【番外編】幸隆 記憶のなかのキミ
夏の盛り、七月三十日——
毎年この日だけ、喫茶店「NOTTE」は「貸し切り」の看板を立て、一般客の利用を断わっている。
この喫茶店のマスターである、津田幸隆は、午前中から一人で厨房に立っていた。
静まった店の中には、幸隆の呼吸と、サイフォンの中で沸騰した液体のコポコポという音だけが響いている。
幸隆以外の従業員は休みだった。幸隆はひとりで予約客を迎える準備をしていた。
陽が傾きはじめ、もうすぐ帰宅ラッシュが始まる時間帯。
幸隆はカウンター席で微睡んでいた。
外は今日も三十度越えの真夏日だったが、店内は空調が効いており、ひんやりとしていて心地が良い。
浅い微睡みは、思考と混ざり合い、懐かしい景色を幸隆の瞼の裏に投影させた。
思い出すのは、幸隆が大学生だった頃。
——懐かしいな……
記憶は鮮明なのに、あえて懐かしいという言葉を選んだのは、月日があまりにも経っているからだった。
幸隆は五十五歳。
生きて、生きて、そうして歳を重ねてきた。
その間に、結婚もして、子供にも恵まれた。悩みは尽きないが、おおむね幸せと呼べる人生だ。
だが、心にひとつだけ曇りがあった。
それは幸隆が大学生の時に出会い、憧れ、恋をした女性のことだった。
微睡みの中で、幸隆は憧れの女性に問う。
——ケイコ先輩、貴女は今、幸せですか?
びくりと身体が震えた。
バランスを崩した身体が椅子から落ちそうになり、幸隆は慌てて右足で踏ん張り、カウンターに手をつく。
どうやら微睡んでいるうちに、本当に眠ってしまっていたようだ。
幸隆は息をついて、顔を上げる。
店内が暗くなり始めていた。
幸隆は立ち上がり、まず外の看板の照明のスイッチを入れる。
看板には「本日貸し切り」の他に「ハッピーバースデー。ケイコ先輩」と書いてあった。
今日の「NOTTE」の主役は幸隆が憧れていた女性——上條恵子。
幸隆は、たった一人で、彼女が来るのを待っていた。
幸隆は自分よりひとつ歳上の上条恵子のことを「ケイコ先輩」と呼んでいた。
出会ったのは大学生のとき。同じサークルの先輩だった。
その時、既に恵子には一回りも離れた恋人がいた。
幸隆は恵子と出会ってすぐに、その事実を知ったため、育っていく恋心をどうするべきか悩んだ。
だが幸隆は、未だ将来もわからぬ学生の身分で、恵子を幸せにできるのは自分ではないと、早々に「諦める」という決断をくだした。
愛しいと想う人の幸せをただ願い、恵子の良き理解者という立場を手に入れ、それに満足していた。
恋人の愚痴も惚気話しも、恵子は自分の心の底を晒すように、幸隆には全てを打ち明けてくる。
それだけで、幸隆は満足だったし、恋人よりも深く彼女を受け入れることが出来るのは自分だけかもしれない…そう思うだけで、熱くなる心に蓋を閉めることができた。
恵子が卒業したあとは、会うこともほとんど無くなり、疎遠になってしまった。
しかし、五年前の今日——
再会は突然だった。幸隆の経営する喫茶店「NOTTE」に、恵子が現れた。
閉店した店のドアをノックして、現れた人物を目にしたあの瞬間の出来事を、幸隆は一生忘れることは無いだろう。
暗闇の中で浮かび上がった華奢なシルエット。あの頃、何度見つめても飽きず、美しいと思った曲線を描くまぶたの輪郭。
記憶の中にこびりつくように残っていた、愛しい形との再会だった。
「ケイコ、先輩!」
幸隆が上擦った声を上げると、恵子は微笑みを深めた。
「どうして、此処が……?」
「貴方が店を持ったって、ずいぶん前に聞いたの。遅くなったけど、おめでとう」
幸隆は恵子を店へ招き入れた。
「閉店なのに悪いわね」と、恵子は言いながら、カウンター席に腰をおろした。
陽が落ちたといっても、季節は夏で、夜でも気温が高い。
恵子の首筋が薄っすらと汗で濡れているのが見えた。
幸隆はコーヒーを淹れたカップを恵子の前に置く。漂うコーヒーの香りを味わうように、恵子は目を閉じた。
カップを持つ、恵子の白くて細い指に、結婚指輪は無かった。
——まさか独身? ずっと付き合っていた男とは上手く行かなかったか? まあ、ずいぶん前の話しだしな。別れていてもおかしくは無いか。
幸隆も恵子の隣に腰をおろす。
近くに感じる恵子の体温が、なんだか懐かしく思えた。
恵子は口を開いた。
「今日ね、私の誕生日なの。今までの自分の事を考えながらフラフラしてたら、いつの間にか此処に来てた……」
間接照明の薄い光の中で微笑む恵子が、どこか苦しそうで、寂しそうに見えた。
幸隆は思わず聞いてしまう。
「ケイコ先輩、結婚は?」
「……」
恵子は静かに頭を振った。
「幸せになるって簡単な事じゃないのね。結婚して子供を産んで。でも愛する人とも、子供とも……別れてしまった。何よりそういう選択をしてしまった自分が今でも信じられない……。せめて、どんなに辛くても、子供だけは手放すんじゃ無かった」
呻くような低い声で恵子は言った。
幸隆にとって、それは衝撃だった。
愛する男も、産んだ子供もそばにはいない……
——そうか。今、孤独なんだ。ケイコ先輩は……
誕生日にたった一人、何年も会っていなかった幸隆のところへ来た。
まるで誰かに、救いを求めるように。
「子供は今、どこに?」
「分からない。私、最低な女なのよ、幸隆くん……」
「そんなこと……」
それ以上、恵子は何も語らなかった。
ただ泣きそうな表情をしながら、ぬるくなったコーヒーを少しずつ飲み、たまに「美味しい」と呟いた。
幸隆は、恵子の隣で佇んだまま考えていた。あの頃のように、自分が恵子のために出来ることを考えていた。
しばらくして、恵子は「帰るわね」と言って立ち上がる。
——ケイコ先輩に、俺ができることは……!
