二頭の魔物
電車の帰宅ラッシュに巻き込まれながら、今日もなんとか最寄駅まで帰ってきた。
駅前はコンビニにスーパー、ドラッグストアと生活に欠かせない店が並び、この近辺は住みやすい街として密かに知られた場所だ。
この時間は駅前ということを差し引いても人の波が途絶えることは無い。
駅に入っていく利用客と入れ違うように、透流は駅を後にする。
時刻は午後五時半を過ぎたところで、辺りは傾いた太陽に照らされ赤く染まっていた。
少し寄り道をしてゲームセンターに足を向けても良かったのだが、この日は幸高に約束をドタキャンされた所為かいつもより腹の虫がうるさかった。
早く家に帰って間食の一つでも取りたいところなのだ。
駅の北口で降りて西へ徒歩七分。少し入り組んだ路地に透流のマンションはある。
大通りから一歩入った場所で住民以外は滅多に歩かないようなところだ。
だが今日はこの路地を歩くのは透流一人ではなかった。
前から犬の散歩をしている青年がやってきた。
帽子を目深に被り、腰には犬のおやつが入っているのだろうウエストポーチ、そして手には大き目の紙袋を持っている。散歩をするには普通の格好に思えたが何か気にかかる。
透流に気づいていない青年は、きょろきょろとしきりに周囲を見まわしていた。
道に迷ったのだろうかと最初はいぶかしむ透流だったが、すれ違いざまかすかに臭った臭気に納得したようにほくそ笑んだ。
──……都合のいいこともあるもんだ、と。
「まだ悪事を働くには早い時間じゃないですか?」
すれ違った背中に声をかけた。
ビクリと肩を震わせた青年は、足を止めゆっくり振り向く。
瞳に宿す光は怯えと共に剣呑さを滲ませていた。
「ウチの駅の近くに住んでいるだろうとは想像してましたけど、まさかお会い出来るとは思っていませんでしたよ」
「俺に言っているのか?」
「ですです。それ。油ですよね?」
それ、と指さしたのは青年が手に持つ紙袋だった。
一見よくある犬の散歩セットのようだが、眼を凝らして見ると紙袋の底に油染みが出来ている。中身が容器から漏れているのだ。臭いから判断して灯油だろう。
指摘された青年が身を強張らせたのが分かった。
「ニュースになっていた放火魔さん。放火するんならもっと人気のない場所と時間を選ぶべきでしたね。ボクと遭わなければ今回も成功していたでしょうに」
「俺が放火魔? へ、変な因縁つけるのはやめろよ」
あくまでシラを切るらしい青年だが、透流は確信があって彼を放火魔と称しているようで、すん、と鼻を鳴らし続けた。
「貴方からは闇の臭いがする。貴方が魔に差されたのは明らかだ」
「何言って……──」
「人心を惑わせる闇の者、ボクが相手をしてあげましょう」
その言葉が合図だった。
人気の無かった路地が、悪意の渦の中に放り込まれたように殺気に満ち溢れる。
四方八方から鋭い視線を感じるが、一番強いのは目の前の青年だ。
先ほどまで黒かった瞳は赤く変色し、夕日を反射して更に赤く透流を睨み付けてくる。
頭を抱えかぶりを振る彼には今こちらの声は聞こえていないだろう。頭に響いている声は恐らく闇からの甘い誘惑。
「お前さあ、何言ってるのか知らないけど、そういう訳分かんない正義感振りかざす奴って見てて反吐が出るんだけど。……畜生が。どいつもこいつも俺をゴミ扱いしやがって。だけど知ってるか? 世の中にはもっとゴミな人間がいるんだよ。そいつらを焼却処分しようとして何が悪い? 俺が正しいんだ、俺こそが正義なんだ……「邪魔ヲ、スルナ」」
くぐもった声が青年の声に重なったと思うと、青年の身体が傾いだ。
透流は手を伸ばし支えようとするが、それまで大人しく座っていた青年の飼い犬が牙を剥き出しにしてそれを妨げた。
「邪魔ヲスルナ、悪魔祓イ!」
もう一度響いた声はその飼い犬が喋った言葉だと判断出来た。
「おっと、本体はそっちでしたか」
今にも噛みつかれそうだった場所から距離を取り、次のアクションを見守る。
ウォオオオオオオオオオオオオンッ!
