第72話 皇帝の狗
リォーの葛藤など興味は無いとばかりに、リッテラートゥスの視線が隣に滑る。
青灰色の瞳が次に捉えたのは、短剣に付着した血を悠長に拭っている伯爵であった。
「それはそうと、レテ宮殿で小生に脅迫文を寄越したのは、貴様か?」
どちらも脅威はまだ去っていないはずなのに、伯爵は暢気に短剣を鞘に戻し、リッテラートゥスもまた泰然と両腕を組んで伯爵を睨む。リォーには何のことかさっぱりだったが、その推測は当たっていたらしい。
伯爵は、悪びれるでもなく「えぇ」と首肯した。
「上司からは、フィデス侯爵家とあなたの立場については、今までと変わらず守られることを保証すると言付かっております。その代わり」
「分かってるよ。証人になればいいんだろう。ハィニエル派を徹底的に潰すための」
「だけでなく、ネストル伯爵は爵位を剥奪、フィデス侯爵位の世襲を拒否し、代わりにこちらの指定した人物を継承者としてもらいます」
「証拠はあるのか?」
「ネストル伯爵がハィニエル派と接触したことや、帝国軍を私的に編成して第三皇子殿下を殺害しようとしたこと、並びに皇太子殿下の侍従文官を監禁していることは、既に調べがついています。今頃、別の者が対処しているでしょう。それに、先程ラティオ侯爵閣下にお渡しした手紙もあります」
「ではまぁ、妥当なところだな」
滔々と「証拠」を並べ立てる伯爵に、リッテラートゥスも内容を咀嚼するようにして頷きを返す。妥当と答える辺り、リッテラートゥスには反論する気も、叔父を弁護する気もないようだ。
或いは、言われた全てのことに対して既に何手も先まで対策を考えた上で、結局そこに落ち着くのを良しとしたのかもしれない。どちらにしろ、相も変わらず薄情な男である。
そう考える間にも、待ちきれないというように声を上げる者がいた。
「まさか、なら……だったら!」
侍従武官のマクシムだ。突然の伯爵の告白とリッテラートゥスへの宣告に、理解が追い付かないという顔で言い募る。
「だったら、フォルミード領の水源を押さえたというのは……!?」
「申し訳ございません。実際には何もしておりませんのでご安心ください」
蒼い顔をして狼狽するマクシムに、伯爵が深く低頭して謝罪した。やはりリォーには何のことかさっぱりだったが、伯爵はマクシムにも何かしらの策略を働いていたのかもしれない。
(何なんだ、この男?)
話を聞けば聞くほど、全容が分からなくなってくる。この男は、裏で一体どれだけ動いていたというのか。
だが、全体像が分からず困惑しているのは、どうやらリォーとカーラくらいのようだった。
「乃公への説明ではなかったのか?」
「閣下へは、これだけで十分伝わったかと」
ルードゥスの皮肉を込めた文句に、視線を戻した伯爵は無駄に言葉を足す気はないというように言葉を切る。
その無礼とも取れる態度に、しかしルードゥスは声を荒らげるでもなく嘆息と共に引き下がった。
「成程、貴様が噂の皇帝の狗ということか」
「お好きにお呼びくださって構いません」
それは明らかに侮蔑を含んでいたが、伯爵は歯向かうでもなく慇懃に低頭しただけだった。
それだけでお互い納得したように口を閉じると、ルードゥスは興味は失せたとばかりに衛兵にファナティクス侯爵の捕縛を命じる。リォーは、何もかも納得できないまま、ファナティクス侯爵の上から退いた。
だが納得できないのは、当のファナティクス侯爵も同様だったらしい。衛兵に両脇を抱え上げられながら、信じられない言葉を聞いたというように、赤く腫れあがった唇をわなわなと震わせた。
「こ、皇帝の狗だと? お前は、バレトの紹介で暗殺を請け負う……」
「あぁ。彼は優秀ですが、気紛れで困りますよね」
「……ッ!」
話が違うとばかりに余計なことを口走るファナティクス侯爵に、伯爵がこの日初めて表情らしきものを見せて応える。口の端が持ち上がっているから笑顔に見えなくもないが、お陰でファナティクス侯爵の皺だらけの顔は怒りでみるみる真っ赤になった。
バレトが誰かは知るよしもないが、どうやら最初から手引きした仲間が他にもいたらしい。
ファナティクス侯爵は最早怒りでまともな言語にすらなっていない罵声を喚き散らしながら、衛兵隊に部屋から連れ出された。その後には、ひとまずの止血と治癒が完了したテオドラと、状況が分からずずっと震えていた男もついでに連れていかれた。
