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第81話 英雄の子供

 空から目障りな色が降ってきたと、ハルウは顔を歪ませた。

 蒼天を潜って染めてきたような髪を靡かせ、常にハルウに憎悪を向けてきた藍晶石カイヤナイトの瞳が、その場の全員を睥睨する。

 その双眸が、一人の少女の上で止まる。体中を風の刃で切り裂かれ、血だらけになって倒れているレイだ。


「……リ、ォー……?」

「レイ!」


 第三皇子フェルゼリォンが、迷わずレイの元へと走り出す。その青い目に見せつけるように、ハルウはフェルゼリオンの目と鼻の先でレイを抱き起した。


「ハ、ルウ……」


 レイが、神弓トクソを守るように両手で握り締めながら弱々しく抵抗する。それを見下ろしながら、フェルゼリォンが剣を引き抜いた。


「その手を放せ」


 正義漢面をして要求する子供に、ハルウは苛立ちのまま嘲笑を返した。

 愚かな子供。サトゥヌスに踊らされ、信じたいものしか信じず、レイを蔑ろにした。


「神弓が欲しいから? これは天剣クシフォスじゃないって、まだ分からないの?」

「……誰が」


 フェルゼリォンが、忌々しげに否定しようとする。だが、そんなものは関係ない。

 ハルウはこれ見よがしにレイをそっと抱きしめて囁いた。


「誰も、レイ自身を求めてはいないんだよ。僕以外はね」

「……ッ」


 腕の中のレイが、ぎゅっと身を固くする。そのさまが実に憐れで愛しくて、このまま時が止まれば良いのにと、ハルウは一瞬考えた。

 そこに、無粋な声が割り込んだ。


「そういう風に、あんたが仕向けたんだろ」

「……ヴァル」


 揺り籠のような風を操って前庭に降り立った、黒猫に似た善性種エピオテスの獣。風の恩寵を受けるユノーシェルの腰巾着、優・カナフ=ヴァルク。


「随分早いお出ましだね」

「あんたと同じやり方を使ったからね」


 イリニス宮殿の法術程度では、恩寵の類は無効化できないことは分かっていた。だが善性種は神々の――特に第二の神々の中でも四元素の恩寵を強く受けており、代わりにその他の全ての邪法を禁じている。移動そのものに時間を食うと思ったが、どうやら魔法使いにでも協力させたようだ。どこに現れたかは知らないが、そこからヴァルが風を掴んで飛んできたのだろう。

 だがそんなことよりも、気に食わないことがある。


「まさか、そんな用済みの子供を連れてくるとは思わなかったよ。お陰で、僕を陥れた連中が勢揃いだ」


 言いながら、順にその顔を見やる。

 蒼い顔をして突っ立っている女王。その後ろで治癒神法を受け、どうにか意識を回復させたらしい王配。そして眼前で剣を構える青の王子。

 ハルウは、一時は風化するのかとさえ思っていた憎しみが昨日のことのように蘇るのを、ふつふつと感じていた。

 しかし、それは違うと、ユノーシェルの地上での最初の臣は言う。


「あんたの目は節穴かい。ここにはユノーシェルは元より、フュエルも、ラフィエル、サトゥヌスもいない。全員、きちんと死んだ」

「節穴なのは君の方だよ。ここには、全ての魂が揃ってる」


 笑ってしまう。四百七十年前に失った全てが、奇しくも揃った。双聖神教風に言うなら、神の啓示といった辺りだろう。

 諦めていた全てが果たせる。


「でも、残念だな。復讐は後回しだ」


 ハルウは一つ息を吐くと、気持ちを切り替えるように視線を手元に落とした。

 身も心も傷付いているレイの額に口付けを落として、横抱きに抱き上げる。


「待て!」


 その前を、フェルゼリォンがしつこく立ち塞がった。


「お前は……こいつは、一体何なんだ」


 本人が答えるわけもないと思ったのか、足元のヴァルに問い直す。

 ヴァルが何と答えるか、ハルウは少しだけ興味があった。

 聖砦で再会しても、追い出すことも、問い詰めることもしなかった、ユノーシェル最後の忠臣。この黒猫は、ハルウの秘密を聞いているはずだ。

 だが。


「そいつは……ユノーシェルの元に生まれた、唯一の男児だ」


 一瞬の逡巡のあと、確かに間違いではないことを言った。


「……え?」

「は!?」


 レイとフェルゼリォンが、それぞれに間の抜けた声を上げる。蚊帳の外となったエレミエルたちも、反応は似たようなものだった。

 それもそうだろう。ユノーシェルの子供であるフュエルは、神気ディーオこそないものの稀代の神法士だったが、その寿命はやはり通常の人間種ピリトスと同じだった。その双子の兄がまだ生きているなど、有り得ないと思っているのだろう。

