【番外編】さゆりとミスズ
「最近、紀村のやつスゲェな……」
手狭なアパートの一室——、二人掛けのソファに座り、缶ビールを飲んでいた海原ミナトが呟いた。
何が? と、橘さゆりは問い返すことはしなかった。
何故なら、さゆりにとって紀村真治は元恋人で、目の前にいる海原ミナトこそが、今のさゆりの恋人だからだ。
昔の恋人に興味を示すことは、いけない事のように思えた。
元恋人である紀村真治と過ごした時間は、決して忘れまいと、心の奥に閉まってある。
将来への不安という事情で真治に別れを告げ、ミナトと付き合う事を選んださゆりは、自分の事を「浅ましくてずるい女」だと思っていた。
真治を傷つけてしまった罪悪感に苛まれながら、心の中で「こんな浅ましくてずるい女」は、真治には相応しくなかったのだろう、そう思うようになっていった。
ならば、どんな人が真治には相応しいのか……
——真治君の心を、汚さない人……。かな?
真治は見た目だけじゃなく、心も美しい、純粋な男だった。
家族から愛情を得られなかったという生い立ちの影響もあるだろう。真治は浮ついた所が一切無く、さゆりの事を大切にしてくれた。
しかし……「役者」として生きていく事を諦めない真治と、安定した未来を望んでいるさゆりは、愛情はあっても、手を携え人生を歩んでいく事は出来なかった。
真治と別れてから一年以上の時が過ぎていた。
最後に真治と会ったとき、真治の心が傷付いているのがわかった。
誰よりも、変わらない愛を欲している真治を理解しながらも、さゆり自らが、彼の心を傷つけてしまったことに愕然とした。
それからさゆりは、罪深い自分を受け入れながら、それでも「幸せになりたい」という願いのまま生きている。
一週間後、ミナトが呟いていた事の理由が分かった。
手当たり次第に見ていたネットの記事に、春から始まる連続ドラマに関するものがあった。そして、出演俳優のなかに「紀村真治」の名前を見つけた。
——まさか、本当に…?
さゆりの鼓動が早くなる。
久しぶりに真治ブログを見る。この一年間、定期的にブログが更新されていた。
劇団に所属し、いくつかの舞台に上がっていた。
そして、オーディションに見事に合格し、ドラマへの出演が決まったこと。そのため今の劇団での舞台は今年で最後になるかもしれないことが綴られていた。
——おめでとう、真治君……
心の中でさゆりは祝福する。
さゆりは真治の演技が好きだった。
自然体なのに、台詞の後の空気を震わせるような、余韻をもたらす演技が好きだった。
演じることに対しての情熱も持ち合わせている。
認められて当然だと、今ならはっきりと分かる。
燻っていた時期が嘘のように思えた。
——久しぶりに、真治君に会いたいな。
直接会う事は出来なくとも、舞台の上の真治にならば会いにいける……。
ミナトには内緒で、さゆりは真治が出る舞台のチケットを買った。
少しだけ、罪悪感を覚える。けれど、もともと自分は浅ましくてずるい女なのだ。そう思うとなんだか開き直れた。
劇団 「のらいぬ」
第三回公演 「鍵をなくした妖精」
原作 星樹
脚本 安西ことり
演出 周防マルタ
音楽 MIWA
【出演】
レイン 紀村 真治
クルス 望月 永
ダークエルフ 大賀 陽平
妖精界の女王 兼子 凛
ラグナ 松田 道太
【ストーリー】
レインは冒険者になり、謎の失踪をとげた両親を探し旅を続けていた。
旅の途中、レインはハーフエルフのクルスと出会い、助けを求められる。
妖精界で嫌われものだったクルスは、罠にかかり人間界にやって来る時に持っていた「鍵」をなくしてしまった。
探しものが得意なレインはクルスと一緒に「鍵」を求める冒険に出る。
「鍵」が意味するものは——
そして、レインとクルスの前に現れたダークエルフは、レインの両親とも繋がりがある人物だった。
孤独の中で、大切な人を、未来を見つけるファンタジー!
クルス
『このまま僕は「鍵」と一緒に消えるよ……』
レイン
『どうしてだ……! お前の本当の願いは消える事じゃないはずだ!』
クルス
『本当の願いなんて…もうどうでも良いんだ。
確かな愛情から生まれたって、今はもう誰も僕を求めない……
最後に君に会えて良かったよ、レイン』
レイン
『クルス、俺は……
お前が、過去の傷ついた俺を救ってくれたことを、一生忘れない。
だから、お前が消えてしまったら俺は哀しい!
明日、もしかしたら、大切な何かに出会えるかもしれない。
明日、大切な気持ちに出会えるかもしれない……、そうやって俺は生きてきた。
そして、クルス——お前に会ったんだ!
生きろ、クルス!
お前はもう、ひとりぼっちなんかじゃない!
