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第80話 不審、疑念、拒絶

 突如轟いた揺れは、正門から侵入してきた賊が石橋を破壊した音だと報告が届いた時には、エレミエルは玄関ホールに向かう階段を駆け下りていた。


「陛下! ここでお留まり下さい!」


 重いドレスとマントを羽織ってなお歩を緩めないエレミエルに、最近腰が痛いと漏らしていたモラレスが必死に並走しながら進言する。


「相手は法術内に入ってなお、エピオテス橋を破壊できるほどの手練れです。無策での接近は危険です!」

「それで近衛たちを犠牲にしろというのですか?」


 モラレスがエレミエルの身を案じているのは分かるが、廊下を進む間も前庭の方から鈍い衝撃音は断続的に聞こえてきていた。城内にいた兵士の半数は向かったはずなのに、だ。

 加えて、唯一の出入り口である石橋を破壊されたのなら、外に出ている他の地軍や天軍の応援はすぐには期待できない。

 早く、早くと焦りのままに走る。やっと玄関ホールに降りて、小さなガラス窓越しに外の景色が見えてすぐ、エレミエルの足は反射的に止まってしまった。

 扉の外側から正門まで向かう直線の通路とその周辺のあちこちに、火がくすぶり、草木が燃えた跡が見えた。その間には、気を失ったり血を流して倒れている近衛兵の姿もある。

 イリニス宮殿では――否、少なくとも聖都では一度も目にしたことのない惨状が、そこにはあった。

 そしてその中心に見慣れた姿を見付けて、エレミエルは衝動的に駆け出していた。


「陛下! なりません!」


 モラレスの制止も振り切って、扉を押し開ける。騎士団長で夫のサフィーネが、剣を片手に突撃する――その腹に、何かが風を唸らせて迫っていた。

 何かは分からない。だがエレミエルは咄嗟に詠唱を極限まで省略して叫んでいた。


「……外道者を立ち帰らせよ、回帰の灰滅けめつ!」


 心の中で生の神ビオスと死の神タナトスに祈りを捧げ、神法を悪用する者を排除する無効化の神法を叩きつける。

 それがバキンッと硬質な音を立てて爆発するのとほぼ同時に、エレミエルもまた馬車回しに辿り着いた。

 すぐそばにいた二人が、身を捩ってその破片から逃れる。長身痩躯の方が男だ。人間種ピリトスでは中々見ない深緑色の髪をしている。

 そして腕の中で守られているのは、女性――少女だろうか。男の体の影から、亜麻色というには複雑で深い色の髪が揺れている。

 状況と直感からも、その二人が侵入者であることは間違いない。そして最前までエレミエルが感じていた、東側から近付いていた複雑な気配の正体だろうとも思う。

 だがそれ以上に、何故か目が離せなかった。


「陛下! 私の後ろに下がって――」


 やっと追いついたモラレスが、自身を盾にしてエレミエルの前に出る。だがその声も聞こえない程、エレミエルの目も耳も、目の前の二人の侵入者に奪われていた。

 正確には、男の腕に隠されて丁度顔が見えない、少女に。


(……まさか)


 背筋が粟立つような、空恐ろしい予感が走る。その目の前で、男の腕が下がり、少女の顔が露わになる。

 目が、合った。


「――おかあ、さま……」


 森の奥に隠された深い湖のような、磨きあげられたばかりの橄欖石ペリドットのような、澄みきった緑の瞳が、エレミエルを見ていた。


「どう、して……」


 戦慄した。

 平和の象徴であるイリニス宮殿を乱す侵入者が、帝国にいるはずの娘であったことに。父親の危機を前に、侵入者の腕に守られていることに。その腕や膝にべっとりと付着した、禍々しい血痕に。


「レイフィール……なのですか?」


 信じたくないという思いが、分かりきったことを問わせる。

 黄昏の麦畑を思わせる、姉妹の中でも濃い亜麻色の髪。ユノーシェルの血筋では二度目となる緑色の瞳。エレミエルよりもサフィーネに似た、柔らかな目元と鼻筋。背丈は、記憶の中にあるよりも、随分大きい。


(そう、もう十六歳、だものね)


 エレミエルの中で、レイの姿は九歳の頃で止まっていた。

 エングレンデル帝国で行われた式典での一件のあと、レイは再び最後の聖砦(エスカトン・フルリオ)に戻された。二度目は、エレミエルも抵抗しなかった。

 その後も、公務などで聖都に上ることは変わらなかったが、レイがエレミエルの前に私的に現れることはほとんどなくなった。意図的に避けているのだろうことは分かっていたから、エレミエルも自分から接触することはしなかった。夫のサフィーネが、公務の合間を縫って二言三言声をかけるのを、遠目に眺めるくらいだ。


