女の子は誰?
この作品を読んでいただきありがとうございます。
学園を舞台にした恋愛・心理ドラマです。
楽しんでいただければ嬉しいです。
プロローグ ―― 運命に抗い、奪われしものを取り戻すまで
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ざあああっ……。
雨は、遠慮というものを知らなかった。容赦なく、街全体を叩き潰そうとするかのように降り注いでいる。
俺、キョウイチロウ・カネオは、傘も差さずに、ただ歩いていた。まだ八歳だ。けれど、この雨が年齢を選んでくれるはずもない。
濡れたアスファルトが、街灯の光を歪めて反射している。視界の端で、水溜まりが無数の波紋を描いていた。
ぴしゃ……ぴしゃ……。
革靴が水を踏むたびに、鈍い音が響く。制服のブレザーはもう、重たくて仕方がない。水が襟元から背中へと伝い、冷たい感触が這い回る。
――帰りたくない。
そう思った。あの広くて、静かで、何もかもが整然としすぎている屋敷に、今すぐ戻る気にはなれなかった。
俺は、いつもの道を逸れた。
左に曲がる。細い路地だ。雨樋から落ちる水が、ぽたぽた……ぽたぽた…… とリズムを刻んでいる。壁には落書きがいくつか。誰かの飼い猫が、段ボール箱の下で丸まって俺を見ていた。
もう一度、右に曲がる。
そこは、誰も通らない商店街の裏手だった。シャッターが閉まった店が並び、その隙間から風が吹き抜ける。
ひゅうううっ……。
冷たい風が、濡れた頬を撫でた。思わず目を細める。
俺は走り出した。理由はない。ただ、この雨と、この冷たさから逃げたかったのかもしれない。
ばしゃっ! ばしゃっ!
水溜まりを蹴散らしながら、狭い路地を駆け抜ける。スニーカーではなく革靴だから、足の裏が痛い。けれど、止まらなかった。
突き当たりで、また左へ。
そこは、小さな神社の裏手だった。錆びた鳥居が、雨に濡れて鈍い光を放っている。境内には誰もいない。当然だ。こんな雨の中、参拝に来る馬鹿はいない。
俺は、その鳥居の下で立ち止まった。
肩で息をしている。吐く息が白く濁るほど、気温はもう冬に近かった。
「……はあ……っ、はあ……っ」
自分がなぜこんなに走っているのか、その時になってようやく考え始めた。
――家に、帰りたくなかったのだ。
あの屋敷は、いつも静かすぎる。母は優しいけれど、どこか影がある。父は……もう、ほとんど顔を合わせていない。
考えすぎだ。八歳の自分には、まだわからないことだらけだ。
そう思いながら、俺はゆっくりと歩き出した。
いつの間にか、路地は抜けていた。目の前に広がるのは、小さな児童公園だった。
砂場は水浸しだ。ブランコが、風に揺られてきい……きい…… と不気味な音を立てている。
そして、その奥――
……ぐすっ……
俺は、足を止めた。
雨音の中に、混ざっている。確かに、混ざっている。
……うっ……ううっ……
泣き声だ。
俺は耳を澄ませた。雨足はまだ強い。けれど、その隙間を縫うように、かすかな嗚咽が聞こえてくる。
滑り台の、下からだった。
滑り台の赤い鉄骨は、もう色褪せていた。その下にある、暗い空間。雨を避けられる、わずかな隙間。
俺は、ゆっくりと近づいた。
足音を立てないように。水溜まりを避けながら。
しゃがみ込んで、奥を覗き込んだ。
――いた。
白い髪の、小さな女の子だった。
彼女は膝を抱えて、体育座りで震えている。薄いワンピースは既にびしょ濡れで、細い肩が小刻みに震えていた。顔を膝の間に埋めていて、表情は見えない。
「……おい。」
俺は、できるだけ優しい声を出そうとした。けれど、八歳の声はまだ掠れていた。
女の子は、びくっと反応した。ゆっくりと顔を上げる。
目が、真っ赤に腫れていた。鼻も赤い。頬に張り付くのは、雨粒か、涙か。区別がつかなかった。
「……ここ、危ないぞ。出てこい。」
女の子は、ただぼんやりと俺を見つめた。何かを言おうとして、唇が震えるけれど、声が出てこない。
「ほら、早く。」
彼女は、ゆっくりと首を振った。
「……や、やだ……」
声が掠れている。か細い。
「……ここに、いる……ここが、いい……」
その瞬間だった。
ゴロゴロゴロッ……!
遠くで、雷が鳴った。同時に、空が真っ白に光る。
ドカーンッ!
