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第70話 不変と変容

 守っていたはずのテオドラがいつの間にか自分を見下ろしていて、レイは状況への理解が追いついていなかった。腰に隠した短剣を奪われても、怖いというよりも戸惑いの方が大きい。

 テオドラが何かしら切羽詰まっていることは分かったが、動きは素人そのものだった。奪い返す隙はいくらでもあったし、そこまでの危険は感じなかった。

 だが本当の危険はそんな所にはなかったのだと、目の前の床に転がったものを見て、レイは思い知らされた。

 ガラガシャンッと、建物の外で壁の成れの果てが潰れる音がする。


「……え?」


 テオドラが、短剣とともに床に落ちた自分の腕を、ゆっくりと目で追う。

 だがレイの目は、その向こう、眼前に仁王立ちする人物を見上げていた。

 リッテラートゥスの乱入によって破壊された窓側の壁は、巨大な槌で打ち壊したようにぽっかりと空いている。四角い空間に、川向こうの狩猟の森が見える。

 その長閑な景色の中心に、長い足が伸びていた。

 男性にしては華奢な肩の上にあるのは、妖艶な白貌と、それにかかる深緑のような艶やかな髪。

 その顔を、見間違うことなどない。


「――――ハルウ?」


 信じられない思いで、その名を呼ぶ。

 いつもレイの後ろをついて歩き、常に飄々と力の抜けた笑みを絶やさなかったハルウは、けれど今、凍えるような冷たい瞳でテオドラを見下ろしていた。手刀を剣のように振り下ろした姿勢で制止している。何をしたかなど、問うにも愚かだ。

 だがハルウは、レイの声が聞こえた途端、まるで蝋人形が息を吹き返したようにゆっくりと、虹彩異色オッドアイの双眸をずらした。そしてレイと目が合った瞬間、子供のように破顔した。


「レイ。会いたかった」

「……ッ」


 それはあまりにもいつも通りの笑顔で、レイは咄嗟には声が出なかった。

 だって。


「ぃやぁ……っわ、私の手、手がぁぁあああ!?」


 巡る先がなくなって飛び出した血をあちこちに撒き散らして、テオドラが絶叫しながらのたうち回っていた。


「手っ、手がっ、落ち……!」


 遅れてやってきた激痛に涙と涎を垂れ流しながら、無事な左手で傷口を抱きしめている。だがそんなことで出血が止まるはずもなく、無傷なはずの左腕もみるみる真っ赤に染まっていた。

 その姿はあまりに無惨で、それを見下ろしながら笑みを浮かべる気には、レイには到底なれない。

 テオドラの行動を非難の目で見ていたアドラーティでさえ、どんな顔をしていいか分からず、血で床を染めるままを見下ろしている。リォーだって、ハルウが抱えているものがなければ、もう少し口を開くのは遅かっただろう。


「やっぱり、お前だったか……!」


 最早ファナティクス侯爵を拘束する伯爵への警戒も忘れ、リォーがハルウに剣先を向ける。だがそれも、無理もなかった。


「カーラ……!」


 ハルウの左腕には、荷物のようにお腹を抱えられて身を折る第一皇女カーランシェがいた。顔が下を向いているせいで目と鼻の先に転がってきたテオドラの右腕に、震えて蒼褪めている。


「……ぁ…ぁ……」


 その長い亜麻色の毛先が垂れて、床の血溜まりに触れて血色を吸う。


「……おに……さま……ッ」

「カーラを放せ!」


 淡褐色ヘーゼルの瞳が恐怖に揺れる、それよりも早くリォーが飛び出していた。

 丸腰の相手の無防備な首めがけて、長剣を振るう。


「ッ」


 だがそれは数歩も行かず跳ね返された。まるで神法の風盾ふうじゅんに阻まれたように、反対側の壁に叩き付けられる。


「リォー!」

「構うんじゃない」


 咄嗟に飛び出そうとしたレイの前にヴァルが回り込む。ハルウを睨み据え、二人を決して近付けさせまいと威嚇する。

 ハルウは、たった二日ぶりの再会を邪魔する獣を詰まらなそうに見下ろして、足元に転がったままの右腕をぐしゃっと踏み潰した。


「ッ」

「ひっ」


 肉が潰れ鮮血が飛び散るさまを目の前で見せつけられたカーラが、声にならない悲鳴を上げる。痛い痛いと泣いていたテオドラも、偶然それを見てしまい、鼓膜をつんざくような悲鳴を上げてついに気を失った。

