君と共にあれたらと夢に願う。
君が元気でよかった。君が笑顔でいてよかった。君はやっぱり気付いていた。
君の変わらない優しさにまた一つわがままを言いそうになるの。
【君と共にあれたらと夢に願う。】
「おはよう」
「おはようございます」
横に布団を並べて寝ていた葵に、そっと声をかける。彼女は横になったまま、まだ眠そうに目を擦ってからわずかに微笑んだ。
「どうや!葵の浴衣用意してみたんやけど、着てくれるけ?」
父は祭り実行委員の手伝いへ、環はすでに他の友人と祭りへ遊びに出かけていた。
二人して掃除して少しのんびりした昼下がりの午後、思い切って彼女へのプレゼントを掲げた。
「これ、もしかして昨日買い物行ったときに藤人さんが…?」
「ほや。押し付ける形で悪いんやけどなぁ。せっかくやと思ったし」
紺瑠璃色に鮮やかな薄紫色の藤と深緑色の葵の模様が控えめに散らばった浴衣。今日のために、と急遽買い物のとき買ったのだけれど二つの模様が合わさっていたことは本当にラッキーだった。
「私のために?いいんですか…?」
「もちろんやざ!他に誰のため言うがぁ。早速助っ人呼ぶで」
浴衣を受け取った葵は初めておもちゃをもらった子どものように、きつくそれを抱き締めている。
しばらくして近所のよくしてくれるおばちゃんがやってきた。藤くん、あとでおばちゃんにも詳しくなぁとにやけた顔で彼女は葵を仏間へと連れて行ってしまった。
きっとあとで本当に質問攻めを食らうだろう。田舎まで好きな彼女を連れてきたことなんて一度もなかったからなおさらだ。
はは、と苦笑いを浮かべて一人残された自分も浴衣に着替えるのに専念することにした。
数十分経った頃だろうか。風に乗って聞こえる祭りの音へ耳を傾けていると、突然居間の襖が開いた。
「……………っ」
情けないとは分かっている。けれどあんぐりと開いた口は塞がらなかった。唖然として襖の向こうを凝視する。
「あの、似合いませんでしたか?」
ほんのり化粧をして黒髪をまとめた浴衣姿の葵は別段美しかった。可愛い部類に入っていた葵は今日、特別美人である。奥ゆかしくもはんなりとした彼女の雰囲気がひどく艶やかに見えた。
なんだか鼻がツンとしてくる。顔が紅くなるのが自分でも分かって顔を反らしながら小さく答えた。
「ほうでのぉて…見とれてしもた」
「藤人さん、ありがとうございます」
別嬪さんにできたやろ?後ろからニヤニヤしながらおばちゃんが顔を出した。
二人で御礼するとほや、楽しんでなと言うとそのまま出て行ってしまった。いわゆる空気を読むというやつだろう。
時間はもう正午を過ぎている。手を出すと葵が首を傾げた。その仕草がとても懐かしいような気がした。再会したとき、葵の手を握ろうとして首を傾げられたんだっけ。思い出してひとり微笑む。
葵、やっぱりずっと…。そう言いかけて口をつぐんだ。口にしてしまえば今別れを告げるようで嫌だった。
どうか、少しでも長く彼女のそばにいられるように。今を幸せに感じてくれるように。握られた手にそっと願った。
いつも遠くからその賑わいを明かりを、静かに見ているだけだった。まさかここに自分が来ることになるなんて思いもしなかった。
ほや、たこ焼きやざぁ!
お嬢ちゃん、金魚すくいやが!
