外伝 千明 普通の少女
私の家族は、ごく普通の家族だったと思う。特別に裕福でもない、どこにでもいるような家庭だった。
お父さんは毎朝、外が薄暗い時間に家を出て、仕事に行っていた。仕事は忙しいらしく、夜は大抵九時ごろに帰宅する。
疲れているはずなのに、休日には、ショッピングモールに行って買い物に付き合ってくれた。たまに車でのドライブや、近くの公園へのピクニック。動物園や水族館、映画館にも連れて行ってくれた。
どんな時でも、家族のためにいつも一生懸命な人だった。
お母さんは、パートの仕事をしながら、家事をやってくれた。朝ごはんから夕食まで、いつも美味しい手料理を作ってくれて、洗濯ものはいつも清潔で、部屋の中も常に片付いていた。
仕事も大変なはずなのに、いつも穏やかで、優しい言葉をかけてくれる。何か困ったことがあっても、母に話すと不思議と安心できた。
私たちに寄り添ってくれるお母さんの存在が家を温かくしてくれた。
そんな二人はとても仲が良かった。家の中は、静かになることの方が珍しく、何気ない会話の中にもお互いへの思いやりが感じられた。二人が作り出す家庭の雰囲気は私に大きな幸せを与えてくれた。
この家で生まれ育ったことを神様に感謝していた。でも、この時間は長く続かなかった………
私が小学二年生になった頃、その日は、春なのに蒸し暑い日だった。学校が終わり早く冷房が効いた部屋でのんびりしたいと思いながら帰っていた。
『ただいまー』とドアを開けると、お父さんの靴しか玄関には置かれていなかった。
お母さんはいつも私の帰りに合わせて帰ってきてくれるため、数秒後には『おかえり』と返してくれる。しかし、お母さんの靴もなければ、元気な声も聞こえない。
部屋に入ると、普段よりも早く帰宅していた父が電気もつけず、テーブルに座っていた。
普段この時間に帰ってこない父を見て、私は『お父さん!』と言いながら抱き着いた。しかし、お父さんはいつものように私を抱きしめてくれない。私が顔を上げると、父はテーブルに肘を立て手を合わせ顔を覆い隠した。
私の帰宅に気づいていないのかなと思い、口にした。
「ただいま、お父さん。お母さんは?」
お父さんは私の声を聴くと、涙を流した。
そして、父の口から『お母さんは、もう帰ってこないんだ』という言葉が出た。
言われた時は、何を言っているのか分からなかったが、お母さんが亡くなったと理解した瞬間、膝から崩れ落ちた。
私はこの時に、一生分の涙を流したと思う。本当にお母さんのことが大好きだった。
もう、お母さんには触れられない、声も聞けない、一緒に遊ぶこともできない
………胸の中にぽっかりと空いた大きな穴に、悲しみだけが溢れていた。
お母さんが亡くなった理由が、交通事故だったと聞かされた時、その事実がさらに私を押し潰した。お母さんは私が学校にいる間、仕事場に向かう途中で事故に遭ったという。
トラックが反対車線にいるお母さんの車に突っ込んだ。結果、お母さんは亡くなった。
運転していたのは85歳の高齢者で、ブレーキとアクセルを踏み間違えたのだという。
その運転手は助かり、警察署で事情を聴かれることになった。お父さんと私も警察署へ行き、ガラス越しに運転手と対面した。
お父さんの眉間にはしわが寄り、体中の血管が破裂するのではないかと思うくらい、拳に力を込め机に何度も叩きつけながら、ガラス越しの運転手に向けて罵倒を吐いていた。
その姿に私は圧倒され、怖くてただ座っているしかなかった。
その後、運転手には無期懲役の判決が言い渡された。賠償金はたったの五万円だった。男はお金をほとんどもったいなかったのだ。
………信じられなかった。お金ではない、母が亡くなったのにも関わらず、事故を起こした男は生きている………
結果だけを考えれば、五万円でお母さんの命を奪い、警察署にお世話になるということだ。
このことがたまらなく許せなかった。
けど、私にはどうすることもできなかった。復習することも、お母さんを蘇らせることも。
あれから、数日が経ちお父さんは変わってしまった。