 しかしハルウはそれらを一顧だにせず、だらしなく開いた五指からレイの短剣を拾い上げた。

 ぼたぼたと、大粒の血がやめてくれと抗議するように床の血溜まりに戻る。


「サトゥヌスの子供同士が殺し合うなら、終わってからにしようと思ったのに」


 血塗れの短剣を軽く血振りして、取り戻した白刃をカーラのうなじに当てる。瞬間、カーラの瞳に生理的な涙が浮かび上がった。


「や……っ」

「やめろ!」


 リォーを抱き起していたアドラーティが叫び、その意思を受けたように侍従武官が手の中の燭台を構える。

 その視線を素通りして、ハルウはどうにか立ち上がるリォーを見据えた。


「さぁ、王証を渡してもらおうか」

「なん、だと……?」


 リォーが、剣を杖代わりにどうにか立ち上がる。だがその先を続ける前に、別の声が糾弾した。


「これはどういうことだ」


 ラティオ侯爵だ。殺気立つ衛兵隊に囲まれて、ハルウを睨んでいる。足元でひきつけを起こして倒れている娘など、豪も目に入っていない。


「その男は何者だ。王証だと? そんなもの、一体どこに」

「出さないと、斬り落とすよ」


 ラティオ侯爵の問いをまるでないもののように遮って、ハルウが促す。昼下がりの陽光にきらきらと輝く白いうなじに、ぷくりと血が浮く。リォーが何かを言う前に、レイは叫んでいた。


「ハルウ、やめて!」


 ハルウの残忍な凶行に詰まっていた息を、無理やり押し出して叫ぶ。

 そんな声でもレイと話が出来るのが嬉しいというように、ハルウはにこりと言った。


「じゃあ、レイがとって?」

「…………ッ」


 まるで手近なコップでも頼むように、ハルウが笑う。レイはどうすれば正解か分からないまま、壁際のリォーを見た。

 ハルウは、リォーが胸当ての下に王証を隠していることを知っている。そして短い時間ではあったが、リォーが妹を大事にしていることも分かっただろう。


「まさか……こんなことのために、カーラを攫ったの?」

「? 別に、いなくても奪えるけど。丁度目についたから」


 無邪気な子供のように、ハルウが小首を傾げる。そこに計画性や必死さは微塵もなくて、レイは余計に悲しくなった。


(ライルード伯爵家のことも、少しも、後悔なんてしてないんだ)


 あれは発作的な行動で、姿を眩ませたのは後悔したからだと、少しでも期待した自分の愚かさが今更身に染みる。いつまで信じているのかと、嫌になる。

 テオドラの腕を切り落としたのも、カーラの命を盾に取るのも、ハルウには罪を感じるようなことではないのだ。ただ、それが一番楽で、面倒がないから。


「……渡すから、短剣を放して」

「あぁ。いいよ」


 忘れていたとでもいうように、ハルウが右手の短剣を上げる。


「おねえさま……っ」


 カーラが自分でも止められないのか、小刻みに震え続けながら呼ぶ。それに出来る限り優しく微笑み返して、レイはリォーに向かって歩き出した。


「レイ、聞くんじゃないよ」


 ヴァルが、ハルウへの警戒を緩めないまま制止する。けれど、今は聞けない。


「……リォー。ごめんね」

「…………」


 藍晶石カイヤナイトの瞳と目が合って、レイは泣くことも笑うこともできず、そう言った。

 リォーからは、文句も抵抗もなかった。真新しい外套を押しのけ、クァドラーが繕い直した服の襟元から手を入れる。

 布越しに硬質な感触に突き当たり、襟から引き出す。現れたのは、掌よりも一回り大きい、生成りの布にくるまれたモノだった。

 何が入っているかは、この状態では分からない。けれど、不思議な確信があった。手に触れた時から感じている、微かな振動のせいだろうか。


(なんか……あの時の黒泪に似てる……?)


