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助手席にそれを乗せたまま、そして車はトンネルに入る。

トンネルはえんえんと続き、夜はまだ明けないのだった。

 もうわたしは、諦めていた。

 変な夜なのだ。たぶんこの変な夜はずっと昔から続いていて、今なお終わっていない、多分まだ続く。

 変な夜だから、変な事や変なものばかり集まってくるのだろう。


 良かれと思ってやったことすべてが裏目になるような。

 抜けきらない陰鬱な孤独に光を入れたくて、思い切ってハムスターを飼ったら、神様の嘲笑が聞こえたように。

 

 祭囃子は耳の奥で小さく鳴り続いていて、あの原色の不思議な風景は、この殺風景な現実のすぐ裏側にあるのだ。手を伸ばせばすぐに届くような気がして、それでわたしは車に乗った。アクセルを踏み続けていれば、幼い時の記憶の町に行きつけると思って――さすがに、その町で今はお祭りをやっていないことも分かっていたし、昔とずいぶん風景が変わっているだろうことも承知していたけれど――意味の分からない焦燥に押されて、気持ちの悪い体調の中で短い旅に出た。

 ほんの3時間弱でたどり着くはずのその町は、どういうわけかなかなか行きつくことが出来ず、ぐるぐると意地悪な細い道は嫌な山道になり、そして夜がようこそと微笑んでわたしを迎えたのだった。


 (出られないんだろ、まだ)


 やさぐれた気分で、わたしは横目で助手席を見た。

 くねくねとした夜の山道は相変わらず人気がなく、右手にそびえる崖や林からは、カモシカだのイノシシだのが、今にも出てきそうだった。風が強くなってきたらしくてハンドル操作に抵抗が出てくる。ガラスを通して、木々のざわめきが聞かれるのだった。

 

 白いガードレールがぐんにゃりと歪んでいて、かつてそこで事故があったらしい痕跡があり、ますますぞっとした。

 この細い道は結構高い場所を走っていて、ガードレールから転がり落ちたら下は、とうとうと流れる豊かな水源なのだった。大昔の記憶に寄れば、幼い私はこの川のどこかにかかっている長い吊り橋で、とうさんの腕に抱かれてぎゃあぎゃあと泣いていた。泣くと余計揺れるぞと言われ、冗談で揺らされた。

 ……。


 ものすごい高さの、凄まじい絶景。吸い込まれそうな。

 

 助手席に座っているものは、色白で、ほっそりして、やけに小柄で、普通のTシャツにショートパンツといったいでたちらしかった。豊かな黒いおかっぱの髪のせいで、横目でちらちら眺めているだけでは顔までは分からなかったけれど、むき出しの白い腕や足に嫌な傷が細かくついていて、生々しく血がこびりついているのを見ただけでもう十分だった。


 「仲間はね、この先で朝を待ってる」

 だから、このまま行ってくれれば間に合うと思う。


 その、幼女のようなものは、変なことを言った。

 何の仲間だよと悲鳴交じりに聞き返そうとして、わたしはぐっと飲み込んだ。ものすごい急カーブが目の前に迫り、地盤崩れを防ぐためのコンクリがいびつな形で道に張り出している。

 手招きしているような灌木の黒い枝の下を、軽は潜り抜ける。

 その時、またわたしは、下の方に町の灯りを見たような気がしたのだった。

 (近くに町がある……)


 からすに襲われた、わたしは死んだかもしれないと、そう言った。

 一体、このお化けがなにを言っているのか分からないし、分かりたくもないと思った。

 嫌な感じに白い腕には血の気がなかったし、ふさがりかけたような湿った傷口には泥がこびりついていた。

 もし仮にこれが生きている人間だとしたら(そんなことはないだろうと、諦めていたのだけど)、事件が疑われるようなありさまだ。山奥に小さい女の子が傷だらけになって放置されていたとして――ああイヤだ――やはり生きているとは思えない。


 ぎゅっとカーブを曲がりながら、車はのろのろと進んだ。

 夜は相変わらず明ける気配がなく、ラジオは陰気なギターを流し続けている。

 頭の中では忙しく色々なことがよぎった。


 仮にこれが生きている人間だとして、ましな結末が待っているとは思えない。こいつが凶器を隠し持っていないとどうして言える。わたしはハンドルを握っている。横からナイフを突きつけられたとしたら。


