第6話(最終話):0に還るハイウェイ
「ハル……」
アクア色の光の中から現れたその姿に、ハルの思考は完全に停止した。
そこに立っていたのは、あの雨の夜に失ったはずの、最愛の恋人――零だった。
あの日と同じ、お気に入りの白いジャケット。ハルを惑わせる、あの少し悪戯っぽい微笑み。
だが、決定的な違和感がハルの全身の毛を逆立たせた。
彼女の身体が、まるで陽炎のように微かに揺らめき、ナトリウム灯のオレンジ色の光を不自然に透過していたのだ。その足元には、ハルのように地面を濡らす雨の雫を跳ね返す影がない。
「零、お前……本当に、零なのか……?」
ハルは震える手を伸ばした。だが、指先が彼女の頬に触れる寸前、まるですり抜けるように冷たい空気だけが指の間を通り抜けた。
「うん。でもね、ハル。私はもう、この世界の時間を走ることはできないの」
零は哀しげに目を細め、ハルの背後で不気味なほどの重低音を響かせている「クリムゾンレッド」へと視線を移した。
「私のために、こんなに傷だらけになって……。助手席まで外して、暗い闇の中だけで復讐のアクセルを踏み続けるハルを見るのが、一番辛かった。ここは、私の時間が止まった場所。でも、ハルの時間はまだ進まなきゃいけないんだよ」
「進むだと……!?」
ハルの声に、行き場のない怒りと悲しみが混ざる。
「お前のいない世界で、俺にどこへ進めって言うんだ! 聖域を汚した奴らを、俺は全員この手で奈落に突き落とすと決めた! 法やモラルなんてどうでもいい、俺の心はあの日から『0』のままだ!」
「ううん、ハル。あなたはもう、あの子たちの『エゴ』を時速300キロの彼方で自滅させた。あの日、私を追い詰めた悪意は、もうこのハイウェイには残っていないわ」
零は一歩、ハルへと近づいた。触れ合うことはできなくても、彼女の纏うアクア色の気配が、ハルの狂気に満ちた心を優しく包み込んでいく。
「私が愛したのは、誰かを壊すための死神のハルじゃない。同じ夜、同じ速度で、純粋に私と心を通わせて走ってくれた……あの優しいハルなの。もう、自分を壊さないで」
零が静かに右手を上げ、ハルの胸元――狂おしく波打つ心臓のあたりへ、そっと手をかざした。
その瞬間、漆黒のZのコックピットから溢れていたアクア色の冷たいネオンが、まるで粒子のように弾け、クリムゾンレッドのボディを包み込んでいく。
内装を剥ぎ取られ、冷徹なタイムマシンと化していたクリムゾンレッドの車内に、温かいアクア色の光が満ちる。そして、外されていたはずの助手席の空間に、かつて零が座っていたあのシートの輪郭が、静かに復元されていくような錯覚をハルは覚えた。
『23:59』
ハルの腕時計のデジタル数字が、再び1分だけ巻き戻る。
降り頻るはずのない雨が、ゆっくりと止んでいく。
「ハル、もう一度、私を隣に乗せて走ってくれる?」
零が微笑みながら、漆黒のZの運転席へと戻っていく。彼女の身体が、アクア色の光の粒子となって機体へと溶け込んでいく。
同時に、漆黒のS30Zのボディが、夜の闇に霞むようにして、ゆっくりと白銀の輝き――かつての「シルバーホーク」の姿へと戻り始めた。
「零……っ!」
ハルは弾かれたようにクリムゾンレッドのシートへと飛び乗り、ステアリングを握り締めた。
隣の助手席を見る。そこには誰もいない。しかし、微かにあの懐かしい香りが残っていた。
『行くよ、ハル』
頭の中に、確かに彼女の声が響いた。
ハルは涙を拭い、ギヤをローへと叩き込む。L型改ツインターボが、復讐の咆哮ではなく、かつての純粋な、美しい咆哮を上げてトンネル内に轟いた。
――ドンッ!
2台のS30Zが、同時に川崎航路トンネルの出口へ向けてクラッチをミートさせた。
加速していく世界の中で、もはやマニュアルなんて必要ない。
法律やモラルで縛られた世界を置き去りにして、圧倒的な最高速の彼方へ。
だが、それはもう闇に堕ちるための走りではなかった。
トンネルの出口から、眩い夜明けの光が差し込んでくる。
ハルのクリムゾンレッドと、隣を滑るように併走する幻影のシルバーホーク。
午前0時の呪縛を越えて、彼らの心は再び、一つに繋がった。
ハルとクリムゾンレッドの本当のドライブが、いま、光の向こう側へと続いていく――。
(第一部・完)




