君は変わらず優しかった。
貴方が少しずつ消えていくの。私の中からゆっくりと。いなくなるのは私。消えるのは貴方。
せめて恩返しするまではと願う。与えられるばかりの私は、まだ貴方になにも返せていないのだから。
雨が降っていた。夏の入道雲が昨日、今日と雨を降らせ続け乾き切った大地を潤す。縁側の方からは屋根をタンタンと叩く雨の音が鳴り響いていた。
「久々の雨やなぁ。立派な入道雲が出来てたもんやしなぁ」
父は朝早くから農協の会議だかに向かい、環も友達の家へ遊びに行くと言って家に残っているのは自分と葵だけだった。静かで穏やかな時間が流れる。
昨日は先日の遊び疲れで二人ともほぼ家でだらけていた。今日も午前に葵とすでに買い物を済ませてしまったので別段やることがない。
ちなみにお昼は葵におにぎりを作ってもらった。彼女の作ったおにぎりが食べたいと言うとあっさり了承してくれたのだ。言ってみるものである。
「夏の夕立ですね」
「ほやなぁ。すぐ止んでまうと思うんやけど」
高校野球の生中継を尻目にのんびりだらりとして縁側の外を眺めていた。庭からは遠くに山間の町が見える。家が密集しているのを見るとこちらは人里離れた田舎町と呼べるのかも知れない。
「俺、そろそろ帰らなあかんねん」
そう言うと葵は不思議そうに首を傾げた。一人暮らしなんですよね、と言葉を付け加えて。
「大学ですか?そういえばどこへ通ってるんでしょう?」
「ん?あぁ、東都農工大学しょや。みんなレベル高いねん。あんま休んでると置いてかれるやざ」
学費の負担をかけたくなくて必死に勉強した挙げ句、念願の国立大に合格した。名はあまり知られてないが、それでもこの大学に通う学生のレベルは非常に高い。来年には就活という魔の四年目が迫っていることもあり、みな勉強に資格にと躍起になっている時期だった。
「実はこの先就職か大学院に行くか悩んどるんよ。研究員なれば夢を追うことができるんやけどまた金がかかるやざ。しかも滅多に帰れんようになる…」
就職すればここも安定するだろう。環の進学だって好きにできるようになる。口には出さない。強がっていてあの子も気にしているのは分かっているから。
夢を追うか現実を見るか。その二択に過ぎない。雲はだんだんと晴れてきた。けれど雨はまだぱらついている。
「狐の嫁入りやね」
さり気なく言った言葉に葵は小さく笑って見せた。それから今この場にいることを確かめるように大きな深呼吸をする。
「綺麗やなぁ。もう少しいたかったけど1年で決めなあかんのやざ」
寂しげに俯いた葵の頭を気紛れに優しく撫でた。そんな顔はしてほしくない。その気持ちを理解してくれたのか、彼女は苦笑気味に微笑んだ。
「父ちゃんの畑継ぐ考えは今のところはないんじゃ。しばらくは環に任せる。落ち着いたら、考えなあかんけどな」
「雨、降らない方が良かったですか?」
お盆を手に立ち上がった葵は苦笑したまま、不意にそう問い掛けた。
「なんでなん?雨は農作物の恵みやざ。降ってくれてありがたいが」
「なら、よかったです」
なんで葵がそんな嬉しがるんやろ?よく分からないまま座って彼女を見上げたその時だった。不意に倒れそうになった葵の身体をすんでのところで受け止める。
何が起きたか分からなくてとっさに受け止めた腕の中の彼女を見つめた。大きな玉汗が額からにじみ出ている。
「葵!?」
声をかけると力弱く握り返された。熱だろうか。彼女の前髪をかきあげて触れると少し熱いぐらいだった。座布団を枕代わりにすると葵を待たせて部屋を飛び出した。
熱に浮かされている。自分が浮いているような沈んでいるような奇妙な感覚がずっと続いていた。
目を開けると、そこにいたのは藤人さんだった。心配そうに見つめていた彼にそっと手をのばすといくらか安心したように目を細める。
「平気なん?」
「もう大丈夫です。ありがとう」
起きようとするとまだ寝とけと諭される。けれどその方が楽なんです、と言うと彼は困ったように笑って仕方がないのぉと許してくれた。
自分がいるのは仏間だった。ここまで彼が運んでくれらしい。お盆を片付けようとして力無く倒れてしまったのを覚えている。彼にはまた世話をかけてしまったみたいすみません。謝ると、少し怒ったように彼はそう言われるようなことはされてへんと口をとがらせた。
窓の外ではもう雨が止んでいる。直前まで自分のしたことは覚えているらしい。けれど今日何をしたのか、彼とどこに出掛けたのか、曖昧な部分が多い。
葵。ふと、彼が名を呼んだ。しばらくためらったあと、意を決したのかその口を開く。
「雨、降らせてくれたんやろ?」