 逃げていたと、自覚している。

 問題の先送りですらない。王太女は第一王女が務め、第三王女にも既に数人の婚約者候補が挙げられている。第二王女が聖砦から戻ってこなくても、問題は何一つなかった。

 だから、エレミエルは何もしなかった。

 レイが自分をどんな目で見ているかも、何故避けているのかも、どうすれば解決できるのかも。その先にどんな未来が待っているかさえ、考えもしなかった。

 逃げ続けていれば問題が解決するわけでも、レイを傷付けたかもしれない過去が消えてなくなったりもしないのに。

 そしてその怠慢の結果、恐れていたことが最悪の形で現実になった。


「あの……お母様、私……」


 エレミエルを見た途端、レイが動きを止めて口ごもる。その顔色は遠目に見ても蒼褪め、平気で人を傷付けていたようには思えない。

 それでも、エレミエルは信じられなかった。だから、


「……っ……」

「お父様!」


 意識を取り戻したサフィーネが呻き声を上げ、レイがそれに反応を示した途端、エレミエルは反射的に叫んでしまった。


「触らないで!」

「ッ」


 男の腕から走り出て手を伸ばそうとしていたレイが、びくりと静止する。だがそれは、叫んだエレミエルも似たようなものだった。

 考えるより先に出ていた言葉に、自分で驚いた。けれど言い訳の言葉も咄嗟には出てこなくて、取り繕うようにモラレスに指示を出していた。


「……モラレス。騎士団長と、負傷した兵たちの避難を」

「はっ」


 レイの目を見られないのを誤魔化すように、モラレスが騎士団長に代わって近衛兵たちに指示するのを見る。その間、男は邪魔するでもなく、ただレイに寄り添って立っていた。

 まるで、自分こそがレイの本当の家族だとでもいうように。


(緑の髪に……緑、と栗色の目)


 怪訝な男だと、エレミエルは思った。

 アクリの丘に感じた不穏な気配は、この男で間違いない。だがその質は、神法士というより、魔獣のそれに似ている気がする。

 だが完全に知らない気配かというと、そうではない。どこかで、確かに感じたことがあるように思う。

 だが、それがどこでだったか思い出す時間はなさそうだった。


「……お前、少しフュエルに似ているね」


 ずっとエレミエルを睨んでいた緑髪の男が、おもむろに口を開く。その奇妙な言い回しに、エレミエルは酷く不快な印象を受けた。

 代々の女王を聖大母ユノーシェルに似ていると称えるのは、よくある褒め言葉だ。だがそれを、わざわざフュエルに置き換える者は少ない。

 ユノーシェルとサトゥヌスの唯一の娘である第二代女王フュエルは、勤勉実直な人柄で民衆からも高い支持を得ていたが、在位中は常に帝国からの侵略戦争に悩まされていた。

 また家族との縁も薄く、父サトゥヌスは幼い頃に国を出て、双子の兄や、腹違いの妹とも若くして疎遠になっている。

 そして男の色違いの目を見れば、それが褒め言葉などではないのは瞭然だった。


「ハ、ハルウ?」

「相手の事情も聞かず、目に見えるものと自分の知っていることだけで判断しようとする。あの女程強情でも頑固でも堅物でもなさそうだけど……気に食わない」


 その刺々しい声も、まるで怨敵にでも再会したかのようではないか。


(目的は、女王わたくし?)


 少なくとも、聖国に対してというよりは私怨と言われた方が、よほど納得できる。

 エレミエルはサフィーネたちが男から離れたのを確認してから、風の神への枕詞を唱えた。


(拘束できればいいけれど、いざとなれば致し方ないわ)


 神法の中でも、攻撃の他に拘束や移動など多様性があるのが風の神法だ。生きて捕らえるのが理想だが、今はイリニス宮殿の防衛が最優先だ。


「希うは……」


 一歩二歩と距離を詰める。跳びかかるにも一瞬で仕留めるにも、まだ離れすぎている。もう少しだけ距離を詰めて、せめてレイを奪い返す算段が出来るまではと、時宜タイミングを見極める。