女の子は、悲鳴をあげた。
「ひゃあっ……!」
彼女は体を縮こませ、さらに滑り台の奥へと逃げ込もうとする。目には、新しい涙が溢れていた。
「おい! 早く! ここは危ない!」
俺は、思わず怒鳴っていた。声が裏返る。
「出てこい! 今すぐだ!」
女の子は、びっくりしたように俺を見た。それから、おずおずと、小さな手を差し出してきた。
指が震えている。冷たかった。氷のように冷たい。
「……っ!」
俺は、その手を強く握った。そして、一気に引き寄せる。
彼女の体は、思った以上に軽かった。風船のように、地面から浮き上がるようにして、滑り台の下から引きずり出された。
彼女は、濡れた砂場の上に座り込んだ。ワンピースが泥だらけになる。
「立てるか?」
女の子は、こくんと頷いた。しかし、立ち上がろうとして、すぐに足を引きずった。
「……いた……」
左膝を見ると、擦りむいていた。血が滲んでいる。雨で洗い流され、傷口が白く浮き出ていた。
「……歩けそうか?」
彼女は、うつむいたまま、もう一度首を振った。
「……っ……ごめん……なさい……」
泣きそうな声だった。
俺は、ため息をついた。そして、彼女の前にしゃがみ込み、背中を向けた。
「……乗れ。」
女の子が、固まった。
「え……?」
「背負ってやる。早く。」
「……で、でも……あの……わたし……重いし……」
「軽い。さっき引っ張った時にわかった。早くしないと、風邪を引くぞ。」
女の子は、しばらく迷っていた。周りには雨だけが降り注いでいる。
やがて、彼女はおそるおそる、俺の背中に手を回した。
ひんやりとした体が、背中に密着する。重さは、ほとんど感じなかった。むしろ、彼女がぶるぶると震えていることの方が、はっきりと伝わってきた。
「……行くぞ。」
俺は立ち上がり、走り出した。
ばしゃっ、ばしゃっ!
水溜まりを蹴る音が、公園に響く。
背中の女の子が、驚いたように体を固くした。
「わ……っ! は、早い……」
「……そんなことない。」
「……すごい……まるで、かぜみたい……」
彼女が、小さな声で言った。まだ涙声だが、さっきよりは少しだけ、しっかりしている。
「……お前の家はどこだ?」
俺は、走りながら聞いた。
女の子は、しばらく沈黙した。
「……その……『さくら通り』の……12ばん……」
「桜通り?」
「……うん。おばあちゃんち……でも、おばあちゃん、今、びょういんにいるの……だから、わたし……ひとりで……」
声が、また震え始めた。
「……ひとりで、おるすばんしてるの……さみしくて……それで、こうえんに……」
彼女は、そこで言葉を止めた。
「……わかった。今は、うちに来い。」
「……うち?」
「ああ。雨が上がったら、送ってやる。」
彼女は、何も言わなかった。けれど、俺の首に回した腕に、少しだけ力が込められた。
その時だった。
後ろから、強い光が俺たちを照らした。車のヘッドライトだ。
ぶるるるっ……。
エンジン音が近づいてくる。
俺は立ち止まり、振り返った。
黒塗りの高級車が、ゆっくりと路肩に停まった。ドアが開く。
ばたんっ。
傘を差した男が、一人。
黒いスーツが、雨に濡れている。髪は短く刈り込まれ、目つきは鋭い。しかし、表情は機械のように無機質だ。
桐ヶ谷蒼平 。カネオ家の執事だった。
「……若様。」
低く、落ち着いた声。
「ご帰宅が遅くなられましたので、香代子様がご心配されていました。お迎えに上がりました。」
俺は、黙って頷いた。
桐ヶ谷は、俺の背中の女の子を見た。一瞬、目が動いたが、それだけだった。
「……そのお嬢様は?」
「公園で泣いてた。置いては帰れなかった。」
「……かしこまりました。」
桐ヶ谷は、それ以上何も尋ねなかった。ただ、後部座席のドアを開けた。
「お乗りください。ご一緒に屋敷へ戻りましょう。」
俺は、女の子を背負ったまま、車に近づいた。
女の子は、目の前の高級車を見上げて、固まっていた。
「……入れよ。大丈夫だ。」
「……う、うん……」
彼女は、おそるおそるシートに腰を下ろした。濡れた体が、高級な革張りのシートを濡らす。彼女は縮こまりながら、「ご、ごめんなさい……」と小さく呟いた。
俺はその隣に座った。桐ヶ谷は静かにドアを閉め、運転席に戻る。
エンジンが静かに唸る。雨が窓ガラスを叩く音が、車内に響く。
ぱたぱた……ぱたぱた……。
沈黙が、重く流れた。けれど、嫌な沈黙ではなかった。
「……あの。」
