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第69話 三人の人質

 厄介なことになってきた、とリッテラートゥスは思った。

 単身でラティオ侯爵邸に来いという脅迫文を受け取ってのち、リッテラートゥスは迅速かつ柔軟に行動した。

 嫌がる侍従文官ラリスを誠実に口説いて同行させ、帝都の河港リマニから風の彫言を持つ高速船でベクトゥラ川を遡上し、馬車を乗り継いでエルゴン領に入り、ここまでたどり着いたのは、つい先程のことだ。

 この間に休憩が一切なかったものだから、リッテラートゥスはリハ・ネラ城の裏手に回ると、小休止を兼ねて音色おんしょくの神法で盗み聞きから始めることにした。

 それが、この次第である。


(『私のアディ』ってなんだ)


 リッテラートゥスは久しぶりに空を仰いだ。天気が良い。

 本人は否定しているがハィニエル派の筆頭であるファナティクス侯爵がいる時点で、もう既に帰りたいというのが本音だ。そこに更にハィニエル派の刺客と、叔父であるネストル伯爵の間諜までいるなど、揃い踏みが過ぎて食中りした気分である。

 リハ・ネラ城に到着してすぐ、事情を確認する前にラリスに正面玄関から様子を探って来いと行かせたのは早計だった。

 名目としては、令妃ヘレンから、長く臥せっているラティオ侯爵ルードゥスへの見舞いだったのだが、これでは令妃の名前すら危険である。


(……帰るか)


 ここに来るまでもずっとあの手紙の主の目的を考えていたが、やはりこれが目的と考えて間違いないだろう。このけったいな場面を目撃させるためか、或いは間抜けにもあの場に飛び込んで、まんまと関与させようと考えていたのかもしれない。

 が、生粋の面倒臭がりであるリッテラートゥスが、自らこんな場所に飛び込むなどあるわけがない。


(罠があったら引き返せ、てな)


 気になるのは、衣擦れや鋼の音に混ざって、微かに喘鳴のような音が聞こえることだが。


(……よし帰ろう)


 リッテラートゥスは英断した。何なら、ラリスが戻ってこなくても今すぐ帰っても良かった。

 その背に、聞いたことのある単語がかけられなければ。


「まさか、リッテお兄様……!? お兄様、助けてください!」

「…………」


 こんな場所でそんな呼びかけをする者がいるとは奇異なりと、リッテラートゥスは一考した。

 同母妹はまだ幼く、令妃宮からほとんど外出しない。あとは異母妹だけだが、彼女はリッテラートゥスを苦手としている。呼びかけられることはまずないのだが。


(そういえば、山に連れ出してフェルゼリォンの交渉に使うようにと、根回ししたのだったか)


 その後の動向を、そういえば確認していなかったなと、リッテラートゥスは他人事に思った。竜蜥蜴グアンロンに食われたのか、無事山から連れ帰ったのか。

 などと考えている間にも、呼び声はしつこく続く。


「お兄様!? リッテお兄様ったら!」


 仕方なく、リッテラートゥスはいい加減諦めて振り向いた。そして、目を疑った。


「……いつの間に奇術師に弟子入りしたんだ?」


 第一皇女カーランシェが、宙に浮いていた。丁度城の三階の窓とほぼ同じほどの高度だ。

 神法で空を飛ぶことは可能だが、あれは気流を多少操っているに過ぎない。要領は盗み聞きと同じだ。

 だからこそ、空中に留まって上下しないというのは、熟練の神法士にも高度な技術だったはずだ。

 だがそもそも、カーランシェには神法士の素質がない。


「そんなわけないじゃありませんの!?」


 宙に留まったまま、カーランシェが体を二つに折って否定する。どうやら、期待したほど面白い背景はなさそうだ。


「って、そんなのいいから助けて――ッ」

「……るさいなぁ。やっと静かになったと思ったら、何なの?」


 更に暴れようとしたカーランシェの後ろから、男がそんな風に言って首を傾げた。どうやら、カーランシェの腹を腕に抱えて拘束しているらしい。風に舞い上がる髪とドレスで見えなかった。