 男もまた、無造作に手をかざす。その指先が自分を捕らえた刹那、不覚にも鳥肌が立った。

 拘束神法を、咄嗟に攻撃神法に切り替えていた。


鎌鼬れんゆうほう、全てを切り裂け――」


 いや、間に合わない、と戦慄した時、


「ダメ、ハルウ!」

「!?」


 レイが男の腕に飛びついた。咄嗟に翳していた手を上空に向ける。完成寸前だった神法が、抑えきれず暴発するように二人の周囲の土を抉った。


「レイフィール!」


 エレミエルは蒼白になって焦ったが、砂塵を被ったレイはまるで聞こえていないかのようにハルウと呼んだ男に詰め寄った。


「お母様に王証を届けるって言ってくれたでしょ!? それ以上傷付けたら何もかもダメになっちゃうよ!」


 レイが必死に訴えるが、その先の男の目は、ゾッとするほど冷たい――わけではなかった。どこか憐れむように、自分と同じ色の瞳を見返している。話を聞く気がないわけでも、道具のように利用しているわけでもない。明らかに何らかの情がある。

 エレミエルは、余計に混乱した。この二人の関係はなんなのかと。


(王証探しに、同行者が二人つくと書いてあったけれど)


 まさか、セレニエルが言っていた同行者がこの男なのだろうか。となると、身元は確かということになるのだが。


(いえ、それよりも)


 今、耳を疑うような言葉があった。


「まさか……見付けたのですか? 欠けて、行方知れずになってしまった、欠片を」


 真実を知らない兵士たちがいることを思い出し、辛うじて王証という言葉を呑み込む。だが動揺と僅かな興奮は、抑えられそうになかった。

 いつ欠けたかも、どこに消えてしまったのかもずっと分からなかった王証を。

 その気配を知る代々の女王と斎王はそれぞれの地から離れられず、探すにも探せずにいた王証を。

 ついに、レイが。


「……はい」


 男にしがみついていたレイが、おずおずと肯定する。男の動きに注意しながら、右手に持っていた物を、エレミエルに見えるように指し示した。


「こんなことになってしまいましたが、お……陛下に」


 傷だらけのその掌の上に載っていたのは、確かに淡く赤色に色付く、水晶のような透明度を持つものだった。

 鉱石とも違う独特の輝きと、途中で終わる曲線は、エレミエルも過去に二度――祖母の葬儀と、自身の戴冠の時に、目にしている。

 あちらには、中央の弓柄にぎりの部分に紫色の宝石が嵌め込まれているが、違いはそれだけだ。


「……あぁ、本当に」


 エレミエルは状況も一時忘れて、吐息のような声を零していた。

 代々の女王が希求した、完全な王証。そのための唯一の半身が、本当に戻ってくるなんて。

 レイが王証を探す旅に出ると聞いた時も、本当は僅かにも期待はしていなかった。四百年以上行方不明だったものを、王女一人が探し出すなど、いかにも無理難題だ。いくら気配が分かる者がいるとはいえ、役職も公務もない第二王女に与えられた、形だけの任務だと思っていた。

 それが達成されるなど、一体誰が想像しただろうか。


「その前に」


 王証に惹きつけられるようにふらりと足を踏み出しそうになったエレミエルを、男の冷たい声が牽制した。


「残りの王証を見せてよ。持ってても、飾るくらいしか使い道なんてないでしょ?」

「ハルウ!?」

「……狙いは王証ですか」


 読み誤ったかと、エレミエルは緩んでしまった気持ちを引き締める。

 だが当事者のはずのレイは、初耳のように目を丸くした。


「ハルウ……何言ってるの? 本物の王証は、聖砦にあるって」

「あれはヴァルの嘘だよ。僕を騙そうとしたのか、君を騙そうしたのかは知らないけど。セレニエルが王証に触れていたのは、斎王になってからじゃなくて在位中だったはずだからね」

「騙すって、なんで……?」


 何のことか分からないと戸惑うレイを、男が満足そうに見下ろす。そして見せつけるように、レイの右手首を握りしめた。


「っ?」

「ねぇ、早く教えてよ。どうせ、女王にしか開けられないようになってるんでしょ? 壊すのも探すのも面倒だからさ、さっさとしてくれると手間が省けるんだけど」

「ハルウ、やめて!」

「レイはちょっと黙ってて。その神弓トクソ、いつだって奪えるんだよ?」

「……ッ」


 右手を掴まれたまま間に入ろうとするレイを、男が作り物めいた笑みで押しのける。その直截的な脅迫は実に今更で、だからこそエレミエルは困惑した。

 エレミエルに残りの王証を出せというくせに、レイからは取り上げない。完全な王証が必要なら、レイは人質としての利用価値はあっても、ずっと握らせておく意味はないはずだ。


(ただの自惚れ……なら、いっそ楽なのだけど)


 もしくは、レイは決して裏切らないという自信があるのか。


(……まさか!)


