夏の始まり その二
教見津太郎は家を出た時から──いや、朝起きた時から分かっていて覚悟はしていたが、やはりこの暑さは地獄だった。
家とは違い外では太陽の強い日差しが真下にいる者を容赦なく襲い、苦しめる。
日陰になるものといえば肩に背負っている学生カバンのみだが、教科書やノート、弁当箱に水筒が入っている重たい物を日傘代わりにしようとすれば間違いなく逆に体力を使うだけで終わるだろう。
何とか出来ないかと考えながら歩いていると、見てるだけでも暑苦しくなる分厚いスーツを着たサラリーマンらしき男性とすれ違う。
その瞬間、自分は上が半袖の白いシャツだから涼しくてまだマシなんだと実感した──がそれと同時に、ふと父親が帰って来て玄関先にいる姿を思い浮かべる。
(でも父さんもスーツ着てるのに家に帰って来ても全然汗を掻いてないように見えるんだよな。 瘦せ我慢してる気配もないし、涼しげというか暑さに対して微動だにしてなくて……一体何したらああいう風になれるんだ?)
津太郎は教見巌男が炎天下の中でも一切動じてない事について知りたいが、恐らく聞いても「なに、心頭滅却すれば火もまた涼し……それだけさ」とみたいな事を言われて終わるだけと察する。
(そんなのでこの暑さを乗り越えられたら誰も苦労しないよなぁ……)
それから巌男の真似をして暑さを意識しないように歩いてみたが、結果は暑さに対して過剰に反応するだけだった。
──熱のせいで靴底が地面に張り付くのではないかと不安になりながら歩くと、まだ遠くからだが網状のフェンスに囲まれた清水栄子の家が見えてくる。
普段なら白の砂利が散りばめられた庭に誰もいないのだが今日は違った。
栄子の母親である清水彩が白の割烹着の格好で緑色のジョウロを使い、地面に水を撒いている姿が見えたからだ。
表情はよく見えないが、恐らくいつものようにニコニコしているだろう。
(あれ? 彩おばさんが外にいるなんて珍しい……)
不思議に思いながら家へ向かっていると、門扉の方を向いていた彩も津太郎に気付いたのかジョウロを持っていない方の手を大きく振ってくる。
彩の行動に対し、年頃という事もあってか少し照れ臭く感じた津太郎はどう対応しようか困ったものの、結局は苦笑いしつつ小刻みに手を振る行動を取ってしまう。
津太郎が手を振り終えた時、丁度ジョウロの水を使い切っていたのか玄関先に置くと彩は小走りで門扉に向かい、内側から頑丈そうな鍵を外して扉を開けた。
彩の様子を見ている時も歩いていた為、家との間はそこまで無かったが待たせないよう急いだ方がいいのかと思い、走ろうとしたら──。
「津ちゃーん! ちょっとここで待っててね~!」
と、門扉から上半身だけ出すような形で顔を出して津太郎に声を掛けた後に家の方へと走っていった。
返事をする暇もなく家の中に入ってしまい、どうする事も出来なくなった津太郎はとりあえず家の前まで着いた所で足を止めて休憩をする。
門扉の上に設置してある飛び越え防止の大きい屋根のおかげで日陰が出来ており、少しでも暑さから逃れたい津太郎にはとてもありがたかった。
日陰から空を眺めつつ二、三分ほど待つと、家から話し声が聞こえてきた為、津太郎が後ろを向くと二人が話しながら門扉へ向かってきた。
上は半袖のシャツに黒のベスト、下はチェック柄のスカートと夏服の格好をした栄子が何か飲み物を入れた透明の大きなグラスを大事そうに持っている。
「おまたせ~♪」
栄子がグラスを落とさないよう配慮しているのか、学生カバンは彩が持っていた。
「お、おはよう教見君……きょ、今日は暑いから喉渇いてると思って飲み物を用意したんだけど、よかったらの、飲んでほしい──な……」
栄子はこういう事に慣れていないのか緊張気味に早口でぎこちなく言う。