四方八方からいろいろな人の声がする。こんな賑わいを見るのは初めてだった。色とりどりの屋台に目が回りそうになる。赤、青、橙、緑、黄。
そんな目移りの激しい私を横目に、藤人さんは楽しげに笑った。
「ほな、早速お腹空いたしたこ焼きや!」
「あ、お金…」
「俺も楽しみたいが。俺が全部出すから気にせんでええんよ」
早速、たこ焼きを買ってきた彼はそのまま食べようとする私を慌てて止める。
こうやって食べるんやざ。
たこ焼きを息で冷まして食べる彼を真似る。それでも熱くてはふはふと口を動かしていると猫舌かと突っ込まれた。挙げ句に笑われて少し恥ずかしい。
一緒に食べ終わると藤人さんはすぐに立ち上がった。もう行くんですかと驚けば、無邪気に彼は笑いながら当たり前や、祭りは食べて遊んで楽しまんとと声を張り上げた。
それから射的をしたり、金魚すくいをやって近くの小さい子にあげたり。かき氷を食べたときは二人で舌見せ合ったりして大いに笑った。藤人さんの舌は青に、私の舌は桃色に近い苺の真っ赤な舌に染まっていた。
歩いているのは家族連れと綺麗な彼女を連れた恋人たち。
「みなさん美人ですね」
「葵の方がきれいやし」
「!?」
不意に彼に頭を撫でられて額に口付けられた。きょとんとしているとほや、行くでと繋がったままの腕を引っ張られた。
こちらから彼の顔は見えない。けれどきっと真っ赤な顔をしているだろう。前へ進む彼の耳は赤く染まっていた。
それからまたしてもラクガキせんべいの屋台で不意を突かれる。
思わず笑いそうになった。横長のお煎餅に描かれていた絵は誰が見ても恐らくブタに違いなかった。どう見たって彼の主張するものに見えない。
「猫やって!うちのチビや!」
「本当ですか?ふふっ」
「笑うなやー、小学校から美術の成績2やったんやもん。仕方ないやろ」
ぷっと拗ねたように彼は顔を背けた。それが可笑しくて笑っていると藤人さんも釣られたように吹き出す。
輪投げをしたり、桃色の雲の形をした綿アメを買って食べたりと藤人さんはそのあともたくさんの場所に連れて行ってくれた。
少し休憩しよか。
彼の言葉に頷いて屋台から少し離れた長いすに腰掛ける。
遠くから見て改めて人々の多さに感心する。そしてその中に先ほど私たちもいたんだ。彼が手を繋いでくれながら。
不意に、涙がぽろりと零れ落ちた。隣で藤人さんがギョッと驚いたのがわかる。彼は慌てふためきながらも優しく頭を撫でてくれた。
「疲れたん!?楽しくなかったんか?」
「いいえ…っ」
違うと言いたくて首を振る。けれど涙は止めどなく溢れて声にならない。
「楽しくて、仕方ないんです」
今が幸せ過ぎてつらかった。いつまでも続いてくれそうなこの時間はいつか夢に変わる。いや、これすらが夢なのかも知れない。
葵、彼が呼んだ。
「………怖いか?」
覗き込むように見る彼はただ真面目な顔つきで私だけを見つめてそう問うた。
まただ。また優しい彼は私の気持ちを痛いほど理解してくれている。
声も出さずに頷くと、彼は優しくそっと抱き締めてくれた。包み込まれた彼の胸から心臓の音が聞こえる。見上げようとして頭を押し付けられた。
「…俺もな、葵がえんくなるの怖いねんで。今やって嘘やと思っとる」
さらに強く抱きしめられた。彼の鼓動がさっきよりも少し速い。
「葵、好きやざ」
彼の声が低く呻いた。耳元で囁かれる言葉が心苦しい。思い想った気持ちは貴方に届くだろうか。無邪気で素直な子どもように純粋な人。口にしてない想いを言葉にすれば壊れてしまわぬだろうか。
「のぉ、葵」
確かめるように藤人さんはわずかに体を離して私を見つめる。見つめ返す先に彼の漆黒の瞳がゆらゆらと揺れる。
「俺…、葵の気持ちも聞きたいんよ。ただ恩返しするためにそばにおってくれるだけなんか?これは俺だけの片想い?」