 すぐさま胸中で否定する。だがそれは、一度考えてしまえば何より恐ろしいことのような気がして、エレミエルは強引に意識を切り替えた。


「王証は、聖大母ユノーシェルの魂にも等しい聖国の宝。賊などに名を呼ばれることすら侮辱に値します」

「へぇ? 随分な言い草だね」


 エレミエルの拒絶に、男が悪しざまに笑う。

 その意味深な態度に、エレミエルは今更ながらに迷いがちらついた。いざとなれば王証とレイ、どちらを選び、どちらを見捨てるべきか、決めなくてはならないのに。

 その迷いを見透かしたように、男は続けた。


「どうせ宝蔵庫とかでしょ。鍵は法具? 血? それとも……目玉とか?」

「…………」


 挑発だ、とエレミエルは自身に言い聞かせた。

 確かにイリニス宮殿で最も厳重で安全なのは、女王の寝室か宝蔵庫だろう。

 五階にある宝蔵庫には、庫内全体に監視と結界の法術が張り巡らされている。加えて入り口も通常の施錠の他に法具での開閉が必要で、宝蔵室の長官の許可がなければ出入りできない。

 王冠や儀仗、王証の模造品レプリカなどはそこで管理されているが、本物の王証は更に奥の小個室に仕舞われ、開閉には前回扉を閉じた者の血と呼気がなければ開かない仕組みだ。

 これを完成させたのはフュエルの娘である第三代女王で、開閉方法については完全な蜜儀とされ、代々の女王と斎王しか知らないはずだ。


(あるいは承知の上で、目玉を抉るという脅しなのかもしれないけれど)


 となると、余計に男の正体が分からなくなる。まさか、セレニエルが話すはずもないが。


(……疑いたくないのに)


 エレミエルは、実の母が苦手だった。

 思春期の頃から始まった反抗期を引きずっているという自覚はあったが、難産で生まれた双子の姉を祖母に託すと言われた時、不審は決定的なものになってしまった。

 それでも、国を思い子を想う気持ちは同じだと、ずっと言い聞かせてきたけれど。


「王証は渡しません。投降しないのであれば、ここにいる全戦力であなたを捕縛します」

「投降って」


 男が、困ったものだとばかりに失笑した。弱者相手に何故する必要があるのかとでも言いたげだ。

 だが今までの会話の間に、負傷した近衛兵は下がらせ、態勢は立て直されていた。橋が壊されたせいで増援はまだ望めないが、一つを諦めれば、一つは守れる。

 傍らで男に手を向けるモラレスに目線で合図して、エレミエルは覚悟を決めた。

 もう一度、今度は唇を極限まで動かさずに神言を唱える。


「希うは、鎌鼬れんゆうほう


 近衛兵はその特質から、攻撃よりも防御や拘束などの神法に長けている。先程のエレミエルの警告から、彼らは自分たちの役割を正確に理解たはずだ。

 エレミエルが攻撃を仕掛けると同時に、彼らが接近しながら奪取する。

 機は一瞬。


「全てを切り裂け……」


 はしばみ色の瞳はひたと男を見据え、唇は動かさず、両手もだらりと脇に下す。両手に集まり始めている風の気配を極限まで留める。

 だがこれに、対峙する二人も恐らく同時に気付いた。男はうっそりと目を細め、レイは力任せに男の手を振り払う。


「陣風剣舞――!」


 口の中で叫ぶと同時に、両手を振り上げ、圧縮された空気の刃を男目がけて叩きつける。だがそれは、まるで鏡に映したように彼我の中間で互いを削ぎ合った。

 その時には男の手を逃れ走り出していた、レイを巻き込んで。


「あぁぁ――ッ」


 防護の彫言が施された外套が、裂帛の悲鳴を上げて細切れに飛び散る。その中で、娘のひび割れた唇が確かにこう動いた。


 おかあさま、と。


 それを見て、エレミエルは風を散らすことも出来ず、慄くように身を引いていた。


「……こないで――」


 知らず、唇が動く。零れた声は風音よりも微かだった。だというのに、力なく頽れるレイの緑眼にはっきりと傷付いた色が刻まれるのを、エレミエルは見てしまった。

 届いてしまったのだ。エレミエルの拒絶が。

 もう、後には引けない。

 エレミエルが、美しい顔を歪めて、意を決した時だった。



「――やめろ!」



 瑞々しい少年の怒号が、両者の頭上に轟いた。



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