第1話:エゴ・マシンの目覚め
かつて、この夜には確かに優しさがあった。
横浜を抜けて湾岸線へと合流する、緩やかなカーブ。
俺――ハルの駆る「クリムゾンレッド」のS30Zと、隣を静かに滑るように並走する零の「シルバーホーク」。
互いに勝敗など求めていなかった。ただ、熟成されたL型改ツインターボの咆哮を重ね合わせ、夜の帳を切り裂いていく。フロントガラスに流れるアクア色の街灯の光(lights)が、彼女の美しい横顔を照らす瞬間が、俺は何よりも好きだった。
言葉は要らなかった。同じ車、同じ夜、同じ速度。それだけで、俺たちの心は一つに繋がっていたからだ。
だが、その聖域は突然、濁った排気音とともに汚された。
歪んだエゴと、SNSの数字だけを求める悪質なギャラリー上がりの連中。
ルールも、車へのリスペクトもない。ただ、有名になりたいがために他者を危険に晒し、蹴落とすためだけに、彼らはこの湾岸を侵食し始めたのだ。
『ハル、勝負しろよ』
ある夜、大黒PAの入り口で、執拗なパッシングを仕掛けてきた下品なハイビーム。
俺はそれを冷ややかに見送り、そのままPAの駐車枠へと滑り込んだ。バトルに興味などなかった。俺がこのアクセルを踏むのは、零と、この世界と繋がっているためだけだ。
だが、奴らはその拒絶を、安いプライドへの侮辱と受け取った。
『……ハル、私、先に出るね』
そう言って、いつものように優しく微笑んで先にPAを後にした、零のシルバーホーク。
それが、彼女の最後の言葉になった。
俺を標的にできなかった奴らは、その腹いせに、夜のハイウェイで彼女のZを囲み、執拗に追い回したのだ。
時速200キロを超える世界での精神的プレッシャー。逃げ場を失った銀の鷹は、川崎航路トンネルの手前で、冷たいコンクリートの壁に激突した。
午前零時。
降り始めた雨の中、彼女の時計の針は止まった。
◇
――あれから、俺のZは「エゴ・マシン」へと変わった。
助手席のシートは跡形もなく外され、今では車体を強固に補強する剥き出しのロールケージが張り巡らされている。
オーディオも、エアコンも、すべての内装を剥ぎ取ったコックピットは、過去に戻ることの許されない冷徹なタイムマシンのようだった。
「零……」
静まり返ったコックピットで、俺はその名前を呟く。
時計の針が、午前零時を回った。
ハルがステアリングを愛おしそうに撫でると、まるで車自身が意志を持ったかのように、ダッシュボードのメーターたちがアクア色の冷たい光を放った。あの夜、零の横顔を照らしていた光だ。
「行くぞ、クリムゾンレッド。お前の恋人、シルバーホークの敵を……俺と一緒に、討ってくれ」
ドクン、と燃料ポンプが脈動する。
イグニッションをひねると、L型ツインターボが地響きのような重低音を響かせて目覚めた。深紅のボディは、まるで夜に滴る怒りと血の色のようだ。
大黒PAを出て、本線へと合流する。
加速する日々に、もはやマニュアル(取扱説明書)なんて存在しない。
バックミラーを睨みつける。そこに、あの日、零を追い詰めた悪質ドライバーたちの車影が映り込んだ。派手なネオンとステッカーで飾られたGT-R。あの日、零が壁に激突する瞬間を、面白半分にスマートフォンで動画撮影していた男の車だ。
奴らは今日も、新しい獲物を探して湾岸をうろついている。
「マニュアルなどない deep――」
ハルは低く呟き、シフトを叩き込み、過給圧を限界まで引き上げた。
アクセルペダルを床まで踏み抜く。
3連ウェーバーキャブが狂ったように空気を吸い込み、爆音がトンネル内に反響する。
法律やモラルといった「微罪」を無効にするほどの圧倒的な最高速。その中で、ハルは奴らを奈落の底へ突き落とすためだけに、闇のライト(lights and any more)の向こうへと消えていく。
GT-Rのバックミラーが、血のような赤で染まり上がった。
男がバックミラー越しに驚愕したのが、距離があっても分かった。
『なんだ……あの化け物みたいなS30は!?』
避けようのない、圧倒的なスピード差。
だが、ハルはあえて追い抜かない。並びかけ、GT-Rの側面、わずか数センチの距離までクリムゾンレッドを鋭く寄せた。
ガチガチに引き締められた足回りと、限界まで過給されたエゴ・マシンの咆哮が、GT-Rの車体を物理的に震わせる。
――お前たちの走りに、プライドはあるのか。
――お前たちの命に、どんな重さがあるというんだ。
ハルは何も言わない。ただ、冷徹な視線だけを相手のドライバーに向け、じりじりとGT-Rの進路を壁際へと追いつめていく。
あの日、零が味わった絶望と恐怖を、寸分違わずその脳髄に刻み付けるように。
「ひっ……、化け物め! 来るなァ!」
恐怖の限界を超え、パニックを起こしたGT-Rのドライバーがステアリングを切り損ねる。
コントロールを失った車体が激しくスピンし、激しい火花を散らしながら、コンクリートの壁へと激突していった。
バックミラーの中で、歪んだネオンのライトが砕け散る。
「……一つ、終わったぞ。零」
ハルは表情一つ変えず、ギヤを5速へと叩き込む。
降り始めた雨が、クリムゾンレッドのボディを濡らし、まるで血の涙のように後ろへと流れていく。
時計の針は、夜を溶かすように回り続ける。
湾岸を汚すすべての灯り(lights)を消し去るまで、ハルとクリムゾンレッドの復讐のドライブは、どこまでも、どこまでも続いていく――。
(第1話 了)