戸惑うでもなく、疑うでもなく、彼ははじめから気付いていたように当然と言ってのけた。優しい彼の微笑みが目の前にある。
問いただすような雰囲気は微塵も感じられない。私が言いたくなければ無理に言わなくてもいい。むしろそんな雰囲気だった。
「気付いていたんですか」
「うん。…そうかなぁて思ぉてた。ほやけど怖くて言い出せなかったんよ」
葵が倒れて額の傷を見たとき、すべてが確信に変わった、そう言葉を続けた。そっか。私はそれだけしか言えなかった。
声を出してから人でいるにも多大な力を要した。そばにいたい、恩返ししたいという思いだけで本来の姿に戻ることを耐えていた。けれど彼は気付いていた。
気付いてくれていた。私を見抜いてくれていたということだろう。同時に長くは共にいれないことも気付いているだろう。そんな嬉しさと寂しさが複雑だった。
「私は貴方に恩返しできたでしょうか」
最初は恩返しをして彼が喜んでくれればそれでよかった。共にいるうちに彼の変わらない優しさに触れて、眩しすぎる笑顔を見続けて、いつの間にか彼を慕うようになっていた。この先も長く在り続けたいと思った。けれど夢のまた夢に過ぎないことも理解している。
だからこれが自己満足でしかないと分かっていても聞いておきたかった。彼に恩は返せたのか、と。すると藤人さんは私の手を取って言った。
「まだできてへん」
「え?」
眉間にしわを寄せた彼の表情。やはりあれは私の自己満足でしかなかった。彼のはじめて見せた表情がそれを物語っているに違いないだろう。
不意に彼の眉尻が酷く悲しそうに垂れた。
「ずっとそばにおってくれるやろ?」
震えた声で弱々しげに言葉を紡ぐ。それ故にどうしたらいいか迷いそうになる。彼は私がそばにいることを望んでくれている。
言うべきだろう、私が消えるわけを。迷ったのは彼を悲しませたくなかったからだ。悲痛な表情でいる彼にこれ以上つらい思いをしてほしくはない。
ふと、彼の言葉を思い出した。
『もっと頼って欲しい』
彼の期待も破りたくなかった。一度深呼吸をすると意を決して口を開く。
「……聞いて、藤人さん。人々はもう私を頼らなくてもいい世の中になったの。信仰の薄れた私はじきに消えます。どのみちこのまま存り続けたって災いとなって人々に降りかかるだけ。それなら消えた方が、ましなんです」
「なんで消えなあかん?俺がおるやん。なぁ、そうやろ?」
痛々しいくらいの表情で彼は言葉を紡ぐ。まるで私の思いがそのまま共鳴しているようだった。いや、彼は人の痛みを理解してくれる優しい人だ。
添えられていた手を彼は握り締めた。その手から伝わってくる。彼の想いが。言葉にせずとも痛いほど伝わった。けれどそれに応えられない。
もどかしくて切なくて、けれど悲しい表情は見せたくなくて、涙しながら小さく微笑んでみせた。
「私はもう充分存在しましたから」
「………………」
今度は彼が黙る番。藤人さんは言葉なく自分を見つめた。困惑するような戸惑っているような気持ちが分かる。何を言うでもなく、ジッと見つめるだけ。迷っているんだろうか。困らせただろうか。
「あの………ッ」
不意に腕を引かれて気付くと抱き締められていた。強い強い力で包まれる。
抱き締められたのは二回目だ。彼の肩越しに彼の匂いがする。安心できる心地良い匂い。抱きすくめられた身体は彼によって支えられていた。背に腕を回せば慈しむようにさらに強く抱きしめられる。
「葵」
耳元で彼が囁いた。それが少しこそばゆい。
「……もしそうなら葵が寂しくないようその時までずっとそばにおったる」
いつもと変わらない彼の声。安心できる音。安心できる匂い。安心できる体温。彼がこんなにも愛おしい。それから、彼の想いも。
「藤人さん、ありがとう」
声に出して言うと、彼ははにかんだ。彼には幸せになってほしいからわがままはこれ以上言わない。藤人さんもまた、それに応えるよう開きかけた口をつぐんだ。
「ほんまはな、ぎりぎりまで内緒にしとこ思ったんよ」
そう言うと、藤人さんはお尻のポケットに手を突っ込んで何やら広告を取り出した。そこには暗い夜の闇の中でだいだい色に光り輝く多くの灯篭が流れる川を写していた。幻想的な光が暗闇の中によく映えている、美しい光景だった。
「これは?」
「明日近くの川で灯篭流しするやざ。昔から住んどるし、ええとこ知っとるよ。一緒に参加せんか」
その日は地元の人だけでなくそれ目当ての観光客が大勢集まる。賑やかな日なんよ、そう言葉を続けた。
彼が柔らかい眼差しを向ける。けれどその表情は寂しげでもある。彼の右手が私を撫でた。あの頃と同じ温かな手。
忘れることはない。初めて出逢った時と同じで、
【君は変わらず優しかった】