 しいんと座り続けているそのものは、とうてい正気の人間には思えない。

 そうして目の前にはちょっとした山がそびえており、そこからわたしは長いトンネルに入らねばならぬ。

 暗いオレンジの照明がえんえんと続く古いトンネル――上から水が垂れていて、下は鏡のように光っていた――ごう、と、トンネルの中に入り、途端に流れていたギターは途絶えて耳障りな砂嵐のような雑音になったのだった。


 出口は遙か遠い。

 四角い照明が規則正しく並んでおり、対向車線をすれ違う車もない。

 バックミラーにはトンネルの入り口がみるみる遠ざかり、やがて外の風景は一切遮断された。

 わたしはちらっと横を眺め、またしても見たのだった。


 助手席側のミラーに、そいつの目が映った。

 黒髪をぱっつんと切った前髪の下に、日本人形めいた三日月形の眉毛が細くあり、その下に丸くて黒い目が見開かれていた。見開かれていながら何も映していない無表情な目は、同じ人間として違和感があった。

 次元の違う魂を宿している……。


 助手席のミラーに映った目で、運転席側にいるわたしの視線を捉えることができるわけがないのだけど、その黒い目がくるりと動いて、かっきりとわたしを見た――ありえないのだけれど。


 ごうごうとタイヤの音を響かせながら車は走り続ける。

 トンネルはまだ続く。


 「あたしを食べるでもなかったの」


 それは、ぽつんと言った。あどけない声。


 「おなかを空かしているわけでも無くて、ただ、弱い者をもてあそんで気を晴らしたかっただけなの」

 あたしは、肉程の価値もなかったの。

 ……。


 

 淡々とした声に悲しみの色はなかった。理解を超えた乾き方だと思った。

 傷だらけの白い腕が微かに動き、やせ細った、弱そうなそれは、かぼそく呟き続けるのだった。


 「でもね、諦めるわけにはいかなかったから、逃げ込んで体を休めていたの。あなたが来たからついて一緒に出てくることができた。一人だったら、ずっと屋根にいたあれが、また何をするか分からないから」


 屋根にいた、と、言った。

 カア、カア――夜烏の嫌な泣き声が耳に蘇る。


 ざあざあとラジオが荒い音を続けていた。


 「なんで、わたしはあんたみたいなのと出くわしたんだろう」

 精一杯の抵抗のつもりで出した言葉は、しゃがれて震えていた。

 ハンドルを握る手は汗ばんでいて、指の関節が白く浮き出している。両肩に滅茶苦茶に力が入り、わたしは今にも息切れを起こしそうだった。

 なにかとんでもないものが助手席にいて、今ここは山のトンネルで、嫌でもわたしはそいつと二人きりだ。

 

 「近いところにいたから」

 明快にそいつは答えた。

 

 「あなたは、すごく近いところにいたから。だからわたしの姿が分かるし声も聞こえるんだと思う」

 近い、ところ……。


 助手席のミラーに映る眼は無機質に見開かれていた。


 「長い長い、トンネルみたいなものなの。いつ出ることができるか分からないし、そもそも、こんなところに入り込んでしまったことも、誰も悪くない。ただの偶然なの」

 あたしが、たまたま仲間の中で小柄で動きが遅い個体だったのと同じで。


 「あなたはずいぶん長い間、そんな場所に留まっている。だから、人よりちょっとだけ、おかしなことや物事にあいやすいけれど、そんなもの、羽根の傷ほどの深刻さもないことよ」


 

 