 ハルウは、笑ってしまった。


「……っはは、あははっ!」

「ハ、ハルウ?」


 腕の中でレイが戸惑いの声を上げるが、ハルウは構わず笑い続けた。当時の嘲笑が、侮蔑が、鮮やかに耳に蘇る。


「不実の緑。不和の王子。不吉の狂戦士……残ってる二つ名はどれかな? それとも、姿絵と同じように何もかも消されたかな」


 フュエルの兄嫌いは城の中では有名だった。父サトゥヌスが出て行ったのはお前のせいだと、顔を見て言われたこともある。ハルウが消えた後、その痕跡を必死に消して回る姿が目に浮かぶようだ。


「滑稽だな」


 あの家族の中にいた時も、いなくなった後でさえ、居場所がないとは。

 本当に、滑稽だ。


「ユノーシェルの血筋に現れる緑眼は、不実の証し……」


 腕の中で、レイが慄くように呟く。写し鏡のような緑眼を、食い入るように見つめて。

 その瞳がかつての彼女と全く同じに見えて、ハルウの中に猛烈な愛しさと憎しみがぐちゃぐちゃに絡まり合って込み上げた。


『わたし、お兄様のことはもう思い出したりなんてしないわ。二度と……生まれ変わっても、二度と』


 いつかに盗み聞いた声が、その瞬間に味わった絶望を引き連れて蘇る。

 勃然と、ハルウは決めた。


「……壊そう」


 まどろこしい手順も、何もかも要らない。


(全て、壊してしまえ)


 そう、ハルウは決めた。レイがいれば、それが出来る。全て壊して、空っぽにして、またそこから始めればいい。次もまた拒むなら、閉じ込めてしまえばいい。時間はいくらでもある。


「ハルウ? 壊すって……」


 レイが、怯えを更に濃くして問い返す。

 それに、重なる声があった。


『お兄様? 行くって……』


 その顔も声も、似ていると思ったことは、一度もない。妹も無邪気でお転婆だったが、レイよりもずっと大人びて、淑やかで色気があった。だというのに今になって、捨てたはずの過去が妄執のように鼓膜の裏に響く。


「……大丈夫。僕に任せて、何の心配もいらないよ」

「任せるって……やめて、ダメだよ」

『任せるって……ダメよ、行けないわ』


 抱きしめる腕に力を込める。周囲には既にフュエルの兵が集まりだしている。だがハルウなら、女性一人抱えて飛ぶくらい何でもない。


「ちょっと飛ぶから、しっかり掴まってて」

「え? 飛ぶって、どこに……」

『え? 飛ぶって……ここからっ?』


 驚く緑色の瞳に、紫色の瞳が重なる。

 ハルウは愛おしく目を細めて、両足に力を入れた。


「待て!」

「……」


 そこに、子供が水を差した。誰かを彷彿とさせる、整った嫌いな顔。剣を構えて走り出そうとした、その両足目がけて手を振る。


「!」

「リォー!」


 切り落とすつもりだったが、咄嗟に地に突き立てた剣に斬られた。両側の地面が抉れる。だがその一瞬で十分だった。

 二歩目で地を蹴り、まずは前庭を望む二階の正面バルコニーに足をかける。


「へっ?――わっ」


 そこも二歩で跳躍し、三階、四階と壁の凹凸を足掛かりに、一息に六階部分の屋上庭園に辿り着く。

 とん、と着地した途端、一気に視界が広がり、青々とした風が二人の横を駆け抜けた。


「ここ……」


 突然の跳躍にハルウにしがみついていたレイが、恐る恐る顔を上げて目を見開く。行事の時にしかイリニス宮殿を訪れたことのないレイには、もしかしたら初めて見る場所なのかもしれない。

 イリニス宮殿の屋上には、王室専用とは思えない小さな聖拝堂と、双聖神降臨の場面を模した庭園がある。ささやかな花園と水路が広がる中心に六体の石像が置かれ、彼らがそれぞれ六方向――今や交流を完全に絶った六大陸を向いていると言われている。