 ともすればそれは、クァドラーの屋敷で感じたような脈動や温もりに似ていた。リォーの体温が移ったからだろうか。胸元にある首飾りは今、いつも通り沈黙しているけれど。

 しかし、それらを確かめる時間はなかった。


「ねぇ、まだ?」


 少しだけ苛々としたハルウの声が、止まってしまったレイを促す。心臓がばくばくと早い脈動を刻む中、レイは覚悟を決めて生成りの布を剥ぎ取った。

 王証が確かにサトゥヌスのものであれば、布の中にあるのは天剣クシフォスの折れた刃先だ。

 果たした、現れたのは、


「!?」

「――――」


 太い三日月を下半分で切り落とすのに失敗したような曲線を持った、細い棒だった。どう見ても、剣ではない。


「ど、どういうこと!?」


 レイは握りしめたものの齟齬そごに、状況も弁えず素っ頓狂な声を上げる。説明を求めてリォーを見れば、同じく愕然としていた瞳が、逃げるように目を逸らした。

 その反応に、レイの中でまさかと一つの推量が生まれる。


「リォー、これって……」

「…………」


 端麗な横顔は歪められ、返事ない。代わりのように、ハルウが嬉しそうに嘆息した。


「あぁ、やっぱり」


 その恍惚とした声を聞いて、レイの中に芽生えた可能性が確信に変わる。


『王証は持つ者の望みによって形が変わるのよ』


 夜のレテ宮殿で、リォーに告げた自分の言葉が甦る。


「……神弓トクソ、なの?」


 問いながらも、一度そう考えてしまえば、そうとしか思えなくなってしまった。

 曲線は実用的な弓よりも明らかに反りが急で寸胴だが、恐らく弓柄にぎりより下の部分だろう。玉妃宮で見た天剣の刃先のように、やはり水晶を削り出して作られたかのように半透明だ。弦を張るだけでも割れてしまう気がする。

 それに。


(青く、ない)


 天剣の刃先は蒼かったのに対し、今は稜線から顔を出したばかりの月のように、薄っすらと赤く輝いていた。


(……きれい)


