夏の始まり その三
その日から教見津太郎の通っている公立神越高校では、授業が始まる度に期末テストの用紙が次々と返されていく。
テストの点数を見て喜ぶ者、安心する者、落ち込む者、現実逃避をする者、既に興味無い者──等々、人によって反応は様々だが、返却されていく最中に教室中が騒がしくなるのは何処も一緒だろう。
津太郎のクラスでもテストが返ってくる度に友達同士で点数を見せ合っていたり、見た瞬間にあまりのショックで教室の通り道にも関わらず立ち尽くしたまま目を瞑っているクラスメートもいて、他にも──。
「よっしゃあっ! 一番ヤバいのが赤点じゃなかったぞぉ! これで怖いものは何も無いっ!」
「平均点よりは高い……でも、もう少し上かと思ってたから悔しい……!」
「俺の人生オワタ……八点って何よ八点って……家に帰りたくねぇ」
「キャー! ちょっと待ってちょっと待って! こんな高得点初めて取ったんだけどっ!」
と、教室のあらゆる場所で生徒達はテストの点数で盛り上がっている。
津太郎としても今回のテストは決して赤点を取ってはいけないという約束がある為、いつもと違って呼ばれる前から毎時間ずっと緊張していた。
テスト用紙を貰って窓際にある一番後ろの席へ津太郎が戻った時、廊下側の一番前に座っている清水栄子と何度も目が合ったのは、もしかしたら勉強の成果が出ていたかどうか気になっていたからかもしれない。
授業が終わった放課後、暑さが和らぐどころか朝よりも酷くなってしまった帰り道を二人は歩いていると、津太郎がテストの出来について話し始める。
どうやら今日返って来た教科は赤点じゃないどころか思っていたよりも高い点数だった事に津太郎は安心し、その報告を聞いた栄子もまた少しは役に立てて良かったと胸を撫で下ろす。
ちなみに津太郎が軽い気持ちで栄子に今日のテストの点数を聞くと、赤点回避したぐらいで喜んでいたのが恥ずかしくなる程の差があったという。
次の日も朝からテストが次々と返されて教室全体が嬉しい悲鳴と悲しい悲鳴の入り混じった空間となっていく中、四時限目で最後のテスト用紙が手元に戻って来るとお祭り騒ぎは終了した。
──そして昼休み。
冷房の効いた教室で津太郎は弁当を食べる前に全九教科のテスト用紙を見直すと、間違いなく全て赤点を回避したのが確認出来た。
全体的に五十点台が多いが今までのようなギリギリではない為、これなら教見美咲に何か言われる事はないだろう。
(終わった……)
そう思った途端、津太郎は力が抜けて机に頭を伏せる。
まるで背中に背負っていた重りが外されたかのように身体と気持ちが軽くなっているのがよく分かる。
今は昼食も食べないでこの最高に幸せな気持ちをずっと味わっていたいと思っていたが、その願いが叶う事は無かった。
「教見君、起きて♪ 一緒にご飯食べよ♪」
津太郎の視界が闇の中、栄子が言いそうな言葉が耳に入ってくる。 だが今の発言は絶対に栄子ではない──どうして断言出来るかというと、答えは単純……それは男の声だからである。
「あのなぁ……話し方だけ真似したところでお前だってバレバレだぞ」
津太郎は身体を起こすと声がした右側の方へ顔を向けた。
「嘘だろ津太郎!? 声は無理でも栄子ちゃんの話し方を真似するだけでお前なら騙せると思ったのに!」
隣に立っていたのは丸坊主の髪型に高身長で、一目で分かるほどに鍛えられた太い腕が目立つ辻健斗だった。
「まぁいいや、とりあえず飯食おうぜグェー」
健斗は話している最中でいきなりゲップを吐き出す。
「うわっ! お前汚すぎるぞ!」
「ハッハッハ、すまんすまん! 今のはさっき授業が終わる前に我慢出来ず食べたパンだと思うわ──って何でテストの紙なんか出してんだよ? あっ、まさかヤギみたいに紙でも食べるのか? ウメェェェって言いながら」
健斗は津太郎の机の上に置かれている九枚のテスト用紙を見ながらヤギの鳴き声を披露する。 そのリアリティある鳴き声は絶妙に上手かったが不気味だった。
「そんなの気持ち悪すぎて二度と誰も俺に近付かねえよ!」
津太郎がいつも通りのノリでツッコミを入れていると、健斗の後ろから声が聞こえてきた。
