夏の始まり その五
もう残り数日で一学期が終わり、夏休みという学生にとっては極上のご褒美というべき長期休暇が目の前にまで迫っていた。
複雑な家庭環境の事情や特殊な理由でもない限り、この時期は誰もが浮足立つぐらい舞い上がるのが普通だろう。
しかしここに一人、あまりそういう気分になれない男子高校生がそこにいた、それは──。
「はぁ……いつになったら来るんだろうか」
教見津太郎である。
自習当然の授業が終わったその日の夜、趣味である筈のゲームもあまり集中出来ず仕方なく止めてベッドに横になって思わず呟いていた。
テストも無事に済んで東仙一輝がいつ来てもいいように飲み物やお菓子も買い揃えている。
もしかして家を忘れたのかと思って玄関先や再会した所でずっと待っていた事もあったが時間だけが無駄に過ぎていくだけだった。
まさか自分がいない時に実は来ていたとも考えたが、それなら家にいる教見美咲が対応しているので少なくとも来た事だけでも分かる筈──しかし報告すら無いという事はやはり来ていないのだろう。
ここまできたら夏休みに入ってからの方がずっと家に居る上に来るとしても違和感が無い為、そちらの方が良いとまで思うようになってきた。
「後はもう気長に待つしかないよな……」
そう決めた津太郎はベッドから起き上がって勉強机の上に置いてあるライトノベル『あなたは異世界を信じますか?』を手に取る。
これは前に図書室で借りた作品の続編であり、一冊限りの短編集かと思いきやネットで調べたら売れ行きが良くて二冊目が出たらしい。
どういう内容なのか気になって通販で頼んでいたのだが、今日学校から帰ってくると届いていた。
(この作品が売れたって事はタイトルに惹かれたり内容に共感する人が沢山いるんだよな……まぁ俺もその一人か)
津太郎は本の表紙を見ながら考える。
ちなみに今回の表紙は黒をベースにした魔法使いの服を着た女の子と修道女の格好をした女性が町の門の入り口にいて、二人が元気よく笑顔で手を振っている様子を描いたものだった。
本を読もうとしてベッドまで移動しようとしたその時、部屋のドアが軽くノックされる。
「津太郎、少しいいか?」
ドアの向こう側、廊下から聞こえてくるのは教見巌男の声だった。
既にゴールデンタイムは過ぎているこの時間帯にこうやって呼ばれるのは非常に珍しく、何事かと思って気を張ってしまう。
「どうしたの?」
津太郎は本をまた机の上に置いた後、立ったまま巌男に対して反応する。
「もうすぐ夏休みだろう? お父さんも八月の中旬辺りに長期休暇に入るし、その時に山登りでもどうだ?」
その瞬間、テスト前にそういう話をしていた事を津太郎は思い出した。
本音を言えばこの暑い時期に山を登るのはやりたくはなかった──しかし、来年の今頃は受験勉強で山登りなんてする暇すら無いだろう。
「そう……だね、じゃあ──行こうかな」
もしかしたら高校生活の中で今回が最後の機会かもしれない。 巌男もそう考えているからこそ、こうやって声を掛けた可能性もある。
だったら後で悔いが残らないよう津太郎は行く事を決めた──だが山登りをして苦しんでる最中の姿が頭に浮かび、脳が軽く拒絶しているのか返事は少しぎこちない。
「そうか。 それなら夏休みだからといって身体を訛らせないようにな」
暑いからと冷房の効いた部屋にずっといたら山を登っている途中でバテるのは確実で、熱中症になる可能性だって十分にあり得る。 流石にそれだけは避けたかった。
「うーん……とりあえず──散歩から始めるとするよ。 やらないよりはマシだし」
津太郎は少し考えた後で声を出す。
「そうだな。 ただ、何かしようという意志も必要なのは間違いないが、その努力も山を登る時と同様に焦りや無理は禁物だ。 自分の出来る範囲で一歩ずつ進むように始めればいい──っと、寝る前なのにいつまでも話してはいけないな。 それじゃ、おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
巌男は淡々と助言と挨拶を済ませると、部屋の前から立ち去ったと思われる。 どうして断言出来ないかは足音が全く聞こえなかったからだ。
