第71話 自演自作
「あんたは、まだ……ッ」
体勢を直して再び跳びかかろうとしていたヴァルに、ハルウがにっこりと捨て台詞を吐く。
「安心していいよ。ちゃんと、女王には挨拶するから」
「だからそれが……!」
苛立ちとともに反駁するヴァルの声は、しかしそこで途切れた。言い切る前に、抱き寄せたレイとともに、ハルウが煙が掻き消えるように忽然と姿を消したからだ。
「この、クソ坊主め……ッ」
無理して四肢を突っ張っていたヴァルが、力尽きたように再び倒れる。
そこまでを見届けても、リォーに口を挟む余地などなかった。
(死ぬって、何だよ……?)
二人がいたはずの空間を睨みつけて、リォーはぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
ヴァルの言葉を、リォーも確かに聞いた。そして正確に理解していた。それでも、やめろと言えなかった。
リォーはあの土壇場で、カーラとレイの命を天秤にかけ、レイを見捨てたのだ。
(仕方なかった……わけねぇだろ……!)
最低だ。
レイは何度となく自分の身の危険を顧みずリォーやカーラを助けてくれたというのに、リォーは選択を迫られて、カーラを取った。死ぬ気で抗うでもなく、詭弁を弄してでも防ぐでもなく、ただ困惑に流されるまま、レイの決断に甘んじてしまった。
レイが触れた途端、王証が剣から弓に変わったことに狼狽え、有用な思考が働かなかったなどとは、言い訳だ。リォーにとってもエングレンデル帝国にとっても重要なことではあるが、今になってもそれを深く考える余裕が戻ってこないのだから。
「カーラ、無事かい」
「アディお兄様!」
その場に取り残されたまま床にへたり込んでいたカーラに、アドラーティが駆け寄る。それまで呆然と消えたレイを追うように虚空を見ていたカーラが、正気に戻ったようにアドラーティに抱き着いた。お互いあちこちに掠れた血痕がこびりついていたが、どちらも動きには支障なさそうだ。
だがそれを、リォーは安堵するでもなくどこか遠い景色のように眺めていた。
レイとハルウが神法か何かで消えたとしても、この部屋には脅威がまだ幾つも残っている。
ラティオ侯爵ルードゥスは、状況を見極めようと沈黙を貫いている。だが兄弟同士の相打ちを諦めてはいないだろう。ファナティクス侯爵も、いまだに拘束されたままだ。放心している余裕などない。
立ち上がれ、兄を守れと、残った理性で命じる。だが、上手く力が入らない。一歩が踏み出せない。
そうして苛立ちさえ湧かないうちに、慌ただしい複数の足音が部屋の前まで駆け付けた。
侍従武官のマクシムが、ふらつきながらも兄妹の前に立つ。衛兵隊の増援が、ルードゥスの言葉を実行するために駆け付けたと思ったのだろう。
だが予想に反して現れたのは、神法士の徽章をつけた州軍兵士であった。逃がさないように結界でも張る気かと身構えるアドラーティたちには目もくれず、既に激痛と失血で失神しているテオドラに駆け寄る。
テオドラのことはとうに切り捨てたと思ったが、どうやらあの混乱の間に密かに手当ての出来る者を呼んでいたらしい。
娘の呼吸が落ち着き、僅かながら血の気が戻ってきた顔を一瞥してから、ルードゥスが一歩を踏み出した。
年寄りの皺の下の険しい目が、室内に残った者を順繰りに睨む。
リォーは、纏まらない頭でアドラーティを見た。
今この状況で、王証のことを持ち出すのは下策だ。リォーが王証を持ち帰ったことは、アドラーティとマクシムしか知らないはずだ。それが帝国のものでなかったとなれば、問い詰められても知らぬ存ぜぬで済ませるのが一番いい。
今すべきは、ファナティクス侯爵の救出と、ルードゥスの意に従わないこと。それだけだ。
(動け……!)
