プロローグ
はーっ、はーっ……
路地裏に荒い息遣いが響く。
あんなドジを踏むとは、落ちたものだ。
「ぐっ……」
腹に負った傷がじくじくと血を流し続け、全身が油の切れたゼンマイのようにうまく動かない。
痛い。つらい。このまま消えてしまいたい。
だが、まだやるべきことがある。安寧への逃走など選べない。
壁に預けていた身体がゆっくりと傾いていく。
頬に砂利の感触。
俺は、死ぬのか。
「あーらら、虫の息かな?」
誰だ? 夜の暗闇に加えて目が霞み、その声の主をよく見ることが出来ない。
繁華街のネオンを背負い、逆光の中、赤い瞳が異彩を放つ。
「俺の手を取れよ。死にたくないだろう? 俺が生かしてやる」
ここで命を落とすことは望んでいない。渡りに船とはこのことだろう。
しかし本当にこの手を取っていいものか、一瞬の迷いが頭をよぎる。
そして──
差し出される手に自分の手を重ねた。
「はは、あはははははははははははははは!」
悪魔的な笑いだと思った。
* * *
──魔が差す
という言葉をご存じだろうか。
ふとした時に出来心を起こしてしまい、悪事を行うことを言う。
魔が差した人間は皆「悪魔が私を誘惑したのだ」と言い、一様に己の咎を故意ではないものだと主張する。だが、それを聞いた周囲の人間は「何を馬鹿なことを」と一蹴するだけで取り合うことは無い。
しかしその言い分が本当のことだったらどうだろうか?
本当に悪魔というものが存在して、人心を惑わせているとしたら?
果たして魔が差された人間に責任はあるのだろうか。
朝のコンビニというものは昼時と並び、店内の混雑度が増す時間帯である。
会社で朝食を取ろうとおにぎりを選んでいるOL、タバコが切れたのだろうレジで注文する男性、学校で飲む清涼飲料を片手に店内をうろつく学生。レジに5、6人並ぶという状態は毎度のことだ。
ただ、この日違っていたのは客の中に酔っ払いが混じっていたことだった。
酔っ払いの中年男性は夜通し酒を飲んでいたのだろう、凄まじい酒気を漂わせながらレジ待ちの列の周りをうろついていた。
それだけならまだ実害は無いのだが、彼は列に並ぶ客、まだ品物を選んでいる客、誰かれ構わず声を掛けては「酒を買え」と声を掛けて回っていた。
店員は気にした様子を見せながらも、レジの対応に追われ酔っ払いをどうにもできないでいる。
「おい、ねーちゃん酒買ってくれよ酒をよお! おじさんまだ飲み足りないんだよ~」
レジに並んでいた女性は迷惑そうに眉を寄せるものの、付き合う気は無いらしくふいっと顔を背ける。
それが気に触ったのだろう、今度は「無視か!」と喚きだす始末だ。
狭い店内がピリピリした空気で満ちていく。何か起きてしまうのではと、誰しも思い始めた時だった。
とん、と肩を叩かれ、男性が首をかしげる。
「ああ?」
きょろきょろ周囲を見回すと、女性のすぐ後ろに並んでいた青年と目が合った。脱色された髪が印象的な青年だ。ブリーチし過ぎた髪は金髪のようにも白髪のようにも見え、蛍光灯の光を明るく反射している。黒のセルフレーム眼鏡と首にかけるヘッドフォンをアクセントにした、いかにも今時の若者といった身なりだった。
「兄ちゃん、なんの用だ?」
「失礼。肩にゴミが付いていましたよ」
それと、と続ける。
「朝から酔っぱらっていいご身分ですね。周りに迷惑が掛かっていることが分からないんですか?」
「迷惑だとお? 誰もそんなこと言ってねえじゃねえか。え? 嘘言ってんじゃねえ!」
酔っ払いの判断力ではこんなものだろう。泥酔状態となれば尚更だ。
激昂した男性が拳を振り上げる。
しかし青年はそれをひょいとかわし、自分の右手を男性の目の前に突き出して見せた。
「このまま帰って頂いた方がボクも警察を呼ぶ手間が省けるんですが……」
右手に握られていたのは彼の携帯だった。
画面を注視すると「110」の数字が並び、電話発信の準備を終え、後は発信ボタンをタップするだけとなっていた。
それに気づいた男性はさっと顔色を変え、聞いてもいないというのに弁明を始める。
「け、警察はやめてくれ! こっちには家族がいるんだぞ!? ちょっと酔っぱらっていただけじゃないか! ……っ、勘弁してくれ!」
「酔いはさめましたか?」
「ああ、さめた。さめたから警察沙汰にはしないでくれ!」
慌てふためくとはこのことだろう。なんとかこちらの機嫌を損ねないようにすることで頭がいっぱいのようだ。本当に酔いはさめたのだろうか。
「……そうですね。その必要も無くなったようですし」
もっとも青年には男性の酔いがさめたかどうかはどうでも良かった。
貴重な朝の時間をくだらないことで浪費させられるのに腹を立てていたのだ。
口を出したのはその鬱憤を元凶で晴らそうとしただけのことだった。
「お帰りはあちらです」
仕上げにコンビニの出入り口を指さすと、それに従うようにそそくさと酔っ払いは店を後にした。
なんとも格好のつかない去り方であった。
数秒の間を置き、店内の緊張がほぐれ皆胸をなで下ろした頃、店員が思い出したようにレジ打ちを再開した。
ちょっとしたトラブルはあったものの、間もなく普段の朝の光景に戻っていった。
青年に会計の順番が回ってきたのは、それから2分ほど経過した後だった。
左手にぶら下げていたレモンティーのペットボトルをレジに置くと、レジ係の若い女店員がおずおずと口を開く。
「あの、先ほどはありがとうございました。こちらも正直対応に困っていたところで」
なんとお礼を言えばいいかと何度も頭を下げるのを手で制し、青年はニコリと笑って見せた。
「いえいえ、朝は皆忙しいですし、ボクもさっさと会計したかったので。あ、電子マネーでお願いします」
精算機にかざしたICカードには『フジワラ トオル』と印字されていた。
青年、藤原透流は会計を済ませ外に出ると、ジーンズのポケットにしまっていた手を取り出した。
それをまだ高くない太陽にかざし、目を細める。
「あーあ、小さい“バグ”か……」
その指先には黒い塊がつままれていた。
小型のネズミのようにも、綿埃のようにも見えるそれは透流に尻尾らしき部分をつままれジタバタともがいている。
朝から厄介ごとに遭遇して、テンションは底辺に近かった。
更に収穫がこんな小物とは……今日はついていない。
「ま、こんな朝早くから大物が活動してるわけないしな」
ポツリと独り言を漏らし、“バグ”と呼んだ黒い塊を地面に放る。
慌ててどこかへ行こうとするそれを足で踏み潰し、太陽を仰ぐ。
「ガッコ行こ」
たった今踏み潰したバグのことなど、もう忘れたように透流は自分の通う学校への道を歩みだす。
その足の下にあるはずのバグは、黒い煙を僅かに残し、姿を消していた。
ところでこんな説明をしている俺は誰なのか? そうだな……こいつの“使い魔”だ。
初投稿作です、藤原くん共々よろしくお願いします!




