1. アールズバートンを発つ
ダドリー男爵領の中心の街であるアールズバートンの宿に私は泊まっていた。
宿で朝食を取り終わる頃、男爵家の執事が馬車でやって来た。
「5通の手紙を渡しておきます。一つは男爵閣下からノッティンガム伯爵閣下に宛てた手紙です。グラントチェスターの馬車の駅には伯爵家の馬車が迎えに来るそうですから、そこに来た従者に見せなさい。渡す相手は伯爵本人ですから、そこは間違えない様に」
「はい、分かりました」
「また、馬車の各駅の事務所でこれらの手紙を渡しなさい。あなたを乗せた事を男爵閣下に連絡する様に書いてあります。間違いなく次の駅まで運んで貰える保証になります」
「はい。忘れずに渡します」
「こちらはそれぞれの街で泊まる宿屋に向けた手紙です。事前に約束した宿賃で泊めた事、間違いなく宿を発った事を連絡してもらえる様に書いてあります」
「はい、色々すみません」
「あなたをグラントチェスターに移動する事は、ノッティンガム伯爵と男爵閣下の約束です。途中で間違いがあると男爵閣下にご迷惑がかかるので、危ない場所には近づかない様に注意してください」
「はい。わかりました」
そして、執事は私を馬車の駅まで男爵家の馬車で連れて行ってくれた。
「くれぐれも間違いの無い様に、気を付けてください」
「はい。色々ありがとうございました」
私は幌馬車に乗り、ただ一つの荷物である鞄を木箱に入れて蓋を閉めた。この木箱が今日の終着点まで、私の椅子代わりになる。そして、籠を足元に置いて、籠の中に丸まっていた私の家族を抱き上げる。そう、籠は荷物ではないんだ。今はもうたった一人…一般的には一匹になってしまった私の家族の席だ。
「じゃあ、ここで」
木箱に座った私の太腿の上で猫のサーシャは丸くなる。スカートの弛みがちょうどよいくぼみになり、両腕で左右に落ちない様に抑える。私達の準備が出来てしばらくすると他の客も乗り込んだ。
手綱が馬の首を軽く叩く音がして、馬車は走り始めた。
馬車の荷台を囲む幌は突然の雨を防いでくれるが、その代わりに幌の中は薄暗い。直射日光を防いでくれるが、一方、風はほぼ馬車の速度でしか流れない。この季節では少し暑い。そして足の上に猫を乗せていれば汗ばんでしまうが、今はこの子の温もりを感じていたかった。今、私は住み慣れた街を出て、見知らぬ伯父の住む街に移動していく。先週、ただ一人の人間の家族である、母エレクトラが亡くなったからだ。
思えば母が急にこう言い出した時に気付くべきだった。
「今日からあなたに行儀作法を教えるから。もし貴族の家にメイドとして入る事があった場合、それが出来るか出来ないかは重要だからね」
そうして歩き方から立ち方、話し方の特訓を受けた。
「就職するあても無いのにそんなに厳しく教えなくても…」
「こういう事は思い立ったら吉日で、始める以上はしっかりやるべきなのよ」
母はそう言うけれど、毎日宿屋のシーツや手拭い洗いと料理の手伝いで賃金を得ている母が、夜に私に作法を教えるのは辛かった筈だ。一カ月前に母は体調を崩した。
「蓄えがあるからしばらく大丈夫」
そう言って、午前中は私に行儀作用を教えた。午後には私が宿屋の料理の手伝いに行って、多少の賃金を貰った。
そして、遂にベッドから立ち上がれなくなった母は、領主であるダドリー男爵に手紙を持って行く様に私に言いつけた。門番に手紙を渡しても、一介の平民に過ぎない私が持って来た手紙を男爵に渡して貰える筈がないから、母の指輪を持って行く様に言われていた。指輪を見せると、門番は急いで屋敷に飛んで行った。
客間に通されて、男爵に手紙と指輪を見せた。
「なるほど、ノッティンガム伯爵の紋章だ」
手紙を読んだ男爵は尋ねた。
「手紙には伯爵閣下に連絡をして、お母さんと君を引き取ってもらえる様に連絡して欲しいと書いてある。そんなにお母さんの容体は良くないのか?」
「昨日はベッドから立てなくなりました」
男爵は急いで侍従に馬車を出させた。私の案内で男爵家の馬車は我が家に急いだけれど…朝には微笑んでいた母は、その時にはもう瞳を開く事がなくなっていた。3カ月前に死期を悟った母は、本当の最期を私に見せたくなくて、用件を与えて離れさせたんだ。
母の表情には苦しんだ跡はなかった。苦しんで亡くなるのでなければ、私を離さないでも良かったのに…
侍従は母の亡骸を男爵の館のあるアールズバートンに運んだ。男爵はささやかな葬儀を営んでくれた。その間に男爵の連絡兵がノッティンガム伯爵まで連絡してくれた。そうして、ノッティンガム伯爵が残った私を引き取ってくれる事になった。だから、私はこうして5日をかけてノッティンガム伯爵の街、グラントチェスターまで行く事になった。
馬車は午前に一回、お昼に一回、午後に一回の休みを取りながら進んだ。そうして私達はラベンドンの街で馬車を降りた。
宿屋に着いた私達に女将さんは言った。
「男爵様の侍従から聞いているよ。朝はちゃんと起こしてあげるから、ゆっくりおやすみよ」
ラベンドンの街の宿屋の女将さんは私達の街の宿屋の女将さんより若く、優し気だった。私は少し安心して、見知らぬベッドでもぐっすり眠ってしまった。