「誰? まさか、友達?」

「だからそんなわけないですって!?」


 本気で聞いたのだが、カーランシェが泣きそうになりながら再び否定した。

 いつも思うのだが、要求があるのなら曖昧な言い方をしないで、望む行動だけを明確に指示してほしい。慮るとか察するということを期待するのは本当にやめて頂きたい。

 致し方ないので、リッテラートゥスはいつも通り要望を直接尋ねることにした。


「なら、何をしてほしいんだ?」

「だからっ、この男からわたくしを――」

「誰かと思えば、第二皇子?」


 異母妹が必死で応える途中で、男が今更のように口を挟んだ。初夏の森のような緑の髪に、同色の瞳と栗色の瞳という虹彩異色オッドアイの優男だ。


「貴下こそ誰だ?」

「丁度いい。お前も一緒に連れて行こう」


 リッテラートゥスの丁寧な誰何はけれど、軽やかに無視された。しかも無礼を働いた上に、ついでに拉致されるらしい。困ったものだ。


「面倒臭そうだから遠慮しよう――」


 リッテラートゥスは丁重にお断りした。が、言い切る前に体が地上から持ち上がって、次の瞬間には吹き飛ばされていた。


「ッ!?」


 まるで突然嵐の中に放り込まれたみたいに目が回る。と思ったら次にはガシャンッと背中に強い衝撃が走り、けたたましい破砕音が耳元でたて続いた。口の中で風の神に枕詞を唱えるが、風鳳ふうほうの神言に辿り着く前にどこかに落下した。


「ったぁ……!」


 落下地点には今し方自分の体で壊したらしい欠片が無数に散らばっていたようで、強打した痛みに加えて何かがざくざくと突き刺さる。痛いどころの騒ぎではない。

 どの部屋の窓を突き破ったのかは大方予想がついていたが、異母兄のように無駄に体裁や格好を繕う気になど、おさおさならなかった。

 はー痛い痛いと、いつまでも床の上で体を丸める。しかしそれも、新たな声の呼び掛けに中断せねばならなかった。



「……リッテラートゥス?」



 訝しむ声に、嫌々ながらちらりと瞼を押し上げる。すぐ頭上から、口元に擦れたような血をつけた異母兄アドラーティが見下ろしていた。

 気になることは幾つかあったが、リッテラートゥスはひとまず礼節を重んじた。


「あぁ、どうも。お久しぶりです、兄上」


 よっこいしょ、と上半身を起こす。その悠長な仕草に、アドラーティは苦笑と困惑が半々という顔で呆れた。


「お前にしては、随分派手で時機を弁えない登場だな」

「それには、小生も同意しますよ。……ってて」


 あぁ痛いと嘆きながら、改めて周囲を見回す。

 砕け散った嵌め殺しの窓硝子の向こうにいたのは、アドラーティと、彼に支えられた侍従武官。そのすぐ傍には、床に膝をつくプレブラント聖国の第二王女と黒猫。その先には、それを背に守るように抜剣するフェルゼリォン。

 これだけでも十分関わりたくない面子なのだが、その向こうに更にファナティクス侯爵を拘束した四十歳過ぎの男。入口には杖をついたラティオ侯爵と、その周りに衛兵隊に拘束された見知らぬ男女が一人ずつ。

 いつもなら、回れ右して帰る顔ぶれである。ラティオ侯爵が、その横を通らせてくれるのなら、だが。


(まぁ、無理だろうけど)


 さてどうしたものかと思案しながら、リッテラートゥスは服についた破片を払い落としながらその場に立ち上がった。

 途端、衛兵四人がリッテラートゥスを白刃で取り囲んだ。


「丁度良い所に来たものだ」


 指示を出したラティオ侯爵が、リッテラートゥスを見て静かに笑う。まぁこの状況ではそうなるよなと思いながら、リッテラートゥスはとりあえず両手を上げた。


「来たくはなかったのですがねぇ」


 自分の意志ではないということを説明するために口を開く。できればこの中に手紙の主がいるかどうかをまず確かめたかったのだが、リッテラートゥスの用事は後回しにされるようだ。

 ラティオ侯爵が我が物顔で話を進める。


「どこまで知ったかは、この際聞くまい」

「いや、是非とも聞いてください」

「お前に選択権をやろう。ここで拘束されるか、アドラーティと戦うか」

「えっ?」

「何を考えて……!?」


 脈絡のない申し出に、拘束された女とフェルゼリォンとが同時に声を上げる。

 当のリッテラートゥスは、帰りたいんだけど、と思いながら頭を掻いた。


「それで、勝った方は貴下直々に手を下されるとかですか?」

「望むなら」


 ラティオ侯爵が、笑いもせず応える。茶化して逃げたかったが、どうやら本気らしい。

 ラティオ家からすれば、兄と弟のどちらが皇位を継ごうとも繁栄は約束されている。その兄に面倒な事情があるのなら、邪魔な第二皇子と殺し合って相打ちになれば至上、というところだろう。

