小話 竺雲
天文20年―。
尾張の中々村に来てから、14年経った。
滞在し始めた頃に出会った神童『弥助』。
あの子の成長を楽しんでいる内にいつの間にかこんなに年月が経っていた。
まさか、こんなに長く尾張に留まってしまうとは…。そろそろ一度安芸に戻ったほうが良いかもしれぬ。
「先生、お呼びでしょうか?」
呼び掛けに振り向くと、そこには木下家の美しい娘が立っていた。弥助の姉だ。
「ああ、智さん。すみませんね、急に呼び出してしまって…」
「いいえ。大丈夫です。それよりどうしたのですか?」
「ええ、少しあなたに用事があって。理由は後からお話しますので、再度私がお呼びするまでここでしばらく待っていてもらえますか」
「…?ええ、構いませんけど…」
「ありがとうございます。もうすぐ一太も来ると思いますから、一緒にここで待っていてくださいね」
智を残して、立ち去ろうとすると不意に智が口を開いた。
「そういえば、さっき行商の方が弥助の手紙を届けてくれました。あの子、遠江の松下家というお武家様のところで奉公を始めるみたいです。しばらく帰ってこれないって書いてありました…」
遠江の松下家…頭陀寺城の松下源太左衛門長則か…。
「そうですか…。弥助にしばらく会えないのは残念ですね。でも武家の奉公の口を見つけるとはさすが弥助ですね」
そう返事をして、踵を返す。奥の応接の間に客が来ている。急がなくては。
…しかし、弥助が遠江の武家で奉公とは。あの子がどう成長していくのかもう少し見たかったけれど、しばらくは会えないか。やはりそろそろ安芸に戻るべき時が来たのかもしれない。
考えつつ、応接間へと急ぐ。
「お待たせいたしました…」
ス…と襖を開けて入室すると、そこには織田上総介信長とお付きの平手政秀が座っていた。
「おお、竺雲。元気そうだな」
信長が機嫌良く話しかけてくる。
「はい。お陰さまで…。本日はお越しいただきましてありがとうございます」
信長の向かい側へ座って丁寧にお辞儀をする。顔を上げると、信長はいつも通りすぐに本題に入った。
「今日お主を訪ねた理由は先だっての書状に書いた通りだ。首尾はどうだ?」
「はい。上総介様が織田家の家督を継ぐに当たって、優秀な人材を集めておきたいというお話でしたね。もちろん考えておりました」
「で、どうだ?」
信長はせっかちな性格をいかんなく発揮して結論を急かす。
「はい。中々村には二人、若くて優秀な逸材がおります」
「ほう、二人…か」
「はい。優秀であれば性別は問わぬとのことでしたので…。一人は男子、一人はおなごです」
「ふむ。もちろん優秀であれば男女どちらでも構わぬ…名は?」
「一太と智と申します」
「・・・ほう。もう一人、おらぬか?」
信長が怪訝そうに訪ねる
「は?もう一人ですか?」
「・・・ヤスケ、と呼ばれておったが」
「は?弥助?どうしてあの子をご存じなのですか!?」
「…ふふ。昔ちょっとな。…で、ヤスケが出てこないということは、あのガキ死んだのか?」
「い、いえ。弥助は既に遠江の松下家で奉公をしておりまして…」
隠す必要も無いだろうと咄嗟に判断し、信長に弥助の近況を伝える。…それにしても信長が弥助の事を知っているとは…想定外だった。
「そうか…あのガキは先に取られてしまったか。…ふふ。まあ、とりあえず生きているのなら良いわ」
信長が嬉しそうにニヤリと笑った。
「さて、竺雲。では先ほど申した2人を呼べ。俺が直々に会ってみよう」
「はい。しかし、2人が希望しない場合は無理強いをしない、という事前のお約束は守って頂きますがよろしいですか?」
「分かっておる。おぬしもしつこい性分のようだな」
「それを聞いて安心いたしました。それでは呼んでまいります」
一旦、応接室を退室し、一太と智の居る部屋へ向かう。
二人は何やら話しながら、部屋で寛いでいた。
「あ!先生!お待ちしておりました」
「二人ともすぐにこちらへ一緒に来てもらえますか。織田上総介様が二人にお会いしたいと言うことです」
「織田上総介様!!??」
「織田上総介…て、あの那古野城主の?な、なんで私たちに…?」
二人は突然の事に青白い顔をしつつ、私の後についてくる。
歩きながら二人に話しかけた。
「一つだけ事前にお伝えしておくのですが、智さんと一太にはこれからある判断をしてもらうことになると思いますが、決断は自分の思いを優先していただいて構いませんからね。きちんと自分の頭で考えて下さい」
「え?どういうことですか?」
「ふふ、今すぐに分かりますから…さ、ここですよ。・・・失礼します、二人を連れてまいりました」
一太と智を部屋に入れる。
「こちらが、織田上総介様です。さあ、二人ともご挨拶を・・・」
「・・・三郎!!!???」
私の言葉が終わらないうちに、智が驚いた声で叫ぶ。
「よう!久しぶりだな、二人とも」
信長が楽しそうに返事を返した。
「…知り合いだったのですか?」
私が驚いて聞くといると、信長は楽しそうにニヤリと笑って言った。
「昔ちょっとな」
隣に座る平手政秀がゲンナリとしながら「黙っていて申しわけない…」と小声で私に呟いた。
二人を知っていた?…まったくもって、この殿様は…。
「さて、では二人とも単刀直入に聞こう。…俺の部下にならんか?」
信長の力強い声が応接間に響いた。
・・・・・・・・
こうして一太は那古野城で、智は中々村で、それぞれ織田上総介信長に与えられた仕事をするようになった。
今後、尾張を支配するのはこの信長かもしれない。いや、そうなれば尾張だけで留まるまい。末恐ろしいとはこのことか…。
私はこの人材確保の橋渡しを最後の仕事として、尾張から出て、安芸に向かうことにした。今の尾張の状況をあの方に伝えねばなるまい…。
安芸の出身だということは隠していたいので、村の人々には京都へ行くことになったと伝えた。
中々村の子供達にまた会える日は来るだろうか…、弥助には別れの挨拶も出来なかったな…と、ふとよぎった寂寥感に自嘲する。本当に長く滞在し過ぎたようだ。この村に愛着が湧いてしまった。
願わくば、あの子達が戦国の世にも変わらず幸せであり続けますように…。