最終話
木漏れ日の差す静かな空間。そこに、老賢者の声が柔らかく響いた。
「よく来たね……旅の少女よ。私はエルディス。ただのしがない老人だ」
その声は、まるで何もかもを見通すような、けれど決して押し付けがましくない、深く静かな声色だった。
ミリアはゆっくりと歩を進め、老賢者の前で足を止める。そして小さく、けれどはっきりと名乗った。
「……ミリアと申します。私は、ずっとあなたを探していました」
老賢者は軽くうなずく。彼女の名をどこか懐かしむように、ゆるやかに目を細めた。
「ミリア……不思議な響きだ。どこかで聞いたことがあるような、ないような……」
ミリアは静かに息を吸い込み、両手を胸の前で重ねる。
「私は……全ての病を癒す魔法を探しています。目が見えなくなってしまったから。けれど、ただそれだけのためではなく……」
彼女の言葉は途切れることなく、自然と口をついて出てくる。
それは旅の中で、出会った人々の優しさや、触れた想いの数々が、心の中でしっかりと根を張っていたからだった。
老賢者は黙って彼女の話に耳を傾けていた。
やがて、彼はゆっくりと椅子に腰を下ろし、両手を組んだ。
「……そうか。ならば、いくつか尋ねさせてもらおう」
老賢者は、静かな声で問いを重ねた。
「君は、自分の目が見えなくなったことを……悲しんでいるか?」
ミリアは、少しだけ間を置いて答えた。
「……最初は、とても怖かった。何も見えなくて、不安で、ひとりぼっちだと思いました」
彼女は両手を膝の上に置き、言葉をゆっくりと紡ぐ。
「けれど、見えなくなってから、私は多くの“想い”に触れました。人の優しさ、悲しみ、過去の痛み──それらは、目では見えないけれど、確かにそこにあるものです」
老賢者は黙って頷き、次の問いを投げかける。
「では尋ねよう。もしこの先、目が再び見えるようになったなら──君のその力、失ってしまっても構わないと思うか?」
ミリアの指先が、かすかに震えた。
彼女は考え、そして自らの内を見つめるように答えた。
「……いいえ。もう、無くしたくありません。この力は……私にとって“新しい目”のようなものです。これがあったから、人と深く繋がれた。見えないけれど、大切なものをたくさん感じ取ってきました」
老賢者が目を細める。その瞳は、深い洞察と微かな慈しみを湛えていた。
「そうか……ならばもう一つだけ、答えてもらおう」
老賢者はほんの少し声を低め、問いかける。
「仮に全ての病を治す魔法が使えたとして──それが、君の“大切なもの”をまた一つ失う代償であるとしたら。それでも、その魔法を使いたいと思うか?」
彼女の中で、旅の景色が蘇る。
やがて、ミリアは微笑みながら答えた。
「……私は、もう充分です。見えない世界に、たくさんの光をいただきました。もしそれを失ってしまうのなら──私は、その魔法を使いません」
ミリアの言葉が空気に溶けていった後、部屋の中に静けさが戻った。
老賢者はしばらく黙っていたが、やがて、微かに目を細めて言った。
「そうか……ならば、それで良い。君は、もうすでに“最も大切なもの”を手にしている」
ミリアは、首をかしげた。
「……それは、どういう……?」
老賢者は、暖炉の火の揺らめきを見つめながら、ゆっくりと語り出す。
「君が探していた“全ての病を治す万能の魔法”──そんなものは、この世には存在せんよ」
ミリアは小さく息を呑んだ。
「……え?」
老賢者は、わずかに微笑みを浮かべて続ける。
「だが、全てが嘘ではない。君がこの旅で出会ってきた人々、触れてきた想い、それらすべてが“奇跡”だ。君自身が、誰よりも不思議で、美しい魔法を使っていたのだよ」
「……私が?」
ミリアは、自分の胸に手を当てた。
心の奥が、ぽっとあたたかくなる。