それを不服顔で見届けていたルードゥスもまたその後に続く。かと思ったら、その前に肩越しに伯爵を振り返った。
「ラティオ侯爵家は、ファナティクス侯爵を捕らえることに全面的に助力した。間違いないな?」
「えぇ。上にはそうお伝えします」
事実とは明らかに違うその念押しに、伯爵は一切の異論を挟まず首肯した。皇子二人を相打ちに見せかけて殺害し、リォーを皇太子位に据えるというルードゥスの目論見については、不問に付すという言質を取った形だ。
随分手前勝手で都合のいい話だが、皇帝にとっても六侯爵を一気に二人も失う危険は避けたいはずという計算の上だろう。ルードゥスとしてもここで手を引いて満足しなければ、皇帝の懐刀を前に自滅するだ。この後の処理については、皇帝の采配に任せるしかないとは承知の上ということだろう。
「喰えない爺だ」
数人の衛兵を残して消えたルードゥスを見送って、リッテラートゥスが呆れた声を上げる。
だがリォーには、そこまで思考を巡らせる冷静さはまだ戻ってきていなかった。
「皇帝の狗って……つまり、この男は陛下の命令で動いてたってことか?」
ファナティクス侯爵の刺客としてアドラーティに襲い掛かったのも、間者としてハィニエル派に潜入し、陽動し、決定的な証拠を掴もうとしたということなのか。
先の皇帝の時代からハィニエル派を危険視し排斥へと動き始めていたことは、リォーも知っている。
だが今回アドラーティとリォーがラティオ侯爵家に来たのは、王証を発見したことによるいざこざを未然に防ぐためだった。それは完全な偶然であり、たとえどこかで情報を掴んだとしても、対応が早すぎる上に、嵌りすぎている。
この疑問に答えたのは、意外というか必然というか、アドラーティであった。
「俺が陛下に頼んでおいたんだ。王証が発見されたら俺が陽動で動くから、利用してくれと」
「兄上!?」
頭から信じ切っていた兄のまさかの背信発言に、リォーは愕然と目を剥いた。だがその淡褐色の瞳に迷いや引け目は一切なく、アドラーティが強い意志で最初から決めていたことは明らかであった。
驚きは去り、代わりに納得が胸に落ちる。
「では、陛下は兄上の行方を最初からご存知だったということか?」
皇太子行方不明の報に、ドウラーディ二世は一切の動揺を見せなかったと聞いている。皇帝としてはそれが正しいのかもしれないが、違和感はあった。
父は皇帝としてある程度の威厳はあるが、完璧でも冷徹でもない。王証が発見されたことも知らない上で嫡男が姿を消せば、状況証拠など無視してフィデス侯爵家に軍を差し向けるくらいの情はある人物だ。
(つまり、兄上は俺よりも父上を信じていたというだけの話か)
それは言葉にすれば嫌でも寂しさを覚えたが、政治的駆け引きならばリォーは家族の中で恐らくカーラよりも役に立たない。妥当な戦略だったろう。
そしてリォーが必死に逃げている間にドウラーディ二世は初動捜査をあえて遅らせ、フィデス侯爵家が先にアドラーティやリォーに手を出すように仕向けたというところか。
「俺はハィニエル派を、陛下はフィデス侯爵家に体質のように蔓延する不正や汚職を排除したがっていた。今回のことでファナティクス侯爵とハィニエル派との関りを表立って騒ぎ立てることができれば、その背後関係や資金援助などについても徹底的に調べ上げることができる」
「そう、か」
淡々と説明するアドラーティに、リォーはそう返すのが精一杯だった。
フィデス侯爵家の汚職体質も、今に始まったことではない。近年で言えばイグナウス公爵を筆頭に我が物顔で私腹を肥やし、フィデス侯爵家に所縁のある者というだけで軍でも宮廷でも引き立てられて高職についている。クラスペダ山岳地帯での襲撃が良い例だ。
だが、この説明では満足しない者がいた。
「あの女についても確信があったので?」
「…………」
リッテラートゥスだ。リォーには突然の話題転換に思えたが、対するアドラーティは怪訝な顔をするでもなく、硬直するように口を結んでいた。
兄でも想定外の質問だったのだろうかと、内心訝る。だが女と言えば、まだ事情が呑み込めない人物がそういえばいたと、疑問が口をついていた。
「そういえば、伯母上は何でこの城にいたんだ? あんなに騒いで……」
アドラーティがラティオ侯爵家に来たのが陽動だったのは理解した。だが伯母テオドラは、確か結婚して州都にいるはずだ。リハ・ネラ城が生家とはいえ、偶然居合わせるとは随分低い確率に思える。
