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月影浴2 ノイズ~静寂  作者: @naka-motoo
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真夏の銃剣(その4)

 2人はまだ僕を蹴り続けていたけれど、蹴られながらとにかく僕は立ち上がった。

 多分、僕がわざわざ立ち上がるとは思っていなかったのだろう。2人はなんだか突然、手持ち無沙汰なような、何をすればよいのか分からないような状態になり、何秒間か、3人してお見合いをして突っ立ったままになった。

 えーっと、という間の抜けた感じで、背の高い方がなんとなく僕の顔をぽくっ、と拳で殴った。僕は特によけもせず、そのままにさせた。対して痛くもなかったけれど、パンチの力の抜け具合とタイミングがよかったのか、口の中が切れて、血が滲む鉄の味がした。

 僕は反撃をする代わりに、相手にそのまま一歩近づいた。相手はそのままもう一発、僕の右頬の辺りを、今度はさっきよりも強く拳で殴った。

 右頬の上っ面に拳が辺り、やや強い痛みを感じた。それと、殴り方が中途半端なので、拳がずれて鼻にも当たり、鼻孔から水のようなものが流れていく感触が伝わる。ああ、久しぶりに鼻血が出たんだな、と我ながらやけに客観的に状況を把握した。しかも、殴られてもなぜか特に腹も立たない。それにしても、もう1人の方は何をしているのだろう。

 僕はもう一歩、背の高い方に近付く。今度は右拳で僕の左頬を殴った。仕方ないので、殴られた瞬間、僕は自分の右拳を握りしめ、相手の鳩尾の辺りを、とすっ、という感じで短い動きで殴った。鳩尾は急所だと知っていたし、ひどくならないように自分としては軽く当てただけのつもりだったのだけれど、相手が激しく苦しみ始め、その場にしゃがみこんでしまった。

 背の高い方がしゃがみこんだ瞬間、後頭部にぱん、という感触が伝わり、僕は前歯の上下をかちっ、と鳴らした。

 一瞬、何が起こったのかよく分からなかったけれども、しばらくして、背の低い方が、平手で僕の後頭部をはたいたのだと気付いた。

 さっきまで、辱めの言葉を受けようと、拳で殴られようと、大して腹も立たなかったけれども、平手ではたく、ということに僕は何とも言いようのない、不快感を覚えた。

‘こいつはどこまで・・・’という呆れさえ感じる。

 僕が振り向くと、相手はすかさず、平手で僕の左頬を力いっぱいはたいた。僕の左頬が熱くなり、左耳でじーんと蝉が鳴き始めた。

 この状況でビンタを張り、拳を使わないということに、僕は本当に腹が立った。

 この岡崎たち3人は、特に何の意識も覚悟もないまま、それこそ小学生のまだ何事も大目に見てもらえる子供の感覚で僕とさつきちゃんに辱めの言葉を吐き、僕を殴ったのだろう。

 けれども、僕たちは高校二年生だ。16,17歳と言えば、昔の武士の時代では元服した、言わば大人の年齢だ。男も女も、一個の大人として尊敬を受けるようになるのと同時に自分の吐く言葉、行いにも責任を負うた年齢だ。

 大人であるさつきちゃんと僕を相手に、同じく大人であるはずの岡崎たちは、暴言を吐き、そして、僕を蹴り、殴った。

 相手を辱め、刀を抜いて斬りつけたのと同じことだと思う。その、真剣での立ち会いの状況になっているにも拘わらず、まだ相手は平手を使って、精神的な見下し程度の対応でこの場が収まると思っているようだ。僕は、本当に胸がむかむかしてきた。鳩尾を殴った相手はまだしゃがみこんでいるが、拳を使っただけそいつの方が少しはましだと思った。

 僕は、平手を使った相手に、やはり一歩近づいた。相手はもう一度平手で僕の左頬を、今度はさっきよりももっと力を入れてはたいた。左耳の音が消え、無音状態になる。あれ、耳が聞こえない、と僕は思ったけれども、もはやそんなことはどうでもよく、‘平手’というふざけたやり方には我慢できず、僕は右拳で相手の顎の辺りを殴った。人の顔面を殴る時の拳が当たった感触は本当に嫌なものだった。よく考えると、さっきの鳩尾、今の顔面、僕は生まれて初めて人を殴ったのだ。が、そんなことはどうでもよかった。今こそが人生でそう何度もない、‘いざ’という危機なのだから、躊躇する余裕など持ったらそれこそ僕は何様だということになる。