俺にとって、お前は大切な存在なんだ——!』
さゆりは、舞台の上の真治に圧倒された。
真治の演技は進化していた。いや、これでもまだ進化の途中なのかもしれない。
まるで何枚も古い皮を、自らの手で無理矢理に剥ぎ取り、新たに形成させ、どこに向かっていくのかも分からないほど、真治の演技は安定や調和より、破壊と言う言葉が相応しいほど迫力に満ちていた。
——こんな真治君、私は知らない……
さゆりは胸が熱くて堪らなかった。
観客も、波に飲み込まれるように、真治の演技に陶酔していた。
レインの呼吸、レインの伸ばした指の先までもが、真治の魂から溢れるエネルギーを帯びていて、目が離せなかった。
役者として生きている真治は輝いて見えた。
大盛況で幕は閉じる。
さゆりは、誰よりも早く席から立ち上がった。
ロビーに出ると、同じタイミングで別な扉から一人の女性が出てきた。
さゆりよりも歳上の、三十代半ばくらいだろうか……綺麗な女性だった。
不意にさゆりは、既視感を覚える。
『でも……真治くんは、明日も明後日も、この先もずっと……心の中で泣くんだと思うわ……』
——あの人だ!
最後に真治に会ったあの日。
さゆりとミナトに向かって、涙を流しながら彼女が言った言葉を忘れはしない。
真治と付き合っていた頃、彼の交友関係は把握しているつもりだったが、その女性の事をさゆりは知らなかった。
——あの人は、いったい……
見つめてから、しまったと後悔する。
さゆりの視線に女性が気づいてしまった。
さゆりの姿を見て、少しだけ目を見開いたあと、こちらに向かって歩いてくる。
「あの、」
そして声を掛けられて、さゆりは内心慌てた。
こんな時、何を話せば良いのだろう。
しかし、次の瞬間、女性はさゆりに向かって頭を下げて言った。
「あの時は、失礼なことを言ってしまって、ごめんなさい……」
「いえ! 頭を上げてください!」
さゆりは驚いて、咄嗟にそう答える。
まさか、謝罪されるとは思ってもみなかった。
「あの……真治君を観にきたんですか?」
さゆりが聞くと、女性は「そうです」と頷いた。その瞳が、まだ舞台の余韻に熱く揺れた気がして、さゆりも衝動のまま口を開いていた。
「私は、久しぶりに真治君の舞台を観ました。あの頃とは別人のようにしか見えなくて……正直、すごくて……。まだドキドキしていて……」
——何を言ってるんだろう、私は。
もしかしたら、この興奮を誰かに伝えたかったのかもしれない。
「やっぱり私は、真治君の事が大好きなんだな……って、改めて思いました。今の私が言える立場じゃないって事は分かってるんですけど」
「いえ……」
「だから、何で私は真治君の事を待てなかったのかなって、今さら思ってしまいました」
さゆりは自分の口から次々と溢れてくる言葉に、困惑する。
——これが、私の本心なの?
——私は、本当は真治君の事がまだ……?
軽蔑されても仕方がない。
しかし、さゆりの言葉に、女性は微笑みながら少しだけ目を伏せた後、言った。
「真治くんにとって貴女は……これまでも、これからもきっと変わらず大切な存在なんだと思います」
「え……?」
それから女性はまた頭を下げて、去って行ってしまう。
残されたさゆりは、その後ろ姿が視界から消えるまで見守った。
木調の小さなテーブルの上に、カップが二つ置いてある。
沢渡ミスズは、タブレットを見ながら来週の企画会議の資料のチェックをしていた。
テーブルを挟んで向かい側では、紀村真治が台本を読み込んでいる。
外は冬のにおいに包まれていて、今日も気温が低い。
けれどエアコンで温められた室内は、穏やかな空気と、真治が淹れたシナモンカプチーノの香りに充ちていた。
ミスズはカップを手に取り、シナモンカプチーノを飲む。そして僅かに眉を寄せた。
——やっぱり、味がしない……。
溜息を飲み込んで、再びタブレットに目を落とす。
不思議とミスズは真治の淹れたシナモンカプチーノだけ、味が感じられなくなっていた。他の食べ物や、真治のバイト先の喫茶店のマスターが淹れるシナモンカプチーノは、ちゃんと味がする。
原因があるとすれば、
——さゆりちゃんと、話してからよね……
一ヶ月前、ミスズは、真治の元恋人である橘さゆりに、偶然出会った。
さゆりは真治の舞台を観にきていた。
ミスズはさゆりと言葉を交わしたが、そこで、ある真実に辿り着いてしまった。
『やっぱり私は、真治君の事が大好きなんだな……って、改めて思いました』
——さゆりちゃんは、本当は、まだ真治くんの事が好きなのね……
だからこそ、真治に会いたくて舞台を観にきたのだろう。
よく考えてみれば、真治もさゆりも、お互いが嫌いで別れたわけではない。
単に擦れ違ってしまっただけ……
ミスズから見ればまだ若い二人だ。
人間だし、間違った選択をしてしまう事もあるだろう。
さゆりには今、別な恋人がいる。だが真治に対する想いが消えたわけではない。