 人間種ピリトスが住むこのアイルティア大陸を見守るのはユノーシェルで、伏し目がちに下を向いている。その構図のせいで、城を訪れる者からは聖大母が自分を見守っているように見えるらしいが、本人はどこか物悲しく見えるから嫌だと、少し不服そうだった。

 だから、彼女の定位置はいつも、西を向くサトゥヌスの足元だった。


『別々の方向を向いているから、帝国にしになんて行ってしまったよ』


 公務が嫌になると、彼女はいつも物言わぬジオの足元でぼうっと空を仰いでいた。

 帰りたいとは、決して言わぬまま。


「詰まらない場所だよ」


 ハルウは、笑い方を忘れてしまったようにそう答えた。

 レイを横抱きにしたまま、北端に建つ聖拝堂に向かう。その横には小さな階段室があり、そこから階下に出られる。


「……ハルウ、一人で歩く」

『お兄様、わたしも歩きます』


 二人の顔が重なって見える。似ていると思っていたけれど、そうでもないかもしれない。

 あの時は、希望に満ちた気持ちで彼女を下ろしたけれど。


「すぐ着く。……離さないよ」


 目を細め、口端を上げる。笑顔を作ったつもりだったが、レイの瞳の中の恐怖は、明らかに強くなった。

 だが、どっちでも良い。必要なのは、器だけなのだから。


「ハルウ。お願いだから、話を聞いて」

『お兄様、お願いだから、お姉様と話し合って!』


 声が響く。記憶と現実が入り混じって、頭蓋の中で何重にも反響して、頭が痛い。


「ねぇハルウ、何をするつもりなの? 壊すって……」

『お兄様! 相手は敵ではないわ! 味方よ、聖国の人々よ!』

「違う! あいつらはフュエルの手先だ! 僕からルシエルを奪おうとする……!」

「ハルウ……?」


 目の奥がズキズキする。いつもそうだ。彼女に関わることとなると、簡単に平常心を失う。ここがどこなのか分からなくなる。

 それでも、勝手に動く足は二十八年暮らした我が家を覚えているように目的地へと進む。

 一つ階を降りて、最も外を通る廊下を北に進む。幾つか細い廊下を曲がり、短い階段を降り、昇る。

 少しずつ慌ただしい足音が近づいてくる。女王フュエルかヴァルが動かしているのだ。

 だが、遅い。


「ここって……」


 窓のない回廊の先に、偏屈そうな樫の扉が現れた。書類や骨董品、歴史資料など他の古い物がしまってある保管区域で、この扉は通常の鍵しか使われていない。

 だから、軽く手を触れただけで破壊できる。


「うそ……」


 触れた個所からパラパラと崩れていく木片を、レイが呆然と見つめる。それを踏み越えて進めば、続く廊下は更に光量を落とし、薄暗かった。保管目的の空間のため、窓がないのだ。

 しばらく、装飾のない扉が両側に続く。その行き止まりに、目指す扉はある。


「……これが、宝蔵庫?」


 その扉は、やはり他と同じように素っ気なかった。女王や各室長の部屋のような金箔もなければ、扉の向こうを想像させる精緻な浮彫も装飾もない。

 鍵穴の上にあるはずの取っ手さえなく、代わりに小さな四角い穴があるだけだ。


(取っ手が法具代わりか)


 宝蔵室かどこかが鍵と共に管理しているのだろうが、今からそれを探し出すのは時間と手間がかかりすぎる。

 どれ程の強度か、ハルウは試しに手を伸ばしてみた。扉の質感を感じるよりも早く、バチッと手が弾かれる。


「わっ」


 抱えられていたところから衝撃が伝わったのか、レイがぎゅっと身を縮める。見れば触れた右手の皮膚が、火傷したように軽く爛れていた。


「ハ、ハルウ、それ……」

「なんだ。この程度か」


 レイは自分が痛そうな顔をしていたが、ハルウは予想よりも弱くて肩を落とした。

 どうせ王証をしまってある場所は二重三重に守られているだろうが、難儀するのはフュエルの娘が施した物だけのようだ。

 ハルウはもう一度扉に手を伸ばす。バチッと音がしたが、構わず押し切った。半瞬遅れて、触れた部分からジュッと消し炭に変わる。あとは適当に手の甲で叩けば、呆気なく崩れ落ちた。

 五センチはありそうな扉の成れの果てを跨いで、宝蔵庫に足を踏み込む。途端、虎落笛もがりぶえのようなヒュオーッという甲高い風切り音が鳴り響いた。風の神法でも利用した警報らしい。