 僕が反撃することなどあり得ない、と思っていたのか、僕が殴ると相手は、こんなことを言った。

「小田のくせに!」

 そう言って、相手は僕にむしゃぶりついてきた。何が僕のくせになのかよく分からないが、ああ、少しはましになったと思った。相手の勢いに僕は押し倒されて、背中からアスファルトの上に倒れこんだ。尾骶骨と肩甲骨の辺りは相当痛いけれども、後頭部を打たないように咄嗟に頭を持ち上げたので、なんとか動ける。

 相手は僕に馬乗りになるという絶好の態勢を取ったのに、拳で殴ろうとしない。

 そのまま僕の胸の辺りのシャツを掴み、押さえつけて来るだけだ。ひょっとしたら相手は、拳で人を殴ったことがないのかもしれない。平手ではたいたことしかないのかもしれない。そして、拳を使わないことで、まだ自分は安全地帯にいるのだ、と思い込みたいのかもしれない。

 上に乗っかっている相手の表情をのぞき込もうとするけれども、街灯の光が逆光になってよく分からない。ひょっとして、泣いているのではないかとすら感じた。それはそうかもしれない。相手の気持ちも分からないでもない。

 子供が‘ふざけ’を大目に見てもらえる感覚で、さつきちゃんと僕を辱める程度でそのまま普通に家に帰り、風呂に入り、勉強して、スマホでもいじってから昨日と同じように寝るつもりだったのだろう。そして、明日も、学校の夏季講習に出かけるつもりだったろう。

 それが、さつきちゃんはコンビニに助けを求めに行き、おそらく警察に通報し、岡崎は骨折してまだうつ伏せになって呻いており、もう1人は鳩尾を抑えて座り込んでおり、自分は「小田ごとき」の上に馬乗りになって、さあ、殴ればいいのかどうすればいいのか訳が分からなくなっているのだろう。

 自分たちは安全地帯にいるまま、僕とさつきちゃんだけを精神的な奈落へと追いやりたかったはずが、自分たちも安全地帯の外に出てしまったのだ。いや、僕とさつきちゃんに引きずり出されたとさえ思っているかもしれない。僕とさつきちゃんに対して、お前たちのせいだ、ぐらいに思っているかもしれない。

 けれども、それはこっちにしたって同じことだ。

 なんにせよ、岡崎を骨折させたのは僕だ。僕自身、そして、両親も、その結果に対して何らかの社会的責任を負わねばならないだろう。たとえ、正当防衛とみなされたとしても、「小田さんとこの次男坊が、暴力事件だって」みたいな感じになるはずだ。

 そして、さつきちゃん。さつきちゃんも、同じ状況になるはずだ。学校側も、何の処置もなしという訳にはいかないだろうし、女の子が男の喧嘩に関わっていたという噂が立たないとも限らない。

 岡崎たちのことは特に何とも思わないけれども、さつきちゃんを巻き込んでしまったことは、謝っても謝り切れない。さつきちゃん本人にも、さつきちゃんのお父さん、お母さん、耕太郎にも。

 こういったことが脳裏に浮かんだ後、まだ相手は僕の胸倉をただぐいぐいと押しているだけだったので、僕は右足のスニーカーの靴底を相手の左腹の所に押し当て、そのまま持ち上げようとした。それでも相手はまだ殴ってこない。