飼い犬が遠吠えするとその様相が激変していった。
体から黒い煙が吹き出し、体躯は膨張し、顔面はメキメキと音を立てて縦に割れていく。
割れた顔は粘土細工を作り直すようにぐちゃぐちゃにされ、瞬きの間に二首の巨大な犬が姿を現していた。
「双頭の犬、ね。ギリシア地方のオルトロスだったかな。なるほどなるほど」
これには多少透流も驚いたが、犬が喋ったことも、姿を変貌させたことにも怯える様子は見せない。
ふむ、と顎に手を当て逡巡の後に口角を上げた。
「そっちがそう出るならこうしましょう」
言うが早いかズボンのポケットに入れていた携帯を取り出し、画面のとあるアプリをタップした。
アプリは素早く立ち上がると共に音声認識のアイコンを表示する。
準備完了の高い通知音が鳴り、透流はイタズラを仕掛ける子供のように笑った。
「Call ID:124>>ケルベロス」
液晶が碧く輝きだし、夕暮れに包まれる周囲を淡く照らしていく。
次第にその光量は増し、透流とオルトロスの間に何かを形作った。
「確かケルベロスはお前の兄にあたる魔物でしたよね? どういう気分ですか?」
わざわざ兄弟で戦わせるあたり底意地が悪い。
俺は盛大にため息を吐きだした。
どうしてこんな奴を主人にしてしまったのか……。やはりあの時の判断は早まっただろうか。
「ケルベロス。お前の兄弟に酷い言い方かもしれないけど、そいつは宿主が悪い。ザコだ。片付けろ」
光が弾けると同時にオルトロスよりもさらに大きい犬が飛び出した。
ただしオルトロスと決定的に違うのは首の数。向こうが二つ首に対してこちらは三つ首。
地獄の番犬と称される犬だ。
ケルベロスは猛然とオルトロスに突進すると、二頭は頭からぶつかり合った。
片方が背中に牙を立てればもう一方の後ろ脚が腹を蹴りつけ距離を取る。
鋭い爪が眼を狙えば身体ごとぶつかり相手を吹き飛ばした。
どちらも魔物の類。
一撃一撃が空気を振動させる。ビリビリと空間までも震わせ、地面の小石が揺れた。
狭い路地に二頭の荒い息が反響する。
これだけ激しい戦いを繰り広げているにも関わらず、通行人や見物人は一人もやってこない。
それもそのはずだ。
まだ青年が倒れる前、それも最初に声をかけた時には透流がこの近辺の位相を現実世界とズラしていたのだ。
ズラされた空間には何の力も持たない一般人が迷い込んでくることは無い。
それほど特殊なことを行ったのだ。
こういった手際には何度見ても感心してしまう。
夕日が沈みきる前に勝負は決した。
勝敗を決めたのは首の数と体格の差だった。
一回り大きなケルベロスがオルトロスの二つの喉元に噛みつき、動きを封じている。
「何故ダ」
組み伏せられた胸を上下させ、荒い息をつきながらオルトロスは呟いた。
「何故人間ゴトキニ従ウ」
これはケルベロスへ向けた疑問だろう。
「それが分からないようだからお前はザコだ、つってんですよ」
だがそれに答えたのは透流だった。二頭に近寄りニタリと笑う。
結局ケルベロスは問いに答えることなく、喉元を噛み千切り応えとした。
ギャン、とオルトロスが声を上げ、千切られた喉から黒い霧を吹きだした。
オルトロスが動かなくなったのを見届け、ケルベロスは透流に向かい合図するように頭を垂らす。
「はい、お疲れ様」
透流も頷き返し、携帯をケルベロスに掲げると現れた時と同じように光に包まれる。
光が消える頃にはその場から三つ首の魔獣の姿は無くなっていた。
さてと、と透流はケルベロスが消えたその向こう、事切れたかのように見えるオルトロスに携帯の画面を向けた。
「Call ID:input>>オルトロス」
透流の言葉に呼応するように画面が光を放ち出しオルトロスを包み込む。
光がオルトロスの身体と霧を飲み込み、粒子となって消えて間もなく透流の携帯が電子音を鳴らした。
「よし、オルトロスゲット~」
『success』と表示された画面を確認して、透流はジーンズのポケットに携帯ごと手をつっこんだ。
位相のズレを戻し、ふうと息を吐き出した。
その目にはいまだ倒れたままの青年が映っていた。
「魔に差された弱き人、心を強く持ちなさい。そうしないとまた魔に憑かれますよ」