 アドラーティが勝っても、リッテラートゥスに殺されたとしてルードゥスが処分し、リッテラートゥスが勝ったなら敵討ちという名目で殺される。後の始末など、歴戦のルードゥスには朝飯前だろう。


「ね、ねぇ、どういうことなの? 何で第二皇子どころか、皇太子までそんな話になるの?」


 この部屋の中で、唯一互いの家事情に詳しくない王女が、目の前のフェルゼリォンに小さく戸惑った問いを投げる。


「……皇太子を殺した者が、皇位を継げる道理はないってことだろ」

「そんな……そんなことのためだけに、実の孫を殺そうっていうのっ?」


 フェルゼリォンの簡潔な答えに、王女が信じられないというように声を上げる。どうやら、聖国の王女は随分平和に生きてきたらしい。


(あの脅迫文は、このためだったか)


 やはりのこのこ出向いて失敗したかと、内心で唸る。差出人が誰かはまだ特定できないが、目的は見えてきた。

 リッテラートゥスは剣はからきしで、格好をつけるためだけの帯剣すらしない。重くて邪魔なだけだからだ。つまり丸腰である。手持ちは初心者並みの神法くらいだ。

 ラティオ侯爵が剣を貸してくれる公明正大な人物と期待するべきか、とリッテラートゥスが悩んでいると、その隣に立ったアドラーティが険しい顔で祖父を睨んでいた。


「この人数に見られて、なお隠し通せるとお思いですか」

「うち半数はこれに同意する。残り半数は……沈黙を選ぶだろう」

「……下種が」

「戦術と言うのだ」


 堂々と共謀と隠蔽を宣言した祖父に、アドラーティの顔色がどんどん悪化する。

 そしてそれは、確かに否定できないものだった。

 身内は言わずもがな、プレブラント聖国の王女だとて、巻き込まれただけの話に正義だの道徳だのを持ち出す必要はないだろう。黙っていれば、無事に帰国できるのだから。


(とりあえず、滅多刺しにされる可能性は減ったと喜ぶべきか)


 アドラーティの性格なら、一騎打ちで負かした相手を無駄にむごたらしく辱めるようなことはしない。

 問題は、アドラーティの出方なのだが。


(これは……軽蔑しきっているな)


 ちらりと横目で見た異母兄の顔は、およそ宮廷では見せない怒気の充満した形相だった。もあろう。

 しかし二人が動き出す前に、悲鳴のように叫ぶ者がいた。


「嫌よ!」


 女だ。限界まで見開いた目を更に血走らせて、ラティオ侯爵を睨んでいる。


「そんなの嫌よ! 妹の子供が皇帝になるなんて! それじゃあ意味がないじゃない!」

「お前は黙っていろ!」


 気が触れたように喚き散らす女に、ラティオ侯爵が苛立たしげに怒鳴り返す。

 二人の反応に、リッテラートゥスの中の邪推はほぼ確信に変わったが、聞きたくなかったというのが本音ではあった。


(小生は、小さくて可愛い婚約者殿と結婚できさえすればそれでいいんだけどな)


 理想はいつも高く掲げないのが信条のリッテラートゥスである。が、今は誰も聞いてはくれそうになかった。


「お父様! アディが皇太子なのよ! 私の子供が!」

「テオドラ! 黙らんか!」

「嫌よ嫌! レリアの子供が皇太子になるくらいなら……他の子供がなればいいのよ!」

「ふざけたことをぬかすな!」


 絹を裂くような絶叫に、ついにラティオ侯爵が手に持った杖を振り上げた。金の石突が女――テオドラの脳天に振り下ろされる。


「っダメ!」

「レイ!」


 その寸前、何故か王女が予想外の速さで飛び出した。不合理にもテオドラを衛兵から奪うようにして庇う。その肩に、杖の先が食い込んだ。


「ッ」

「きゃあっ」


 テオドラを抱き締めたまま、王女が床に倒れ込む。だがそれを見下ろすラティオ侯爵の顔に焦りはなかった。自分の振る舞いを邪魔する虫けらのように睨む。どうやら、王女だとは知らないらしい。

 だが、そんなことは関係なかった。


「……正気じゃない」


 刺客の男に剣先を向けながらも実の祖父を睨むフェルゼリォンの青眼には、激しい敵意が湧いていた。足元の黒猫も、静かに牙を剥いて毛を逆立てている。

 どうやら、逆鱗に触れたようだ。


(反対派は……たった五人、か)