 無音の左耳ではなく、右耳に、誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。

「かおるくん!」

 さつきちゃん1人ではなく、2人。コンビニの制服を着た男の人が、手に何かを持って、さつきちゃんから10mほど遅れて走ってくる。

 僕の上に乗っていた相手は、コンビニの制服を見て慌てて立ち上がり、軽く走り出そうとした。

「ちょっと、ちょっと、どこ行くの?」

 コンビニの制服を着た男の人に声を掛けられると相手は、

「え、いや、ちょっと・・・」

と、なんだか訳のわからないことを聞き取れないほどの声で呟いて立ち止まり、そのままそこに突っ立っていた。

 よく見ると、男の人は、右手に竹刀を持っていた。

 遠くでパトカーのサイレンが聞こえた、と思ったら、あっと言う間にランプの光が近づき、警官が2人、降りて来た。警棒を持っているようだ。

 僕は平手しか使わなかった相手に押し倒された状態から上半身を起こし、胡坐をかいて座ったままでいた。立ち上がろう、とは思ったけれども、今になって気付いた体のあちこちの痛みと疲労感でしばらく座ったまま呆けていたかった。

 顔を上げると、さつきちゃんが急ぎ足で近づいてきて、僕の目の前にしゃがんだ。

「かおるくん・・・・」

 僕の顔を真剣に覗き込んでいるが、なんともたとえようのない、複雑な表情をしている。心配、だけでもなく、安堵だけでもないごちゃ混ぜの表情。そういえば、鼻血が乾いた上からまた新しい鼻血が出ているようなので、それを見て、少し怖がっているのかもしれない。

 さつきちゃんが、もう少し顔を近づけて覗き込んだ。そして、一旦顔を遠ざけ、何事かを迷っているような表情に変わる。

 なんだろう?と思っている内にふわっとさつきちゃんが両腕を僕の肩の後ろ辺りに回した。そのまま僕を抱き寄せるような形になる。

 えっ?と僕は全身が硬直した。このまま1mmでも動いたら、まずい、と思うぐらいに。

 さつきちゃんは胸骨の辺りに僕を抱き寄せ、顔は僕の左頬の真横にあるので、その表情は分からない。状況が数秒経っても理解できなかった。ただ、さつきちゃんの方から僕を抱き寄せてくれたのはもう自分にはどうしようもないことだけれども、自分の方からさつきちゃんに触れるのはやっぱりしてはいけないことのような気がしたので、できるだけ、さつきちゃんに触れないように身じろぎもせずにいた。それでも、さつきちゃんの髪が、左頬が、自分の左頬に微かに触れる。肩の後ろに回ったさつきちゃんの腕から、体温が伝わってくる。おそらく全力疾走をしてきたのだろう。ぼんやりとした殴り合いをしていた僕なんかよりもずっと熱い。

 それとも、女の子というものは、もともとこんな温かい体温をしているのだろうか?

 僕は、段々と、周囲の目が気になってきた。けれども、大胆、というか、自然、というか、おそらくさつきちゃんの側には、純粋に僕をいたわろうという気持ち以外の邪な想いがないからだろう、パトカーの音に野次馬も10人ほど集まっていたが、僕たちを見て眉を顰めるような人もおらず、ごく当たり前の光景のように見ている。

 多分、こうしてさつきちゃんに肩を抱かれていたのはほんの10秒ほどのことだったろうけれども、僕はとても長い時間に感じた。

 さずがに、ずっとこうしている訳にもいかないと思い、僕は、よっ、と立ち上がろうとした。

「大丈夫?」

 さつきちゃんはそのまま肩を支えて立ち上がらせてくれた。

 向こうでは警官の1人が、岡崎の様子を見て、

「折れてるな」

と呟いている。

 もう1人の警官がこちらに近付いてくる。

「大丈夫ですか?」

 警官の問いに、はい、と答えると、警官はもう一度僕の顔をまじまじと見て、

「あなたも病院に行った方がいいですね。救急車を手配します」

 大げさだな、と思ったけれども、そのまま、ありがとうございます、とお礼を言った。

 そして、救急車が来るまでの間、簡単に事情を訊かれた。取り囲まれてコンビニに助けを求めに行くまでの経緯は僕とさつきちゃんで説明し、その後、岡崎を転ばせたことから、残り2人との殴り合いのことまでを僕はとりあえずあったままの通りに伝えた。有利な発言、とか、不利な発言、とか、その辺は僕ではどうしようもない。