——真治くんだって、さゆりちゃんの事を本気で好きだったんだし……
さゆりから別れを告げられなければ、例えミスズと出会ったとしても、真治はさゆりと共にいただろう。
ミスズはさゆりに会い、彼女の想いに触れた日から、真治の瞳が見れなくなっていた。
本当はとっくの前に、心の奥で、ミスズがするべき事は決まっていた。
けれど、それを認めたくなくて、ここまで来てしまった。
——きっと、味がしなくなったのは、いつまでも動かない私への罰なのね。
もう、このままではいられない、そう思う。
テーブルの向かい側に座っていた真治が身じろぎし、ミスズは顔を上げた。
「ミスズさん、冷めちゃったよね。淹れなおしてくるよ」
カップに手を伸ばした真治に、ミスズは首を振る。
「冷めても美味しいから、大丈夫よ」
「そう?」
ミスズが微笑んで頷くと、真治は嬉しそうに笑った。
冷めたシナモンカプチーノを喉奥へ流し込む。例え味がしなくとも、そばにいてくれる真治の優しさは伝わってくるようだった。
ミスズは真治に救われた。
孤独で、寂しくて、どうしようもない心を、真治は見つけて救ってくれた。
他人には明かさなかった境遇を知った上で、ミスズのそばにいると言ってくれた。
真治という存在が、自分に与えられたことが奇跡だと、運命に感謝した。
心の中に張り付いていた孤独が溶けていった。
ミスズにとって真治は、唯一、心を預けた大切な人。
——だから、真治くんには幸せになってもらいたい。
——真治くんに出会えて、本当に、本当にわたしは幸せを感じたわ……
——そうよ。だからこの気持ちだけで、私は歩いていこう……
「真治くん、私ね、さゆりちゃんに会ったの」
「え? さゆりに……いつ?」
真治の驚いた表情。
ミスズの胸が切なくなる。
しかし、もう覚悟は決めたのだ。
「真治くんの舞台を一人で観にきてたの……」
「さゆりが、一人で……」
真治がそっと目を伏せる。複雑な色をたたえてはいるが、あくまで、その瞳は優しい。
冷たくなってきた指先を、ミスズはぐっと握りこむ。
「真治くん、話があるの」
「ミスズさん……?」
二人の視線が交わる。
最後くらいは、ちゃんと真治の瞳を見て話がしたい、そうミスズは思った。
「さゆりちゃんは……まだ、真治くんの事が好きよ」
ミスズは言った。
とうとう言ってしまった——
真治の瞳が大きく見開かれる。
「当然よね……、真治くんの事が嫌いで別れたわけじゃないんだもの。ただ、少し不安になっただけ……」
ミスズは震える唇で微笑むと、真治に言う。
「だから、さゆりちゃんを迎えに行ってあげて……」
「ミスズさん……」
「今の真治くんなら大丈夫よ。真治くんにとって、さゆりちゃんは大切な人だと思うから……」
そこまで言って、ミスズは立ち上がった。
バッグとコートを手に取る。
「さようなら真治くん。ありがとう」
呆然とする真治を置いて、ミスズは玄関へ向かう。
——ああ、またひとりぼっちだわ……
真治と出会えた幸せを胸に生きて行こうと、ついさっき思ったはずなのに、全身が寂しさに震えて、痛がっている。
心が「孤独」という重力に押し潰されてしまいそうだった。
堪えていた涙が溢れる。
——私は…私だって真治くんの事が、どうしようもなく好き……
——でも初めから捨てられた存在は、結局、誰からも必要とされないのよ……
「ミスズさん! 待って!」
背後から真治の声がした。
駆け寄ってきてミスズの腕を掴む。
力を失っていたミスズの身体は、簡単に引き寄せられて、真治の腕の中に包まれる。
冷たくなっていた全身に、温かさが広がっていく。
「真治くん……?」
驚くミスズを抱きしめ、真治は言った。
「ミスズさん、俺は、さゆりの所には行かないよ!」
決して離すまいと、真治の腕の力が強くなる。
「ミスズさん、俺たちは何も持ってない……だから、こんな自分が誰かの事を幸せにはできないんだって、心のどこかで思ってた……」
ミスズの肩口で話す真治の声が震えている。
「でも俺は今、必死なんだ! ミスズさんを守るために、ミスズさんと幸せになるために……!」
——真治くん……
ミスズは真治の手に触れる。
自分と同じで指先まで冷たくなっている。
「私も、真治くんと一緒に、幸せに、なりたい……」
「うん。俺もだよ……」
抱きしめ合ったまま、静かにミスズと真治は泣いた。
それは孤独な魂が寄り添い、溶け合っていく瞬間のようにも見えた。
温かいアパートの一室。
真治は二人分の、シナモンカプチーノを淹れる。
ミスズはカップに手を伸ばし、一口飲む。
——味が、するわ……
苦くて、でも心が落ち着く、シナモンの香りが広がっていく。
そして目の前には、優しい眼差しでミスズを見つめる真治がいた。
ここまで、お読み頂き感謝です。
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