第八話
薄明かりの残る夕暮れを背に、ミリアは高原へと続く小径をひとり歩いていた。
足元に咲く小さな白い花々が、風にそよいでやさしい音を奏でる。
空は次第に群青へと染まり、やがて訪れる夜を静かに予告していた。
目の見えないミリアにとって、光の移ろいは肌で感じるものだった。
けれど不思議と、この高原には、目を閉じていてもわかるほどの“静寂の輝き”が満ちていた。
音が遠のき、時が緩やかに流れるその場所に、彼女は歩を進める。
しばらくして開けた高原にたどり着くと、そこには幾百の石碑が、星を模したように配置されていた。
どれも人の背丈ほどで、装飾もなければ名も刻まれていない。
ただ、風化した石肌に、人々の祈りと記憶だけが静かに宿っているようだった。
「…ここは......」
「星の墓標。
かつてこの地に訪れた者たちが、その想いを空に返すために立てた石碑です」
背後から届いたのは、穏やかで涼やかな声。
振り返ると、そこには若い青年が立っていた。深い群青の法衣をまとい、肩には天球儀を模した小さな装飾具が揺れている。
「名前を持たぬ祈り。行き場を失った願い。
ここに刻まれたそれらは、夜空の星に還り、記憶となって巡ります」
「……あなたは、星を読む方ですか?」
「はい。星々の動きと、人の運命の交差点を読む者。もっとも、今では“記録者”のような役割に過ぎません」
青年は、まるで古い友に語るような柔らかい声音で答えた。
ミリアはその声音に導かれるように、石碑のひとつへと近づく。
そっと手を伸ばし、石肌に触れたその瞬間──
胸の奥に、言葉にならない何かが流れ込んでくる。
“……この願いが、誰かに届くのなら……彼の歩みが、どうか途絶えぬように……”
祈りの声。
それは、過去のどこかで老賢者とともに旅した女性の、切実で優しい願いだった。
名前も、顔も、すべては忘れ去られていても、その祈りだけが今もこうして残っていた。
ミリアの目から、静かにひとすじの涙がこぼれる。けれどその表情は悲しみではなく、どこか安らぎを湛えていた。
「……こんなにも誰かを想う気持ちが、強く、優しく、残るものなのですね」
「ええ。祈りは、時を越えて繋がっていきます。
名もなき者の声であっても、誰かの心に触れた時、それはまた新たな“記憶”になる」
青年は天を仰ぎ、続けた。
「空に輝く星のいくつかは、こうした祈りが形を変えて現れたものだと信じる者もいます。たとえそれが迷信だとしても、私は……悪くない考えだと思うのです」
ミリアは、そっと微笑んだ。
見えぬ星空の下で、彼女は確かに、その光を心で感じていた。
別れ際、青年はひとつの小さな紙片をミリアの手にそっと握らせた。それは古びた天文図──ではなく、羊皮紙のような手触りの紙に、ぽつぽつと小さな凹凸が並んでいた。
「これは……?」
「点字で刻まれています。ある旅人が遺した記録の写しです。水に映る記憶──そこに君の探している“答え”があるかもしれません」
ミリアの指先が、その凹凸をゆっくりと辿っていく。目ではなく、心で読むための文字。
彼女にとってそれは、誰かの想いに直接触れるような行為だった。
“祈りは時を超えて集う。
次に向かうべきは、水面を越えた記憶の地。”
その言葉に、ミリアの胸が小さく脈打つ。
確かに何かが呼びかけていた。過去と未来を繋ぐ、記憶の声が。
「ありがとう。……あなたのお名前を、聞いても?」
「それは、また星が語る時にでも」
風が吹き、無数の石碑がかすかに音を立てた。
それはまるで、名もなき祈りたちが、今もなお空を見上げているかのようだった。
ミリアは目を閉じ、心の中でそっと言葉を紡ぐ。
──あなたの願いは、私が繋ぎます。
彼女の胸には、今も誰かの祈りの温度が残っていた。
夜空の星々は、まるでそれに応えるように、やさしく瞬いていた。