確認の為に一応ドアを開けてみたが廊下には誰もおらず、真っ暗な空間と部屋の明かりから漏れ出て薄っすらと分かるフローリングしか見えなかった。
誰もいない事が分かった津太郎はドアをゆっくりと閉め、ついでにもう壁にあるスイッチを押して部屋の明かりの電源も切る。
自分の部屋というのもあって、暗闇で何も見えない状態だというのに数メートル先にあるベッドまで難なく移動するとすぐ横になった。
「山登りか……予定は八月の中旬ぐらいと言ってたし、まぁ流石にそれまでには一輝も来るだろ……」
そう願いつつ津太郎は目を閉じる。 ちなみに今日見た夢は日本で一番有名な山を登っていて、あまりの辛さに心が折れそうになる内容だったらしい。
◇ ◇ ◇
次の日の朝、雨の降る気配を微塵も感じさせない天気が続く中で津太郎は学校の教室にいた。
ホームルーム前の暇な時間に他の男子達と教室の後ろ側でゲームに関する雑談をしていたのだが、後ろのドアから入って来た女子のクラスメートが津太郎に近付いてくると背中をポンポンと叩いた後に話しかけてきた。
「ねぇねぇ! さっきそこの廊下にいた一年生の子が教見君の事を呼んでたよ! 何かその子がお話したいんだって~!」
何故か女子は張り切っており、目を輝かせながら言う。
「一年生が?……それは他の誰かと間違えてるってパターンじゃないのか?」
部活をしていない上に役員も務めていない津太郎は下級生と何も接点を持っていない。 だからわざわざ自分に用事があってここに来る下級生には心当たりが無かった。
「いやいやそんなことないない! 『教見津太郎先輩に用があって来たんですけど、呼んできてもらっていいですか?』ってハッキリと教見君の名前を言ってたんだから~!」
ますます分からなくなった津太郎とは裏腹に女子は一人盛り上がっている。
ただ、他の生徒も色々な場所で話をしているせいか周りにこの会話は聞こえておらず、おかげで注目は浴びていない。
「俺達は彼女作らない同盟じゃなかったのかよ!」
「付き合うのか……僕以外のやつと……」
「今日は凄い雨だな~」
それまで津太郎と雑談をしていた男子生徒も悪ノリで乗っかかってくる──だが口は冗談を言っていても目はふざけているようには見えなかった。
「そんな同盟作った覚えはねぇし俺達は付き合ってなんかいないだろ! お前に至っては外を向いて何を言ってんだ! 早く現実に帰ってこい!」
津太郎が呼吸する間もなくツッコミを入れたら「おぉ~!」と三人は驚きの反応をする。
「朝から何やってんだ俺は……いやそんな事よりもずっと廊下で待たせるわけにもいかないし、とりあえず行ってくる」
朝から予期せぬ出来事に巻き込まれて戸惑いつつも、津太郎は廊下に向かって歩き始める。
先程のやり取りを本当に聞こえていないか確認する為にチラっと教室全体を見渡すと、清水栄子も月下小織もそれぞれ違うクラスメートと話していて津太郎には気付いていないようだ。
後ろから教えてくれた女子の「いってら~!」という声がする。
津太郎は自分が廊下に出た後に女子がこの事を他のクラスメートに話さないか不安だったが、口止めまでしていたら余計に時間が無くなるのでもう諦めた。
(誰か分からないけど、もうサクっと用事を済ませてから教室に帰ろう)
そう決めた津太郎は目立たないようゆっくりドアを開けるが目の前には誰もいなかった。
どういうことだと思いつつ周りを見渡すと、トイレよりも奥にある階段の所に手を後ろに組んで一人ポツンと立っている生徒がいた。
(あの子か?──ってあれは……!)
小学生と勘違いされそうなぐらい低い身長に、黒のおさげの髪型をしている彼女の姿は確かに見覚えがあった──そして自分が呼ばれたというのも納得する。
向こうも津太郎が教室から顔だけ出して見ている視線に気付いて目が合うと元気よく手を振ってきた。
このままだと大声で名前を呼ばれるかもしれないと思った津太郎は、あまり気分は乗らないが目立つよりはマシと考えて廊下に出ると、階段の方へと向かう。
「あっ、遅いですよ~! 上級生の校舎に一人ぼっちでスゴイ不安だったんですからねっ!」
「悪い悪い、ちょっと話しててさ……」
「でも来てくれたんでスゴく安心しました♪ お久しぶりです、教見先輩っ♪」
津太郎に真夏の太陽のような眩しい笑顔を見せつけるのは加賀愁だった。




