第1話「二人の日常」
五月の教室は、午後二時ごろにいちばん眠くなる。
浅井 直人は、数学の板書をノートに写しながら、自分が今何をしているのかよくわからなくなっていた。チョークの音がする。先生が何か言っている。ノートの隅に気づいたら「∞」と書いていた。特に意味はない。
紙が飛んできた。
折り畳まれたそれを開くと、一言だけ書いてあった。
「眠そう」
顔を上げると、隣の席の藤代 涼太が前を向いたまま、口の端だけで笑っていた。
浅井は「眠い」と書いて投げ返した。しばらくして返ってきた。
「俺も」
なんとなく笑えた。授業の内容は何も入ってこなかったが、それはいつものことだった。
放課後、二人は購買のパンを持って屋上に上がった。
施錠されているはずのドアを、藤代は去年から開け方を知っていた。教えた相手は浅井だけだった。理由を聞いたら「なんとなく」と言った。それ以上の説明はなかった。
「今日の英語、やった?」 「ぜんぜん。お前は?」 「同じく」
それで終わった。困らなかった。
フェンスのそばに座って、二人は並んでパンを食べた。下では野球部が声を出して走っていた。遠くに住宅地の屋根が見えた。藤代はときどき空を見上げた。浅井はときどき野球部を見た。雲が一個、ゆっくり動いていた。
「あの背番号11、走るの遅いな」と浅井が言った。
「毎回言ってるな、それ」
「毎回遅いから」
藤代が笑った。声に出して笑うやつだった。おかしいことがあると、ちゃんとおかしそうにする。愛想笑いじゃない笑い方を浅井は知っていた。
しばらく黙って、風が吹いた。
「なんかやりたいな」と浅井は言った。
特に意味はなかった。ただ思っただけだった。部活はやっていない。習い事もない。帰ったらスマホを見て、飯を食って、寝る。それが今年の五月だった。
「何が?」
「わかんない」
藤代は少し考えた。
「わかる」
それだけだった。「たとえば?」とも「じゃあ何かしようよ」とも言わなかった。「わかる」で終わらせて、また空を見た。
浅井はそれが好きだった。藤代は余計なことを言わない。同意するだけして、あとは放っておいてくれる。踏み込んでこない。でもいなくなりもしない。うまく言葉にできないけど、一緒にいると空気が軽かった。
「なんかさ」と藤代が言った。
「うん」
「面白いことって、自分で作るしかないよな、たぶん」
哲学でも自己啓発でもなく、天気の話をするみたいな声で言った。
浅井は「そうかもな」と答えた。
雲がまた少し動いた。野球部はまだ走っていた。背番号11は、やっぱり遅かった。
帰り道、駅まで二人で歩いた。夕方の住宅地はしずかで、どこかの家からカレーの匂いがした。
「で、何作んの」と浅井が聞いた。
「まだ何も考えてない」と藤代は答えた。笑っていた。
それでよかった。何かが始まりそうな予感だけがあって、中身はまだ何もなかった。でも中身がない方が、なんか楽しかった。
改札の前で別れた。
「またな」
「またな」
浅井は電車に乗って、窓の外を見た。流れていく住宅地と、暗くなりかけた空と、どこかの工場の煙突。
面白いことって、自分で作るしかない。
藤代はあっさり言ったけど、それはたぶん本当のことだった。