「なんで辻はヤギの声真似なんてしてるのよ……意味不明すぎるわ」
そこには購買で買った昼食の袋を手に持った月下小織がいた。
どうやら教室に入ったと同時に健斗がヤギの真似をする光景を目撃したせいで、驚きを隠せないでいる。
小織の隣には栄子が弁当箱と水筒を持った状態で立っており、「あはは……」と苦笑いをして反応に困っている様子だった。
「こいつの事は気にしないでくれ──そうだ、丁度よかった」
今度は栄子の方へ顔を向けると今日戻って来た分のテスト用紙を見せた。
「凄いよ教見君! 本当に頑張ったんだね♪」
栄子がテストを確認した後に満面の笑みを浮かべながら津太郎をべた褒めしていると、気になった小織もパンを食べながら見始める。
「──アタシよりも全部高い……学校では一緒に栄子から教えてもらってたのに、なんでこんなに差が出てるの?」
小織は予想以上の点差がある事に疑問を抱いていた。
「俺は学校の行き帰りもずっと栄子に勉強教えてもらってたっていうのもあったからな。 家でもちゃんと勉強してたし」
津太郎は誰も使っていない近くの席を自分の席と向かい合せになるようくっ付けると栄子を座らせる。
「なるほどね──それならアタシもビデオ通話で勉強を教えてもらえればよかったわ。 二学期の期末テストはそうしようかしら……」
小織が真剣に考えている様子を見た津太郎は、この展開を家でも見たのを思い出す。
「ていうかよ~、津太郎より低いって──月下はどれくらい──なんでゴワスか?」
健斗は立った状態で黒の大きい弁当箱を持ち、中に入っている巨大なミートボールを食べながら話しかけてくる。
「なんでアタシの点数を教えないといけないのよ──って言いたいところだけど、今回は初めて全部赤点じゃなかったわ……ギリギリだったけど」
やたら自信ありげに言う小織にとって、赤点を回避出来たというのはとても誇りに思えるのだろう。
「ふふっ、それで津太郎より低いって事はつまり三十から四十点ぐらいか、ふふっ。 じゃあ栄子ちゃんは?」
健斗は堪えきれなかったのか鼻で笑ってしまった後、弁当箱に入っている玉子焼きをゆっくり食べている栄子に同じ問いをする。
「え、えーっと、私は……八十点台と九十点台──かな……って周りに人がいる中で答えるの何か恥ずかしいよぉ」
栄子が点数を答えた後、急に恥ずかしがる姿を見て健斗は何も言わずニヤリとした顔でサムズアップをしていた。
「人に聞いてばっかりじゃなくて、辻こそ答えなさいよ」
「えー、だって俺のはあまりにも普通すぎて答えても面白くねぇもん。 言っても冷めるパティーンのやつ」
恥ずかしい、みっともないといった理由ではなく、ただ盛り上がらないから言いたくないらしい。
「私も少し気になるな……辻君のテスト見た事ないから」
栄子は健斗を見つめながら言う。
この座った状態で上を向く栄子の姿が偶然にも上目遣いをしてるように見えた健斗は、訴えかけているような眼差しに胸を打たれる。
「今すぐ持ってきます!」
健斗は既に食べ終えた弁当箱を持って急いで席へ戻ると、机や学生カバンの中にあるテスト用紙を一生懸命探している。
「さて、辻は何点ぐらいなのかしら。 さっきアタシの点数を聞いて鼻で笑った挙句、そこまで大した反応もしなかったんだからきっと高いんでしょうね~」
小織は近くにある窓を背もたれにして紙パックのオレンジジュースを飲みながら言っているが、何とも思っていなさそうな顔とは裏腹に口から出た言葉には怒りが隠せていないように感じる。
「小織ちゃん、怒ってる……?」
栄子は津太郎にギリギリ聞こえる程度の小さな声で話しかける。
「テストの点数をあんな風に笑われたら苛立つのも仕方ないが、問題は健斗のテストを見た後だ……あまりショック受けないといいんだけど……」
「え? それって──」
津太郎の発言に対して栄子が気になる所を聞こうとした瞬間、
「おーまーたーせーしーまーしーた、こーれーでーすーねっ!」
機嫌が良い健斗はノリノリな様子でテスト用紙を持ってくると、既に弁当を食べ終えて片付けている津太郎の机の上に置いた。