その後に麦茶が今にも溢れそうなほど入っているグラスを慎重に差し出してきた──ただ、何故か目を瞑っているので見ている津太郎も中身を零さないか緊張してしまう。
「ちょうど喉渇いてて何か飲みたかったんだ、ありがとな」
津太郎は栄子に礼を言うと、落とさないようゆっくり両手で受け取る。
「ど、どういたしまして……」
栄子は津太郎の役に立てて嬉しかったのか照れながらも自然と笑みが零れていて、思わず小さな声で「えへへ……」と言っている。
「ほらほら~、津ちゃんもお茶貰って喜んでるじゃないの~♪ 持っていったのはやっぱり正解だったわね~」
「うん、最初はいらなかったらどうしようって少し不安だったけど……良かったぁ」
栄子は安堵した様子で言う。
津太郎としては喉が渇いていなくても栄子から差し出されれば何でも断らずに飲むだろう。
流石に真冬で冷たいお茶を出されたら大変かもしれないが、それでもちゃんと全部飲み切るに違いない。
「津ちゃんが断る訳ないじゃないの~♪ ほんとに心配性さんね~」
楽しそうに話している様子を見てこれは親子というより姉妹のような距離感に、二人は本当に仲が良いなと津太郎は改めて思う。
完全な上下関係が出来上がっている津太郎が母親の教見美咲とこういう風に慣れあうのはまず有り得ない──というより何か気持ち悪くて想像もしたくなかった。
出来ればこのまま三人でのんびりしながらお茶を飲みたかったが、流石にゆっくりしている訳にはいかないので麦茶を一気に飲み干す。
味が薄くならない程度に入れた氷のおかげで心地よく冷たくなった麦茶は身体の芯まで行き渡り、飲んでる間は今が夏という事を忘れていた。
「あらあら~、いい飲みっぷり~♪」
「──ご馳走さまでした、本当に生き返りました」
飲み終えて一息ついた津太郎は彩に礼を言う。
「見ているこっちは若返っちゃいそう──な~んてね! はい、コップ♪」
栄子から離れた彩が冗談を言いながら手を差し伸べると津太郎は「すみません」と言ってコップを手渡した。
「よしっ、じゃあそろそろ学校に行くか」
休憩時間は終わりと自分に言い聞かせ、学校へ向かう事にした津太郎は栄子に話しかける。
「う、うん。 それじゃお母さん、行ってくるね」
津太郎と目が合った栄子は頷いて返事をしてから彩にも挨拶をする。
「お母さん行ってきます──じゃなかった! しっ、失礼します」
つい栄子に釣られて似たような事を言ってしまい、津太郎は暑さではなく恥ずかしさで顔が少し赤くなってしまう。
「別に訂正しなくても私の事をお母さんと呼んだっていいのよ~? もうすぐ義理の母として呼ぶ練習──みたいな?」
津太郎に対し彩は右目で軽くウインクをして、余裕ある大人の態度を取る。
「もうっ! お母さん何言ってるの!」
栄子が慌てた様子で彩に反応する。
「ん? それって養子って事ですか?」
この津太郎の返答に三人の間には一瞬だけ沈黙が生まれた。
「──え~っと、そういう意味じゃないんだけど~……と、とりあえず時間無いし学校へ行ってきなさい! さささっ! 早く早く!」
彩としては冗談交じりの本音を言って津太郎がどういう反応をするか楽しみにしていた。
しかしこういう返し方は予想外だった為、なかなか言葉が出てこない彩はとりあえず誤魔化して二人を学校へ行かせた。
その後、津太郎と栄子が少し遠くまで歩いていくのを見送ると彩は門扉の内側に入って鍵を閉める。
「ふぅ~、流石に養子って答えが返ってくるとは思わなかったわね……今回は負けたわ、津ちゃん──あ、打ち水の続きしなくちゃ!」
一体何の勝負なのかは分からないが、清々しく負けを認めた彩は家の中にグラスを持ってない方の手でジョウロを掴むと家の中へと入っていく。