いまだ覚束ない両足に力を込めて、どうにか剣を構える。兄弟の中で武器を持っているのは、戦えるのはリォーだけだ。
それを視界の端で見咎めて、ルードゥスが猛禽のように眼光を鋭くした。
「……どうやら、あくまで歯向かうつもりのようだな」
それから逃げるように、部屋の端に逃げていたリッテラートゥスがいそいそとリォーの背後に隠れる。
こんな時ばかり都合のいい、と苛立ちを覚えたリォーの耳に、小さく「面倒臭い……」という呟きが届いた。
(治癒をかける。代わりに、小生も守れ)
「っ?」
驚くリォーの背中に、パシッと手が触れた。強打した背中の痛みと痺れが、僅かだが引いていく。
しかし違う、とリォーは思った。
レイから受けた治癒の神法とは、まるで温かみが違う。力量とか速さとかではない、別の何かが決定的に違うと感じた。体の治癒力が高まり、体温が上がるのを感じるのは同じなのに、どこか、物足りない。
(レイ……)
ちくりと、胸が痛む。その理由を考える前に、二人のやり取りを横目で見ていたアドラーティが口火を切った。
「閣下には既に一昨日、懇切丁寧にご説明申し上げたはずです」
アドラーティが、これ以上の交渉の余地はないとばかりに断絶する。
ルードゥスは、眉間に皺を寄せて、右手を上げた。構えていた衛兵隊が、号令を待つように準備動作に入る。
「そうか。ならば」
「私がご説明しましょう」
かかれ、という声が発せられる前に、伯爵が出し抜けにそう申し出た。
「……伯爵が?」
ルードゥスが、疑わしげに片眉を上げる。だがそれよりも、拘束されているファナティクス侯爵当人の方が、驚いた様子だった。
「……は? 何を――」
「閣下がお知りになりたいのは、ラティオ侯爵家に関わる話でしょう。それでしたら、私の把握する範囲でご説明できます」
戸惑うファナティクス侯爵は無視して、伯爵が言葉を続ける。
「私はある方から、皇太子殿下を殺すふりをするように命じられました。あえて、第三皇子殿下の見ている前で」
「……どういう意味だ?」
強調された言葉に、ルードゥスが顔をしかめる。それに目顔で頷いてから、伯爵は今度は言葉の裏の意味を説明した。
「その方は、こうも言いました。第三皇子殿下は、皇太子殿下の助命のためならば皇帝になることも了承するはずだ、と」
言いながら、伯爵の栗色の瞳が意味深長にファナティクス侯爵の白髪へとずらされる。そしてどろりと絡みついた血が乾き始めた短剣を、たるんだ首の薄皮に丁寧に押し当てた。
だがファナティクス侯爵の瞳は、命を奪うかもしれないその凶器ではなく、伯爵の口の方をこそ凝視していて。
「や、やめ……!」
「それが助命の立役者の頼みとあらば、尚更――と」
そう結ばれた言葉に、ついにリォーは理解した。
何故ファナティクス侯爵は、カーラがいると嘘をついてまでリォーを自領ではなくラティオ侯爵家に連れてきたのか。
何故リォーの危機でもないのに、らしくなく荒事に乱入して、今まで敵視してきたアドラーティを庇ったのか。
そして伯爵自身の不可解な登場や、手練れのようなのにファナティクス侯爵に後れをとった理由にも説明がつく。
「お、お前! こんな時に、何をそんな、つ、作り話を――ッ」
ファナティクス侯爵が、勃然と顔を赤くして反駁する。どこにも、「ある方」を特定する言葉はないというのに。
そして、リォーは。
「……最初からそんなことのためだけに、俺たちをここに連れてきたのか」
ファナティクス侯爵の見苦しい言い訳など聞きたくもないというように、低い声で糾弾した。怒りが高じすぎて声が震え、目の前がちかちかする。刹那のうちに、この部屋に至るまでの出来事が脳裏を駆け抜けた。
「そのためだけに、カーラの行方を知っていると嘘をつき、兄上を襲わせて、俺たちを騙して……!」
挙句、レイを生贄のように見捨てる結果になった。
そう考えた瞬間、言葉で断罪するよりも前にその頬を殴り飛ばしていた。伯爵は想定済みとでもいうように寸前で両手を上げたため、ファナティクス侯爵の枯れ枝のような痩躯は見事に吹き飛んだ。
「ひぃっ、ぃたいぃぃっ!?」
白髪の老人が、頬を抑えて情けない悲鳴を上げる。それだけを見れば憐れを催すくらいの光景であったが、罪悪感は欠片も湧かなかった。
この現状の原因が、全てファナティクス侯爵のせいとは限らない。それでも、とても我慢できるものではなかった。まだ殴り足りないくらいだ。魔獣相手にも息を切らさなかったのに、今は握りしめた拳も解けぬまま、フーッフーッと鼻息を荒くする。
何度冷静にと言い聞かせても、少しも怒りが収まらない。リォーは伯爵に背中を見せることも構わずに、倒れたファナティクス侯爵に馬乗りにのしかかった。更に拳を振り上げる。
「ひッ……!」
「やめろ、フェル!」
「…………」
ヒュッと風音を立てて鼻先まで迫っていた拳が、アドラーティの鋭い一喝でぴたりと止まる。だがその青い目は、今にも熱く燃えだしそうにぎらぎらと光ってファナティクス侯爵を見下ろしていた。
その距離は、皮肉にもこの十六年間の中で最も近かった。その距離を、ファナティクス侯爵こそがずっと待ち焦がれるほどに望んでいただろうに、狂信者が持っていたはずの尊崇の色は今や完全に恐怖にとって代わっていた。
「で、でんか……お、お許しを……! 私めは、ただ殿下の御代を叶えて差し上げたかっただけで……どうか、ご勘弁を……!」
ファナティクス侯爵が、目に涙を浮かべて怯える。社交の場で見るのとは大違いのその醜態を、傍観していたリッテラートゥスが良い見世物だとばかりに鼻で笑い飛ばした。
「青の王子よと持ち上げて有り難がっていたくせに、大陸最強の帝国を作り上げた青帝の残虐性は受け継いでいないとでも思っていたようだな」
サトゥヌス帝は偉大であった。だがその偉業は、彼の冷酷で独善的な狂奔があってこそだ。そして今が平和だからこそ、誰もがそれを忘れている。
普段から、青の王子を聖人視しすぎていると嫌っていたリッテラートゥスらしい発言であった。
「フェルお兄様……」
アドラーティの背中に隠れたまままのカーラが、怯えたようにリォーを見ている。
クラスペダ山岳地帯でもライルード伯爵家でも危険な目に合わせてばかりだが、カーラは今まで荒事になど一切免疫がなかった。ただでさえこの部屋には凶器と血が溢れている。これ以上兄である自分が怖がらせてはならない。頭ではそう判断できるのに、握り締めた拳はまだ解けそうになかった。
「……くそ……!」