「目を失っても、君は世界を"見た"。人の痛みを知り、喜びに触れ、優しさを感じ取ってきた。それこそが、最も素晴らしい魔法だ」
老賢者の声は、まるで祝福のようだった。
「万能の魔法とは、おそらくそういうものだ。癒すというのは、肉体のことではない。心を通わせ、想いを受け取り、誰かの生を優しく包む──君がやってきたこと、それが魔法でなくて、何だというのかね」
ミリアは、じっとその言葉を受け止めていた。
涙が、彼女の頬を伝う。
「ありがとうございます……エルディス様」
老賢者はゆっくりと立ち上がり、彼女の前に歩み寄る。
「……ありがとうを言うのはこちらだ。私の元を訪ねてきた者たちは皆、自分の病気を治してほしいとだけ懇願し、それが出来ないと分かるとすぐに去っていった。だが、君は違った。君のような者がいるのなら──この世界も、まだ捨てたものではないな」
そして、彼はミリアの頭に手をそっと置いた。
「行きなさい。もう、君は“賢者の問い”に答えを出したのだから」
「……はい。私、自分の道を、これからも歩いていきます」
老賢者は、微笑みながらうなずいた。
「──それと、もう一つだけ」
老賢者は静かに、けれどどこか確信めいた口調で言った。
「心配しなくとも君のその目は──じきに治るかもしれない。そんな気がするのだよ」
その言葉に、ミリアは戸惑いながらも問いかけた。
「……なぜ、そんなことが分かるんですか?」
老賢者は小さく笑みを浮かべ、肩をすくめて言った。
「さぁ、ただの勘さ。長く生きていると、そんな勘も育つものだよ」
その声は、どこか遠くを懐かしむようで、けれど確かな温かさが宿っていた。
ミリアは、そのまましばし黙り込んでから立ち上がり、老賢者に深く頭を下げた。
*
扉が静かに閉まり、少女の気配が遠ざかっていく。
その背を見送った老賢者──エルディスは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
尽きかけたランプの火が、ふと揺らめいたように見えた。
「……あの頃の私は、ただそれだけを信じていたよ。全てを癒す魔法が、どこかにあるはずだと。
あいつの苦しみを、痛みを、消してやれる力が、きっと──」
彼の手が、そっと机の上の古い書物に触れる。
無数の文字が刻まれ、読み込まれ、そして色褪せていった頁の束。
「だが……見つからなかった。どれだけ書を読み、どれだけ旅を重ねても、命を代償にでもせずに得られる“万能”など、どこにも無かった。気づいた時には、私の隣にはもう誰も居なかったよ」
しばしの沈黙。
その静寂を破るように、老賢者は微かに笑った。
それは自嘲とも、安堵ともつかない、年老いた者の深い呼吸のようだった。
「だが、あの少女は…自分の中にそれ以上のものを見つけた。“癒す”ということの、本当の意味を。
彼女はもう、魔法に頼らなくても──大切な誰かを救えるのだ」
老賢者は目を閉じ、つぶやく。
「……ああ、本当は──そんな魔法なんて、最初から必要なかったのかもしれんな」
その言葉は、灯火の尽きた空間の中に、そっと落ちた。
誰に届くでもない独白。けれど、何度も繰り返してきた問いかけだった。
老賢者は目を閉じたまま、かつての風景を静かに思い出す。
笑っていた彼女の顔。差し出された手。失われる前の温もり。
壁際には、古ぼけた木の椅子がもう一脚あった。
埃をかぶり、長い間誰も座っていないその椅子に彼は視線を向け、何も言わず、ただ黙っていた。
外では風が静かに枝を揺らしている。
その音は、まるで時が通り過ぎていく音のようだった。
その微かな響きが、老賢者の胸の奥の何かをそっと締め付ける。
孤独は慣れたはずだった。
けれど今夜は、いつになく深く、静かだった。
風がひとひら、彼の記憶に触れた──まるで、もう戻らぬ想いに祈るように。