苦しそうに顔を歪める。そんな彼を止めたくて言い出せなかった自分がひどく情けなくて、止まったはずの涙がまた溢れてきた。
「違う、違うんです!私も貴方が好きなんです、お慕いしてます…!」
気付くと私は叫ぶような想いで口にしていた。もう必死だった。どうしたらこの想いが伝わるんだろう。伝えられるだろう。口にすれど伝えきれない想いがもどかしい。言葉にしてなお溢れる想いはなんて深いものなのだろう。
「藤人さん、私…私ね…!」
「…ええよ、もうええよ葵」
充分伝わったが。
彼の嬉しそうな笑顔。だけどこれでよかったのか。言って不安になる。 彼はそれを望んでいた。けれど果たしてそれが良い結果なのか。
すると、気付いた彼は少々強引に私の顔を両手で包んで面を上げさせた。
「前にも言ったやろ?そういうのなし」
「…ありがとう」
心の底から笑ってみせる。
彼は突然眉間にシワを寄せて俯いた。また鼻を押さえてあらぬ方向を見ている。
「藤人さん?」
「……っあー、もうだめや。余裕ない。葵、ええか?」
それが口付けのことだと気付く。ぱっと熱を持って頬が紅く染まったのが解った。静かに頷いてそっと目を閉じる。
瞼から頬へ。頬から唇へ。重ねたそれは彼らしい優しいものだった。触れるだけの口付け。
気恥ずかしくてすぐ俯く。けれど彼は意地悪するように何度も何度も口付けの雨を降らし続けた。
しばらく休んだ後、私たちは灯篭流しの会場へ向かった。
会場へ着くと老若男女問わず藤人さんは声を掛けられていた。友人が多い人だ。優しい好青年だし、さぞかし女性からの人気も高いだろう。
考えているといつの間にか、灯篭2つとりんごあめを持ってきてくれた彼がいた。知らん顔ばっかですまんな。そう言ってお詫びの代わりなのかリンゴ飴の一つをくれた。
「ほや、そろそろ穴場行こうか」
一旦河辺から道路に出て雑木林の中を抜けると、ぽっかり小さな空間が広がっていた。広くもなく、狭くもなく。大きいくらいの石が転がった地面に座らなくてもイスの代わりをした倒木があった。どういう仕組みでここだけ残されたのかは分からない。ただ、
「おいで、葵」
その声に導かれて、私は彼の隣に腰掛けた。
すでに灯篭流しは始まっていた。人々の願いや思いが込められた灯篭たちが川の流れに沿って緩やかに流れていく。
「きれいやな」
「きれいですね」
きっとこの中に父や環の思いが託された灯篭も一緒になって流れているんだろう。葵と二人、静かにそれを眺めていた。
向こうから読経の声が聞こえる。厳かな雰囲気が辺りを漂っている。
「葵には願い灯篭、俺は供養灯篭やざ」
筆ペンも一緒に彼女へ渡す。自分は亡くなった母親へ宛てた毎年の思い。彼女は願い灯篭に何を書くのだろう。
「葵、」
「いやですよ、秘密ですから」
目が合った彼女はしてやったりといった表情でにんまりと微笑んだ。
「言ったら叶わなくなるじゃないですか」
「なんやそれ」
そう言って二人で笑う。
黙々とそれぞれの思いを灯篭に込めて筆を執る。静かで穏やかな空間だった。
できたか?できましたよ。
葵と自分の灯篭に火を灯した。風を受けることなく整然と灯った灯篭の火は厳かに光をたたえている。
「ほや、流そうか」
「はい」
二人で川面へ近付くと、そっと倒れぬよう川の流れに灯篭を委ねた。数え切れないほどの灯篭に混じって2つの灯りが溶け込んでいく。
見るたびに思うのだ。これは人の魂のようだと。灯された温かな光たちは、それぞれの流れに沿って海へと向かっていく。
人の手によって流されたそのほとんどは海で旅の終焉を迎えるのだ。岩にせき止められるものもあれば、傾いたりしながらも体制を整え海へ流れて着くものもある。始まりも終わりも同じ。違うのは流れ沿った道だけ。
しばらく眺めていると2つの光は混じり合い重なって、見えなくなっていった。
「人の魂みたいやろ?」
「…はい」
「だから美しく見えるんやろな」
「……………」
葵?