 仕立てられた決闘を拒むのは、この三兄弟に、侍従武官と王女だけ。対して賛成派には、州軍がついている。戦力では比較するのも阿呆らしい。

 そしてそんなことは向こうも先刻承知だろう。ラティオ侯爵は、浅慮な若者たちを嘲るように鋭い目を更に険しくした。


「正気でないのはお前たちの方だ。確実に掴める力を、みすみす手放すなど」


 そして、これをここぞとばかりに後押しする者までいた。


「おお、お労しいフェルゼリォン殿下……!」


 ずっと拘束されたままのファナティクス侯爵だ。少しも苦しくなさそうな男の腕の中で、大袈裟なまでに嘆いている。


「しかし、これは運命です。神々のお導きです!」

「お前は……こんな時にまで……!」

「いいえいいえ! 言わせて頂きますよ。殿下は、どうあっても皇帝にならなければならない宿命なのですから!」

「…………ッ」


 リォーが、これ以上の議論は不可能とばかりに口を噤む。

 だがリッテラートゥスには、これが鼻をつまみたくなるほどに臭い芝居にしか見えなかった。これはどう考えても、ファナティクス侯爵にとって願ってもない流れだ。フェルゼリオンはこの兄弟のいがみ合いを、傍観者として毅然と嘆いていればいいだけなのだから。

 この茶番を眺めながら、リッテラートゥスは当てつけのように呆れと本音と意図の混ざった一言を漏らすことにした。


「貴下の望んだ通り、というわけですね」

「……なに?」


 これに、フェルゼリォンがぎろりと反応した。ファナティクス侯爵が面白いように慌てる。


「なっ、なにを仰る!」


 ハィニエル派が最も恐れるものは、フェルゼリォンからの不審だ。ファナティクス侯爵は、拘束された時よりも何倍もの脂汗を流して言葉を繰り出した。


「わ、私はただ殿下の御為を思って、最も良い選択を――」


 だがそれが長々と続く前に、ふわふわと夢のような声が遮った。


「……そうよ。これは、運命なのよ」


 テオドラだ。

 自分をひっしと守る王女の腰辺りを凝視して、熱に浮かされたように喋り続ける。


「レリアの子供の目が青くなかったのは、神様がそうしろとお示し下さったからよ。だから、私のしたことは正しいの。私の子供が皇帝にならなきゃいけないのよ……!」


 まるで子供のようなこじつけを口にしながら、王女の腰から何かを引き抜く。そして気味の悪い笑顔すら浮かべて、それを王女の喉元にあてがった。


「え? ちょっ……」


 王女が、意図を飲み込めずに目を白黒させる。それも致し方ないことだと、リッテラートゥスも思った。助けたはずの相手が、自分の短剣を奪って殺そうとしてくるのだから。


「どこまで、愚かなんだ……!」

「伯母上! やめろ!」


 アドラーティの血を吐くような悪罵を、フェルゼリォンの制止が掻き消す。

 だがそれに反応したのは、奇しくも女ではなく、それを見下ろしていたラティオ侯爵の方だった。


「その、剣……」


 王女が持つ、護身用に作られた装飾の少ない短剣。しかしその柄頭には、素通りできない紋章が刻まれていた。

 中央に描かれた赤いたてがみを持つ神獣炎駒(えんく)と、その背で交わる弓と剣の意匠。

 炎駒とは、天上から遣わされた英雄神が騎乗していた伝説の神獣のことで、弓はユノーシェル、剣はサトゥヌスを表す。

 ユノーシェルは、サトゥヌスがプレブラント聖国を去った後も、この国章を変えることを決して許さなかったのだとか。

 だがそんな美談も、今は何の役にも立たない。


「まさか、その小娘……いや――」


 気付いたラティオ侯爵が、動揺とともに衛兵隊に一歩下がるように目で促す。

 それを、テオドラは勝利ととった。


「ほら、ほおら! 神様はいつだって私のお味方なのよ! この子を傷付けたくなかったら、私のアディを――」


 勝ち誇って高らかに笑いあげる。

 窓硝子が砕けたままの開放的な壁が、ゴガッと鈍い音を立てて外へと崩れ落ちたのは、その時だった。

 ヒュオゥッと、初夏にしては寒々しい風が勢いよく吹き込む。


「え?」


 それに全員が目を奪われた、次には、


「…………え?」


 短剣を持っていたテオドラの腕の肘から先が、ごとり、と床に落ちた。



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