「えっ、えっ?」

「子供騙しだな」


 程度が低いと鼻で嗤う。

 実際には、鍵と法具を持たず不法侵入した者を、闇の神の力を借りて闇の中に足止めする法術が発動する仕掛けなのだが、ユノーシェルの血を引くハルウとレイには効果がなかった。そのまま素通りする。

 庫内は、儀式でも見ないような古い武具や、不揃いの端がぼろぼろと壊れる寸前のような本、何が貴重なのか分からない人形などが、棚に等間隔に置かれていた。年月を経た物特有のかびのような古い匂いが、空間全体に充満している。

 ハルウは、この匂いが嫌いだった。ともすれば自分からもその匂いがしてきそうで、自分の末期まつごを暗示するようで気が滅入る。

 だがレイは、気まずさと恐ろしさを抱えながらも、それらに物珍しそうに目を奪われていた。無邪気に、無知に。

 けれどここにはハルウの見覚えのあるものは一つもないから、教えてあげることはできない。ユノーシェルやフュエルが使ったものは更に奥か、或いはもうないのかもしれない。

 そうして、棚や木箱や甲冑が作る通路を幾つか折れて、背丈よりも僅かに小さな扉の前に辿り着いた。

 ハルウは、やはり躊躇わず触れた。反応はない。だが強固な法術の気配を感じて、ハルウは顔をしかめた。


「……ハルウ?」

「ちょっと待ってて」


 訝しむレイに笑って、やっとその体を下に降ろす。傷は、まだ治してあげていない。だが歩けないほどでもない。神法で自由を奪っておくこともできるが、今は目の前の扉を破壊するのが先だ。

 神弓を持つ右手首だけを掴まえると、ハルウは数歩後退してから、今日一番の力を込めて手を振った。


「ッ!?」


 ガガァン! と盛大な破壊音が後に続く。掃除しきれていない埃がぶわりと舞う。だが床にばらまかれたのは、粉々になった棚や砕かれた木箱に兜、保管箱から飛び出した重そうな宝飾品ばかりだった。

 扉は、憎らしいくらい変わっていない。


「……やっぱり、ダメか」


 第三代女王の時代は戦争末期の頃で、神法もそのために徹底的に研究された時代だった。法科協会の前身である神法研究室が生まれ、神法の解析や系統化が進められ、効率的な大量殺戮の方法が一個人の研鑽から国家の研究に変わった。

 生半なことでは、解除も破壊も難しいだろう。だが、時間をかけることは出来ない。

 背後からは、鈍重な兵士たちの足音が徐々に大きくなりつつあった。ヴァルや王子なら、もっと早く追い付くだろう。


「ハルウ、ダメならもう止めて、帰ろうよ」


 右手首を握り続けるハルウの手に縋るように、レイが言う。薄闇でも分かるくらい顔は蒼白で、目には涙を溜めていた。

 次々に現れる追っ手を、ハルウが片端から抹殺し続けていた時も、彼女はこんな顔をしていた。


『お兄様……わたし、こんなことをして欲しかったんじゃない……! ここまでしなければ一緒にいられないなら、わたし……お姉様に従う……!』


 それが本心ではないことくらい、ハルウにはすぐに分かる。だというのに、いざとなれば他者を蔑ろにできず、自分ではない誰かの最善の方法から目を背けることが出来ない。自分のために誰かが傷付くのを看過できない。寂しいと、苦しいと、いつも隠れて泣いていたくせに。


「泣かないで? 何も心配いらないよ」

「っ」


 真綿でくるむように、少女を抱き寄せる。小さな肩が、小刻みに震えていた。記憶にあるよりも少し幼い輪郭を、指先でそっとなぞる。

 それから、首飾りに加工された黒泪ダクリュオンに触れた。神気が持つ特有の鼓動と温もりが、掌の中で確かに息づいている。

 これを、孤独な少女から奪えば、どうなるか。

 それを十二分に承知した上で、ハルウは両手に力を込めた。


「…………ハル、ウ?」


 レイが、潤んだ瞳でハルウを見上げる。そこに、ついに目障りな子供と獣の声が追いついた。


「――レイ!」

「ハルウ、止めな!」


 狭い通路に反響するそれらの声をどこか遠くに聞きながら、右手で首飾りの紐を千切り、左手で神弓を奪う。


「あ――――」



 世界に、闇が落ちてきた。



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