立ち上がって横を見ると、彼女はもう消えかけていた。何かを悟ったように微笑んだまま、葵は川面を見つめている。
「私も、人間になれるでしょうか」
そう言う彼女の表情は驚くほど穏やかだった。
「……葵、葵」
「聞こえてますよ」
「好きやざ。愛しとうよ」
持ち上げた彼女の手はまだ温かかった。存在を確かめたくて、彼女の額に瞼に頬に口付けを落とす。
「くすぐったいです」
「俺本気やで?」
「ふふっ分かってます」
「葵は?」
「好き、です。お慕いしてます」
「………………」
「藤人さんが言わせたのに何を恥ずかしがってるんですか」
あくまで気丈に振る舞う葵。向かい合うその身体は腰まで消えかかっている。
「もう……」
「俺、待っとるやざ」
「………っ……」
そっと彼女の手をすくって口付ける。葵は驚いたような顔をして、けれどすぐにその表情は泣き顔に変わった。
「なんで、そういうこと言うんですかっ」
「好きやからに決まっとるやろ?」
「………ッ」
「葵」
愛しとるよ。
もう一度言う。万感の想いを込めて。
泣きながら彼女はわずかに微笑んだ。目一杯に溜めた涙を指で拭ってやると堰を切ったように溢れ出した。
「夢を見ていても、いいんですか?」
何度も何度も、その涙を拭う。まるで狐の嫁入りみたいだ。曇りない彼女の瞳からは雨のような涙の粒が降って落ちてくる。
「ええんよ、俺も新しい夢できたし」
「え?」
「秘密やざ。言ったら叶わんようなるやろ?」
彼女の言葉を借りて言う。すると葵は困ったように微笑んだ。
それから、自然と二人の顔が近づく。二度目の口付けは涙の味がした。これが初恋ではないのに、淡い想いが胸に広がって痛みへと変える。
葵は一歩後ずさった。繋がっていた手がそっと放れていく。
二人見つめ合ったまま、彼女が何か呟いたのがわかった。葵の前では涙を見せない。そんな決意が揺らぎそうになる。どうにか堪えて、応えるよう彼女に微笑んで見せた。
どうか貴方が幸せであるように。
「藤人さん、」
その言葉を皮きりに、視界が小さな光の粒によって遮られた。どこからか現れた、鮮やかな緑色に光る無数のホタルの群れだった。ゆっくりとその光が上っていく。
止めはしなかった。彼女の想いは伝わったから。
独りになった河原の向こうで、突然体を震わすような大きな音がした。それは夜空に咲く、大輪の花。
「のぉ、葵。花火綺麗やね」
雨が降っている。星のよく見える、夏の夜のことだった。
***
あれから一年が過ぎた。弟の環は中学生に上がり、自分も無事大学四年生になって一つ歳をとった。
父には彼女の正体を伝えてはいない。唯一事情を知るのは自分と環だけだった。感づいていたらしい環はあのあと、そっと話を聞いてくれた。
卒業後の進路は早々に決まっていた。今だからこそ、受け入れることが出来たのかも知れない。
「のぉ、葵」
話しかけた彼女は長い黒髪に愛らしい笑顔。よく泣いて笑う愛しい人。
なんですか?
けれどそんな返事はかえってこない。
ここは彼女と再会した場所。出逢ったときよりも綺麗な祠。
「ほんま健気やのぉ」
隣で雑草を抜きながら環は言った。
「何度も里帰りしよって行くのはここやもんなぁ」
「やって、参拝しとったらまた帰ってきてくれるかも知れんやろ?」
「…そうやね」
静かな森に佇む祠。そこには饅頭が供えてある。
ちゃんとおるやん。
穏やかな雰囲気に彼女を見た。
「葵」
今でも君を想う。
次、おまけで最終回です。