 まだ37度あるね、どうする、行く。

 放っとけ、ずっと拗ねてろ。一人で寝てなさい。どうせあさってには戻るんだから。

 そりゃ可哀そうだろ、あたしが残って見ていようか、ねえ、どうする……。


 「いいよ」

 全く、家族の顔など見ようともせずに。

 ばあちゃんが持ってきてくれた朝食も手を付けずに。

 襖から覗き込むみんなに背を向けたまま。


 夏の明るい朝がカーテンから透けて勉強部屋に差し込んでいた。

 赤いランドセルに光と影の縞模様ができていて、夏の工作に影を落としていた。

 襖は閉まる。その襖の向こうには、楽しみにしていた夏の旅が始まりを待っているはずだった。

 37度だし、そのうち下がる、一緒に連れていってと、その一言が出てこなかった。


 誰が、思うだろう。

 もう会うことなどないなんて。





 ごうごう……。

 ざーざーざー……ざー……。


 「でも、ね」

 ふいにそれは、細い腕を伸ばした。

 ギアを越え、冷たい指がわたしの体に触れた。

 ものすごく嫌な感じが全神経に走り、わたしは思わずハンドル操作をあやまりかけた。対向車線に大きく飛び出した。


 「大丈夫、すぐそこだから」



 キキキキ。

 タイヤが横滑りする音が耳をつんざき、わたしは勢いよくハンドルを切り直した。ブレーキを踏んだはずがアクセルを踏み込んでおり、古い軽はうめき声をあげながら凄まじい速度で突き進み、助手席のやつは鋭い声で、開けて、早く窓を開けて、と、叫んだのだった。


 ぱっと景色が開け、えんえんと続くかと思ったトンネルは唐突に出口を超えていた。

 闇が薄れて光が差し始めている。

 とたんに砂嵐が止み、ラジオはよく知っている、クランベリーズのナンバーを流していた。

 わたしは左手のガードレールの向こう側に、まだ眠りの中にある町並みを見つけた。本当にすぐ側に、町があった。

 24時間営業の光があちこちに灯り、薄くなってゆく闇の中で、サクマドロップのような安っぽい色を放っている。

 緩い傾斜の下り坂を走る。

 

 「早く、早く早く、今」


 細くて鋭い爪が腕に食い込んでいる。

 そいつは両手でわたしの左腕に喰いついているのだった。

 それまでミラー越しだった黒い目が、至近距離で、下からわたしの目を見上げており、真っ白な顔色の中で、やけに尖った小さな赤い舌が、ちらりと覗いた。


 わたしは反射的に右の肘で運転席側のドアについている操作ボタンを押した。

 すごい音を立てて、四つの窓が全部開き、髪の毛が吹っ飛ぶような勢いで、山の水っぽい匂いのする風が飛び込んできたのである。


 


 何がどうなったものやら。

 小さな爪が食い込んだ痕は未だに痛んだが、朝焼けは見る見るうちに勢いを増してゆき、空は鮮やかな朝の青に移り始めていた。

 がらんとした助手席を横目で見て、吹き込む風のあまりの冷たさに、わたしはぶるぶると震えた。急いで窓を閉めると、閉め切る瞬間に、賑やかなさえずりが飛び込んできたのだった。

 無数の雀がさえずっており、ふいに、右手から――崖肌の上に、鬱蒼とした山の林が見えていた――ばたばたと鳥の大群が飛び出してきて、軽の上を過ったのである。


 それは凄まじい数の群れであり、雀はかなり低い位置を飛んでいたから、わたしは車を急停車させた。

 雀たちはやかましく鳴き、はばたくながらすぐ鼻先を飛び越えて行き、ガードレールのすぐ下に広がる町の中へ雪崩れ込んでいく。今や明るくなり――携帯の表示は午前4時半である――その町の電線の一本一本までが、ここからよく見えるのだった。


 図々しい程の力強さで飛び去ってゆく中で、最後の方に、やけにたどたどしい飛び方の一羽が連なっている。

 それは翼が傷ついているようだが、必死にばたつかせ、ちっとも速度を緩めてくれない仲間たちの後を追って町に飛び込んでいった。

 これから朝の町の、コンビニのゴミ箱やどこかの駐車場のアスファルトに散らばる餌を求めるのだろう。


 なんとなく、雀の大群を見送ってしまうと、わたしはギアを入れ直し、アクセルを踏んだのだった。

 (深く、考えまい)

 わたしは思った。

 

 とにかく、夜は明けたのである。

 経験したことに意味を持たせるのは、もっと後、体をじゅうぶんに休めて、頭がまともに動くようになってからでいいと、わたしは思った。

 

 朝日はますます強くなり、車はなだらかな坂を下って、ついに目の前を横切る国道にたどり着いたのである。

 国道に出れば、町まですぐだ。

 