しかもリォーは随分久しぶりの再会だったのだが、こちらが困惑するくらい敵意を向けられていた気がする。それに気になることは他にもある。
「っていうか、兄上って伯母上と仲が良かったのか?」
「…………」
リォーを毛嫌いするのと同じくらい、アドラーティを猫撫で声で呼んでいたような気がする。あれは何だったのかと視線を問えば。
「相変わらず、めでたい弟だ」
「なんだとっ?」
失礼な方の兄から鼻で嗤われた。むっと振り返るが、それ以上の文句を言う前にアドラーティがぽつりと口を開いた。
「……彼女のことは、俺の我儘だった。もしかしたら、何かしらの行動を起こすかもしれないと思っていた程度だ」
それは説明に見せかけながらも、具体的なことは一つもなかった。ただ最後に、申し訳なさそうにリォーを見やる。
「だが、結果的にお前に危険が向いてしまったことは、俺の落ち度だ。すまなかった」
「兄上……」
突然の謝罪に、リォーはそれ以上何かを言うことは出来なかった。
実際、兄の行方が分からずに翻弄されたのはリォー自身だ。兄の目的が分かれば、もう少し上手い立ち回りようがあったのではと思う部分はある。
(いや、それでも一緒か)
リォーが身を隠せば、ネストル伯爵はアドラーティを追うだけだ。兄に危険が迫る中、自分だけ安全な場所に逃げるなど、リォーにできるとは思えない。
(それに、レイは……)
レイがハルウに攫われたことは、兄とは無関係だ。だからこそ、余計に胸の中のもやもやは大きくなった。
リォーは、所在なく視線を逸らした。
傍らでは、一瞬気を失っていたヴァルがよろよろと動き出している。ハルウに弾き飛ばされた時に内蔵を傷付けたのかもしれない。動きがまだ覚束ない。
(それでも、レイを追いかけるのか)
ヴァルは、王証とレイのどちらが大事なのだろうか。数日を共に過ごしただけのリォーに、それは分からない。それでも、ヴァルは行くだろう。とても敵いそうにない相手だろうとも。
そしてリォーには、あの王証が天剣でないのなら、レイを追う理由はない。
「小生へも、謝罪があっても良いと思うんですがね」
リォーが独り煩悶する中、脅威が去ったリッテラートゥスが図々しく要求する。
「お前にも、迷惑をかけた」
「本当です」
「リッテお兄様!」
殊勝に頭を下げるアドラーティに、ずっと政治の話だからと沈黙を守っていたカーラが、堪りかねたように抗議の声を上げた。それを一瞥してから、リッテラートゥスは飄然と肩を竦めた。
「ですがまぁ、いずれ自分でやろうと思っていたことでもありましたからね。構いやしませんよ。今回のことで小生の可愛い婚約者が離れていくわけでもありませんし」
ではなぜ謝らせた、と誰もが思ったが、それが声になる前にカーラが素直な疑問を言葉にした。
「それは、解消されるのではありませんの?」
「…………」
一瞬で、リッテラートゥスの顔色が悪くなった。それに気付かぬまま、カーラが純真な眼差しで更に畳みかける。
「相手はあのベネウォルス侯爵の孫娘でしょう? 六侯爵が不祥事なんて、良い顔をするはずがありませんもの。ネストル伯爵からも随分目をかけられていましたし、リッテお兄様との解消はされて別の後継の方にその座は譲り渡して、お兄様ご自身はもっと格下の家柄のご令嬢と」
「小生は身内の罪を嘆く告発者であり、重要な証人だ」
ぴしゃりと、ついにカーラの言を遮ってリッテラートゥスが口を挟んだ。何だか肩がわなわな震えているようにも見える。
「今後より一層の忠誠と監視を求められるだろうが、可愛い婚約者のためならば小生は益々勤倹力行して働く用意がある。フィデス侯爵家を清廉の士へと生まれ変わらせるためなら、筋肉以外のあらゆる努力は惜しまない。何より、猪突猛進で近視眼的で頭のめでたい弟に仕える羽目にならないのなら、多少の浅薄愚行は我慢できる!」
言い張った。今回の騒動で一番の早口の上に顔色も悪かったが、誰も何も言わなかった。
さらっと自分の悪口が入っていた気がするとはリォーも思ったが、
「まぁ……。そうなると良いですけれどね?」
天真爛漫を地で行くカーラが、無自覚に――或いは男たちの政治的話には口を挟まない淑女としての弁えがあるのだから、婚約を含む社交は自身の領分だとばかりに考えたのかもしれないが――笑顔で渾身の追い討ちをかけたので、今回ばかりは黙っておくことにした。