 イリニス宮殿で一度か二度見た時には、遠目にすぎたせいか何とも思わなかった。だというのに今は、何故か胸が騒ぐほど惹かれてしまう、気がする。


「レイ」

「っ」


 ハルウの声に、ハッと顔を上げる。

 知らず呆けていたらしい。視線を巡らせれば、部屋にいるほぼ全員がレイを凝視していた。

 剣だと思っていたアドラーティは驚愕に目を見開き、それ以外は状況が飲み込めないながら「王証」という単語に食いついている。その内の、伯爵とリォーだけが無反応で。


「レイ。渡すんじゃないよ」


 足元のヴァルが、ゆっくりとレイとハルウの線上に回り込む。その揺れる尻尾を視界の端に捉えながら、レイはぐっと唇を引き結んだ。


「……でも、カーラと引き換えにはできない」

「そんな小娘と比べていいものじゃないんだよ」

「……ッ」


 ヴァルの言いたいことは分かる。ヴァルにとっても、またプレブラント聖国にとっても、王証よりも価値のあるものはここにはない。

 だがそれは、レイの価値観と同じではない。

 レイは感情的に出かかった反論を飲み込んで、努めて静かに答えた。


「命は、物なんかと比べられるものじゃない」


 分かってほしい、そう願いを込めて紅玉の瞳を見詰める。けれど返されたのは、想像の埒外の言葉だった。


「渡せば、あんたが死ぬとしてもかい?」

「…………死ぬ?」


 レイは、言われたことの意味がよく理解できなかった。単語を繰り返してみても、やはり分からない。

 何故王証の欠片をハルウに渡すだけで、レイが死ぬことになるのか。脈絡も理由も、皆目見当もつかない。

 だが、ヴァルは揺らぐことなく断言した。


「あぁ。ハルウ(コイツ)が王証を手にすれば、レイは死ぬ」

「ハルウ、が……?」


 その強い声に誘われるように、カーラを抱えたままのハルウに視線を戻す。


「!」


 そこにあった虹彩異色の瞳は、冷たい炎が灯ったようにぎらついていた。


「女王の腰巾着が、適当なこと言わないでくれる?」


 欠片も表情を変えることなく人の命を奪ってきたハルウの、それは初めて見せる殺意だった。

 レイは本能的に背筋が震えたが、ヴァルの方は少しも怯む様子はなかった。


「適当なのはあんたの方だろ。あんたが王証それを使えば、どのみちレイは死ぬんだよ」

「僕が、レイを傷付けるわけがないでしょ?」


 二人が、短くも他者の付け込む隙も寄せ付けない会話を交わす。

 だがその後ろで、唯一リォーが声を上げた。


「レイ、お前……」


 珍しく弱気の声はけれど、そこで止まった。だがその目を見れば、言いたいことは嫌でも分かった。カーラとレイ、どちらかの命を天秤にかけなければならないのかと、苦しげに問う。


「リ――」

「早くしないと、右手が疲れるんだけど」


 名を呼ぶよりも先に、ハルウが威圧的にそう言った。

 レイは、振り返りかけた首をぐっと押しとどめて、声の主を睨んだ。


「……分かってる」


 そして決然と歩き出した。神弓を握りしめる手が、自分でも驚くほど汗を掻いているのが分かる。


(渡したら……どうなるんだろう)


 手を放した瞬間死んでしまうのだろうか。けれどハルウはそうではないという。

 今までのハルウだったなら、レイはその言葉を頭から鵜呑みにしただろう。けれど今のハルウは、レイの知っている優しいお兄ちゃんではない。


(……こわい)


 震えが、指の先からびりびりと這い上がる。それでも、どうにかハルウの前まで足を運んだ。冷や汗が顎を伝うのを感じながら、緑と栗色の瞳を見上げる。


「カーラを放して」

「いいよ? 重いしね」


 ハルウの答えは、レイの緊張に反してどこまでも軽かった。カーラの腹を押さえていた左手を、パッと放す。


「きゃっ」

「カーラ!」


 その体が床にぶつかる前に、レイは急いでその身を受け止めた。その横を、黒い影が風のように横切った。ヴァルだ。普段の動きからは想像もできない速さでハルウに跳びかかる。

 この瞬間を待っていたのだろう。だがその牙がハルウの痩躯にかかる前に、小さな黒駆は反対側へと吹き飛ばされた。


「ッ」

「ヴァル!」

「大丈夫。このくらいじゃ死なないよ」


 レイの悲鳴に、ハルウが笑って更に腕を振る。そこから凝縮された嵐が放たれる予兆が見えて、レイは後先考えずにその手に飛びついていた。


「やめて!」

「わっ」


 ハルウの声と同時に風が散り、レイの髪や服がシュパパッと切れる。


「レイ!」

「渡すから! これ以上酷いことしないで!」


 誰かが呼ぶ声が聞こえたけれど、レイにはもうこうするしか思いつかなかった。

 ライルード伯爵家で見たハルウの力に、レイでは到底及ばない。ハルウが傷付けないというのなら、それに望みをかけるしかない。

 何より、これ以上ハルウに誰かを傷付けてほしくなかった。


「お願いだから……!」


 反対の手には血塗れの短剣が握られていることは百も承知で、全身に力を込める。死ぬかもしれないという恐怖とが相まって、体中が緊張していた。その強張った背に、手が触れた。


「っ」


 それは、あまりに優しかった。聖砦での記憶にあるのと寸分違わぬ慈しみが籠っているように感じられて、レイは分かってくれたのかと一縷の望みをもってその目を見上げていた。

 けれど。


「やっと戻ってきてくれた。僕の(ム・)可愛い(ピレイン)お嬢さん(・コリツィ)?」

「…………!」


 見下ろす瞳は、やはり今までの笑顔と何も変わりがなくて。


(……伝わらない)


 体中から希望とともに力が抜けていくのを、レイはどうしても止められなかった。



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