女の子が、か細い声で言った。
「……さっきは、ありがとう……それと、よごしちゃって、ごめんなさい……」
「気にするな。」
「……あの……お名前、なんていうの……?」
「……キョウイチロウ・カネオ。」
「……かねお……さま?」
「『さま』はいらない。」
「……じゃあ……キョウイチロウくん……?」
俺は答えなかった。けれど、彼女の口調が、少しだけ柔らかくなった気がした。
「……わたし……『ヒヨリ』……ミケリア・ヒヨリ……です……」
「ヒヨリか。」
「……うん……」
それ以上は、何も言わなかった。
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車は、やがて大きな門の前で止まった。
自動で開く鉄の門。その奥には、白と黒を基調とした巨大な洋館が、雨の中に佇んでいる。
女の子――ヒヨリは、息を呑んだ。
「……すごい……おしろみたい……」
「ただの家だ。」
俺は平然と言って、ドアを開けた。
桐ヶ谷が傘を差し出してくれる。俺はそれを受け取り、ヒヨリを先に降ろした。
玄関のドアが開く。
温かい光が、外へと溢れ出る。
そして、その光の中から、一人の女性が現れた。
――京子・カネオ。俺の母だ。
年は二十九。けれど、その顔は二十歳前後にしか見えない。黒く長い髪を後ろで一つに結び、背中に流している。清楚で、儚げな、けれど確かな強さを秘めた眼差し。
彼女は、俺を見るなり、ほっと息をついた。
「キョウイチロウ……! 遅かったじゃない……!」
そう言いかけて、彼女の目がヒヨリを捉えた。
「……まあ。」
「……拾った。」
「……拾った?」
「公園で、一人で泣いてた。」
母は、一瞬驚いたように目を見開いた。けれど、すぐにその顔が優しい笑みに変わった。
「そう……そうなのね。」
彼女は、ヒヨリの前にしゃがみ込んだ。目線を合わせる。
「あなた、名前は?」
「……ひ、ヒヨリ……です……」
「ヒヨリちゃんね。お家、どこ?」
ヒヨリは、うつむいた。声が震える。
「……さくら通り……でも、おばあちゃんが、びょういんにいて……わたし、ひとりで……」
母は、それ以上、何も尋ねなかった。ただ、そっとヒヨリの濡れた髪を撫でた。
「……そう。それなら、今夜はここにいらっしゃい。お風呂を沸かすから。温かいものを食べて、ゆっくり休んでね。」
ヒヨリは、顔を上げた。目が、また潤んでいる。
「……い、いいの……?」
「もちろん。さあ、入って。」
母の手が、ヒヨリの手を優しく包んだ。ヒヨリは、少し迷った後、そっとその手を握り返した。
それが、すべての始まりだった――その時は、まだ誰も気づいていなかった。
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その夜、ヒヨリは客間で眠りについた。
母は、新しいパジャマを用意し、傷の手当てをし、温かいミルクを差し出した。ヒヨリは最初こそ緊張していたが、次第にその警戒心を解いていった。
「……おばちゃん。」
「なあに?」
「……ここって、いつも、こんなにあたたかいの……?」
母は、少し寂しそうに微笑んだ。
「……そうね。少なくとも、私はそうありたいと思っているわ。」
その答えの意味を、八歳の俺は完全には理解できなかった。
ヒヨリが眠ったことを確認し、俺は自室へと戻った。
部屋に入る。ドアを閉める。
ぱたん……。
部屋の中は、静まり返っていた。
ベッドに腰掛ける。窓の外を見ると、いつの間にか雨が上がっていた。
月明かりが、濡れた庭を照らしている。
俺は、今日出会ったあの白い髪の少女のことを考えていた。
――なぜ、あんな場所にいたのか。
――なぜ、あんなに泣いていたのか。
――なぜ、俺はあの手を、離せなかったのか。
わからないことだらけだ。
けれど、確かに一つだけわかったことがある。
この胸の奥に、今まで感じたことのない、得体の知れない温もりが、確かに残っているということ。
それは、母から与えられる優しさとは、まったく違うものだった。
……まだ名前もつけられない、けれど。
それは、確かにこれから何かが変わるという予感だった。
――窓の外で、夜風がそっと木々を揺らす。
さらさら……。
その音は、まるで誰かのささやきのように、俺の耳に残った。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします。




