25、黒髪の少女
エアーレイ王国の第二王子アドニスは、表向きには王国魔法騎士団を率いる団長として知られていたが、裏では、存在すら公にされぬ秘密部隊“影の紋章”の指導者として、表に出ぬ情報の流れを掌握していた。
その晩もまた、静寂に包まれた執務室の片隅で、魔道通信機の鈍い青白い光が灯る。
『アドニス殿下、ご報告があります』
声とともに画面に浮かび上がったのは、赤髪の青年だった。漆黒の騎士服に身を包み、琥珀色の瞳がかすかに光を宿している。普段は柔和なその瞳が、今はまるで獲物を睨む猛禽のような鋭さを帯びていた。
彼の名はエレク。港町グランジェに駐在する王国騎士にして、“影の紋章”の一員。異国の人々との交易が盛んなその町で、彼は日々、表と裏の二つの顔を使い分けていた。
何かが起きたときは、こうしてすぐにアドニスへ報告が上がる。今回も、ただの報せではなさそうだった。
「エレクか。話せ」
アドニスは手にしていた銀細工のカップを机に静かに戻すと、わずかに身を乗り出し、画面越しのエレクに視線を向けた。
その双眸に、揺るぎない意志が宿る。王子という立場を超えた、“王国の影”の顔が、そこにあった。
『グランジェの町で二人の賊を捕らえました。やつらはどうやら”保護部屋”のものらしいと判明しました』
「保護部屋……か。それで? 帝國の手のものか?」
『いいえ、この国のものでしょう』
「……売国奴……か」
アドニスはエレクの答えに溜息を吐いた。
どの国にも金のためならなんでもする輩は必ずいる。たとえ、己と同じ地に住むものだったとしても。
『状況から見て、子供を攫おうとしていたのかもしれません。近くに落ちていた魔封じの拘束具が子供用のものでした』
「その攫われそうになった子供は無事か?」
『それが……憲兵が駆けつけた時、そこに子供の姿はなく、一人は地面に埋まり、一人は大の字になって気絶していたという話です』
「どういうことだ? 地面に埋まっていた、ということは土魔法の使い手か?」
『我々にも皆目見当がつきません。子供を攫おうとして何者かに倒されたのか、攫おうとした子供に倒されたのか…。ただ、かなりの腕を持った魔法使いでなければ、土に埋まるような状況にはならないと思われます』
「そうだな。エレク、その賊を倒した者を探せ。保護部屋についても引き続き調査を行うように。ああ、それともし、黒髪で魔法を使える子供を見つけたら報告を頼む。この国でも黒髪のもの自体そんなに多くはないからそうそういるとは思えないが」
『黒髪……? 魔法が使える……』
エレクはこの時一人の少女、”まほろば亭”でよく出会うミカのことが頭に浮かんだ。
「まさか……心当たりがあるのか?」
黙り込むエレクにアドニスは問いかけた。
『……はい。”まほろば亭”という店に、時々夕飯を食べにくるミカという少女が黒髪で、確か六歳くらいだったと思います。彼女は保護部屋から逃げてきたと言っていました。防御魔法と攻撃魔法が使えると言っていましたが、詳しいことは分かりません。いつも母親の形見だという人形を抱えていました』
「六歳にして、防御魔法と攻撃魔法?」
もしそれが事実だとしたなら、自分と同じかそれを凌ぐ魔法師になれる可能性を秘めているとアドニスは思った。アドニスでさえ防御魔法と攻撃魔法の二つを習得したのは八歳になってからだった。
自分以上の魔法使い。
まさか、魔獣の森にいたという子供……
いや、それは早計すぎるか……だが、興味をひかれる。
「エレク、その子供の属性は何だ?」
『すみません。そこまでは聞いていません』
「そうか、それにしてもその年で防御魔法も攻撃魔法も使えるとなるとかなり有望だな。来週、私がその町を訪れた際に、その少女に会う機会を設けられないか?」
『殿下が直接ですか?』
「ああ、優秀な魔法使いは早めに確保しておきたい。それに”保護部屋”の問題もある。くれぐれも彼女に危険が及ばないようにしてくれ」
『了解しました。彼女が“まほろば亭”に姿を現したら殿下にお知らせします。それで、彼女には親がなく、今は親戚の元で暮らしているようです。詳しくは分かりませんがその親戚についても調査を行いますか?』
「そうだな。頼む。だが、その子供に気づかれないようにな」
『御意』
通信が切れた後、アドニスは静かに立ち上がり、窓の外に広がる王城の庭園を見下ろした。夕暮れの陽が差し込み、彼の白銀の髪に淡い橙色の光を帯びさせる。
「黒髪の六歳児……防御と攻撃、両方の魔法を扱う、か」
その年齢で二種類の魔法を扱える者など、王族ですら稀だ。
普通なら片方を習得するだけでも数年はかかる。
アドニス自身、その壁を越えるためにいくつもの試練を乗り越えた記憶がある。
それに、報告によれば賊の一人は地に埋まり、もう一人は気絶――常人の力では到底成しえない芸当だ。
土魔法で一人の人間だけを地中に閉じ込めるなど、相当な集中力と制御力が必要となる。
だとすれば、本当にその少女が関わっていた可能性はある。
しかも、彼女は“自ら保護部屋から逃げてきた”と語っていた。
もしそれが事実であれば、尋常ならざる精神力の持ち主だ。
通常、保護部屋にいた子供は言語すら制限され、己の存在を語る術も失っている。
意思を持ち、行動を選び、逃げ出すことができたなら――その時点で只者ではない。
アドニスはゆっくりと立ち上がり、棚の奥から一冊の古い魔道記録帳を取り出す。
かつて自分が六歳の頃に記した、魔力の発現と習得の経過が書かれた記録だ。
ページをめくりながら、彼は静かに呟く。
「この国にとって、いや……俺にとっても、大きな意味を持つかもしれんな」
王家の名を背負いながらも、彼はいつも魔法そのものと向き合ってきた。
それが誰のものか、どこから来たのかではなく、どれほどの力を宿しているか。
それだけを信じ、それだけを選んできた。
そして今、その原点に応えるような存在が現れたのかもしれない。
黒髪の少女。ミカ。
偶然か、運命か。だが確かに彼の心に、その名は刻まれ始めていた。
「必ず会う。確かめなければならない」
アドニスの瞳が鋭く細められる。
それは獲物を見つけ出す者の視線ではない。
未知の可能性に手を伸ばす、探求者の目だった。




