風呂を沸かすから。温かいものを食べて、ゆっくり休んでね。」


ヒヨリは、顔を上げた。目が、また潤んでいる。


「……い、いいの……?」


「もちろん。さあ、入って。」


母の手が、ヒヨリの手を優しく包んだ。ヒヨリは、少し迷った後、そっとその手を握り返した。


それが、すべての始まりだった――その時は、まだ誰も気づいていなかった。


---


その夜、ヒヨリは客間で眠りについた。


母は、新しいパジャマを用意し、傷の手当てをし、温かいミルクを差し出した。ヒヨリは最初こそ緊張していたが、次第にその警戒心を解いていった。


「……おばちゃん。」


「なあに?」


「……ここって、いつも、こんなにあたたかいの……?」


母は、少し寂しそうに微笑んだ。


「……そうね。少なくとも、私はそうありたいと思っているわ。」


その答えの意味を、八歳の俺は完全には理解できなかった。


ヒヨリが眠ったことを確認し、俺は自室へと戻った。


部屋に入る。ドアを閉める。


ぱたん……。


部屋の中は、静まり返っていた。


ベッドに腰掛ける。窓の外を見ると、いつの間にか雨が上がっていた。


月明かりが、濡れた庭を照らしている。


俺は、今日出会ったあの白い髪の少女のことを考えていた。


――なぜ、あんな場所にいたのか。


――なぜ、あんなに泣いていたのか。


――なぜ、俺はあの手を、離せなかったのか。


わからないことだらけだ。


けれど、確かに一つだけわかったことがある。


この胸の奥に、今まで感じたことのない、得体の知れない温もりが、確かに残っているということ。


それは、母から与えられる優しさとは、まったく違うものだった。


……まだ名前もつけられない、けれど。


それは、確かにこれから何かが変わるという予感だった。


――窓の外で、夜風がそっと木々を揺らす。


さらさら……。


その音は、まるで誰かのささやきのように、俺の耳に残った。


---

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回もよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。