「とにかく、相手の方も怪我をしているので今日は双方病院に行っていただき、明日にでもまた詳しく事情を訊きに上がります」

 さつきちゃんと僕は、警官にありがとうございます、とお辞儀をした。

「歩ける?」

 さつきちゃんの問いに僕が、うん、と答えると、

「あの人、コンビニのオーナーさん」

と、さつきちゃんは続けた。ああ、ほんとだ、あの人がいなかったら僕たちはどうなっていたか分からない、と、改めて感じて、2人してオーナーさんの方に歩き出した。

「本当にありがとうございました」

 2人でオーナーさんに深いお辞儀をすると、恥ずかしいのか、竹刀を持った手を、慌てて背中の後ろに隠した。

「いやいや、私らの店を頼ってくださって嬉しいぐらいですよ。それに、お友達も無事でよかったですよ」

 オーナーさんも僕の顔を覗き込む。

「無事・・・でもないようですね。大丈夫ですか?」

 僕は、また、大げさな、と思うけれども、はい、大丈夫です。と答える。

 鼻血が出ているから大げさに見えるのかな?と僕は手で鼻血を拭おうとした。

 さつきちゃんは、あ、ごめんね、と慌てて手提げからティッシュを取り出して、そのまま僕の鼻を拭いてくれようとする。

 ううん、自分でするよ、と僕も慌ててティッシュだけ受け取り、鼻を拭おうとした。

 ちょっと触れた瞬間は鼻になんの感触もなくびっくりして、少し強く拭おうとすると鼻の芯が猛烈に痛んだので、それにもびっくりして手を離した。

 救急車が2台来た。

 岡崎が担架で救急車に運び込まれる。折れていない方の腕で目を覆っている。やはり、泣いているのかもしれない。真っ直ぐ家に帰れるはずが、なんでこんなことになったんだろうという後悔なんだろうな、と、思う。平手で僕をはたいた方の仲間が岡崎に付き添うようだ。

 僕が鳩尾を殴った相手は、パトカーに乗せられた。事情聴取ではなく、多分、家まで送ってもらうのだろうと思う。けれども、家に息子がパトカーで送り届けられたら、親はどう反応するだろう。

 僕は歩いて救急車に乗り込む。救急隊の人が、

「どなたか、付き添いは?」

と声をかけた。

「わたしが付き添います」

と、さつきちゃんも救急車に乗り込む。

「1人で大丈夫だよ。お母さんやみんなが心配してるだろうから、帰って」

 僕はさつきちゃんにそう頼んだが、

「ううん」

 さつきちゃんは首を振った。

「わたしを守るためにかおるくんが怪我したんだから・・・」

 さつきちゃんはそう言うけれども、はっきり言って、さつきちゃんに無関係の岡崎たちとのやり取りに巻き込んでしまった僕の方こそただただ申し訳ないだけなのに。それに、コンビニに走ってくれたお蔭で、僕の方が助けて貰った、という感じなのに、なんだかストーリーが万人受けしそうな方向に流れて行ってしまっている。救急隊の人たちも、さつきちゃんの言葉を聞いて、ほおー、という感じになっているのが、余計に穴があったら入りたい気分にさせる。

「どこか、希望の病院はありますか?」

 救急隊の人の問いかけに、

「え、選べるんですか?」

とさつきちゃんが逆に問いを返す。

「ええ、この近隣であれば」

 それを聞いて、さつきちゃんはちょっと考えていた。

「あの、もう一台の救急車はどの病院へ行ったんでしょうか?」

 これは岡崎と一緒の病院は避けたい、という意味だ。

「市民病院だと思いますよ」

 さつきちゃんは、じゃあ、と考えて、僕の方をちらっと見る。

「厚生病院・・・でもいい?」

 さつきちゃんと耕太郎、それに僕が生まれた、親水公園の近くの川辺にある、あの病院だ。

 僕自身の家からも近いし、問題ないだろう。僕は、うん、と頷く。

「すみません、厚生病院にお願いします」

 さつきちゃんが答えると、救急車はサイレンを鳴らしながら次の交差点を右折して厚生病院の方へ向かう。

 今度は、救急隊の人が、僕の顔をまじまじと覗き込んでいる。まだ鼻血がそんなにひどいのだろうか。

「鼻、折れてますね」


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