去っていく恵子に、幸隆は言う。
「今日は来てくれて有難う、ケイコ先輩。会えて嬉しかったよ。そしてお誕生日おめでとう。来年はちゃんとケーキも用意してお祝いするから、また来てくださいね!」
「幸隆くん……」
——この時間だけは、彼女の一番の理解者でいよう。あの頃と同じように……
幸隆の言葉に、恵子はとうとう、鬱積したものを吐き出すように涙を零し、声を上げて泣いた。
泣いている恵子のそばで、幸隆は恵子が幸せであるように、心の中で、何度も何度も祈っていた。
それから毎年、七月三十日。恵子の誕生日、幸隆は恵子が訪れるのを待っていた。
しかし、この五年間、一度として恵子が来る事は無かった。
——ケイコ先輩、今年は来るだろうか。
——今年も来ないだろうか……。
来ないほうが良いのかもしれない。
恵子を大切に思う誰かと、時を過ごせていたらそれでいい、そう幸隆は願う。
静まりかえった店内。
時はただただ過ぎていく。
とうに営業時間も終了している。
——今年も、来ないか……
幸隆がそう息をついて、片付けるために立ち上がった時、不意に裏口の扉が開く音がする。
誰だろう。
恵子ではないはずだ。恵子は裏口を知らないはずだから。
幸隆がバッグヤードに続く扉を開けると、そこにいたのは、この喫茶店でバイトをしている紀村真治だった。
「マスター、すみません。ちょっと忘れ物して」
苦笑いを浮かべた真治の表情に、幸隆も思わず笑ってしまう。
真治は役者として活動する傍ら、この店でバイトをして生計を立てている苦労人だ。
一時、役者としての活動を全くしていない期間があって心配したものだが、現在はどうやら忙しくしているらしい。
夢を持ち、頑張っている真治のことを、幸隆は気に入っていた。
「マスター、お客様は? 帰ったんですか?」
「いや、今年も来なかったかんだ」
「そうですか……」
——そうだ。ちょうど良いかもしれない。
「紀村くん、コーヒーでも飲んでいかないかい? ケーキもあるし」
幸隆の誘いに、真治が気まずそうに視線を彷徨わせる。
「無理にとは、言わないけど?」
「いえ。お言葉は嬉しいのですが、外に彼女を待たせていて……」
「おや……」
彼女と一緒だったのか……。
幸隆から見た真治は、何事にも一生懸命で、夢を追いかける若者だ。しかも見た目もかっこいい。そんな真治の恋人だ、きっと魅力的な女性だろう。
真治の彼女を見てみたい……。
幸隆の好奇心が湧き立つ。
「良かったら、彼女も一緒にどうだい?」
幸隆の一言に真治は苦笑いを浮かべながら言う。
「実は俺の彼女、マスターの淹れたシナモンカプチーノが好きなんです。だから、多分、喜ぶとは思うんですけど……」
「いいよ。シナモンカプチーノ、ご馳走するよ。連れておいで」
ということは、真治の彼女はこの店に来たことがあるのか……しかも、シナモンカプチーノ。裏メニューのひとつだ。
真治の足音に続き、コツコツとヒールを鳴らした足音が聞こえてくる。
「お待たせしましたマスター」
そして幸隆の前に、姿を現した女性——
「こちら、沢渡ミスズさんです」
「沢渡です。お招き頂き有難うございます」
幸隆は、息をのんだ。
——確かに店で会った気がする。いや、そうでは無くて……
凛とした佇まい。微笑んだ唇の輪郭。下がった目尻に続く目蓋の曲線……、幸隆が愛しいと思う形。
——ケイコ、先輩……
沢渡ミスズと名乗った彼女の笑顔が、恵子の面影が重なり、幸隆の鼓動が高鳴る。
もしかしたら……いや、恵子と関係があるなんて、そんな偶然が転がっているわけはない、そう心の中で幸隆は自分に言い聞かせた。
「やっぱり、マスターの淹れたシナモンカプチーノは幸せを感じるわ……」
嬉しそうに笑うミスズに「良かったね」と、真治が優しい眼差しを向けている。
幸隆は穏やかに笑うミスズを見ながら、今、どこにいるかも分からない恵子の事を考える。
こんな風に、笑っていてくれたらそれでいい。
——ケイコ先輩。貴女は今、幸せですか? 笑顔でいますか?
——どうかどうか、孤独ではありませんように……
幸隆は、何度も何度も、心の中で祈っていた。