 やがて色々な看板が見え始め、自転車で畑に向かうおばあさんや、軽トラを運転するおじさんとすれ違うようになった。

 最初のドライブインに駐車し、わたしは車から出て、やっとのことで体を伸ばしたのである。

 三角巾をつけた大仏パーマのおばちゃんが店の前を箒ではいていて、車から降りて来たわたしに無表情に会釈をした。きわめて不愛想に、どうぞと言われた。


 「……町は、まだ遠いですか」

 その、思い出の町の名を出すと、おばさんはちらっとわたしを眺め、何を言っているんだと言わんばかりに、おねえさんここはもう、……町ですよと答えたのである。


 店の中から食べ物の温かな匂いがしたので、わたしはふらふらと入った。

 眠たそうな顔の太ったおじさんがカウンターから顔を出し、食事ですかと言った。

 適当な席につくと、さっきのおばさんが来てどっかんと水を置いてゆく。注文をして、待っている間に、気抜けした感じであちこちを見回した。


 汚れた床の、広い食堂は、割りばしや塩、しょうゆなどが乗ったテーブルがずらっと並んでいて、丸椅子やら、壁の棚に詰め込まれた漫画本やら、すべてが古く使い込まれていた。

 旅人や町の人たちが、古くから愛用している店だ。

 

 店の壁には大きなポスターがいくつも貼ってあり、色々なイベントが紹介されていたが、その中に見覚えのある原色の風景を探し当て、ああ、やはりここだと溜息をついた。

 祭りは来月にある。まだ先だけど、来月になれば、またあの祭りがここで、ある。


 強烈な原色の神輿や衣装、きつねの面を被った人の奇妙な踊り。

 まだ温かな秋の日差しの中で祭囃子が奏でられ、今年もたくさんの屋台が並ぶだろう。

 林檎飴の艶や、飴細工の色、いろいろな焼き物の匂い。蘇る風景は記憶の中のものだけど、現実のものとして、祭りはちゃんとそこにあるのだった。


 どっかんと置かれたきつねうどんは光沢を帯び、強い湯気を放っていた。

 やや濃い出汁がからんだ麺をすすり、甘い揚げを噛み切った時、何だ生きているじゃないか、と思った。

 憑き物が取れた瞬間だった。


 生きている。

 生きて、朝一番のうどんを食べて、来月の祭りの事を考えている。

 

 厨房から聞こえてくる物音や、ラーメンのスープを作っているらしい匂いなどに包まれながら、わたしはただひたすらうどんを食べた。

 (何事も、大したことない。なんでも深刻にならず、なるようになるしかない。何かあっても、ものを食べれば元気になるだろうし、死にたいと思っても、その時が来るまでは生きてゆけるものだ)

 夢だの希望だの幸せだのとは、およそかけ離れた荒んだ心の持ちようかもしれないけれど。


 それでも、きつねうどんは熱くて旨い。

 頭の芯が少しずつ洗い出されてゆき、物事がきちんと見えるようになるのは、もうじきだと思った。


 これからまた、運転して、帰る。

 一人のアパートの、あの部屋に。

 

 空の籠が残る、カーテンがひらきっぱなしの部屋の事を思うと、少し嫌な気分がしたけれど、きつねうどんの熱さが体を励まして、それでもなんとかなるような気がした。

 どくんどくんと心臓が元気よく動いている。

 食堂には小さなテレビがあって、だるそうに朝のニュースを始めていた。

 一日が始まろうとしていた。

 

 カラカラと輪っかを回すハムスターは、子供に可愛がられているだろうか。

 わたしはまたいつか、別のハムスターをこっそり飼うのだろうか。

 



 出汁まで飲み干して、わたしは立ち上がる。

 さあ、戻ろう。

 夜だろうが朝だろうが、命が続く限り、わたしは、行く。

 

 行くのだ。

この話を2話で終わらせようと考えたのがそもそもの間違いでした。

3話目が長くなりました。


なんら希望も甘さもないけれど、なんでもいいから生きてごらん、きつねうどん食べなよ、お化けや汚い公衆便所もこの世にはあるけれど、という話でした。


読んでいただき、ありがとうございました。

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