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第68話 三人の乱入者

 ぽたり、ぽたりと血が滴る。

 それをじっくりと見つめてから、血塗れの短剣を握った男が悠然と入り口に立つリォーを振り向いた。


「これは、第三皇子フェルゼリォン殿下。随分と、ご悠長ゆっくりなご到着でございました」


 それはどう聞いても明らかな挑発だったが、男の顔は少しも愉快げではなかった。

 淡々とした栗色の双眸、覇気のない目許、四十代半ばという外見を更に老けさせて見せる、どことなく疲れたような表情。特徴はなく凡庸で、何事もなく別れればすぐにでも忘れてしまいそうな男だ。

 けれどたった今人を刺したことに対する動揺や後悔は、毫もない。


「……誰だ、貴様」


 リォーは、剣の柄に掌を当てながら、低い声で誰何した。

 部屋の奥では、侍従武官で大叔父でもあるマクシムを抱き留めたアドラーティが、険しい表情で下がれと示している。だが男の目的がアドラーティならば、尚更退くことは出来ない。

 さぁどう出るか、とリォーは利き足に力を込める。だが意外にも、男はリォーに向き直って律儀にも回答しようとした。


「申し遅れました。私は――」

「……もう、やだ……っ」


 だがそれを、背後で零された掠れた声が遮った。今にも泣きそうなその声は、レイだ。

 また空気を読まずに、とリォーが咎めるより先に、レイがその脇を駆け抜けた。


「「ッレイ!」」


 リォーとヴァルの声が重なる。すれ違う一瞬に聞こえたのは、風の神への枕詞だった。まさかと追いかけるリォーの前で、男もまたレイに向かって短剣を動かす。


(間に合わねぇ!)


 リォーもまた剣を抜きざま、二人の間を目指す。しかしレイは、あろうことか男に背を向けてマクシムの傍にしゃがみ込んだ。


「何を……!」

「希うは慈愛の息吹、全てを癒せ、光霞こうか慰撫いぶ!」


 警戒するアドラーティも無視して、必要もない大音声で治癒の神法を唱える。まるで、人を救うこと以外、何も聞きたくないし見たくもないとでも訴えるように。


「レイ……」


 こんな状況だというのに、知らず声が漏れていた。一瞬生じた静寂に、マクシムの呻き声が上がる。


「……っ」

「マクシム!」


 アドラーティが、詰めていた息を吐いて呼び掛ける。レイの背中に隠れて見えないが、その反応から、出血は止まったようだ。


「もうちょっと……!」


 マクシムの腹に翳した手は動かさぬまま、レイがうっすらと汗を滲ませる。だがその悠長で幼稚な主張を、全ての人間が受け入れてくれるわけもない。


「……御免」


 レイの背を冷たく見下ろしていた男が、ゆうらりと動いた。中途半端な位置で止まっていたリォーが、慌てて駆け出す。


「くそっ」


 リォーの武器の方が間合いは長い。だが空間を制限された室内では、男の短剣の方が幾分素早いか。その刃がレイのうなじに届く、寸前。



「おやめなさい!」



 開け放たれたままの扉の向こうから、新たな声が割り込んできた。誰もが一瞬、動きを止める。

 リォーは意外な思いで、現れた者の名を呼んでいた。


「ファナティクス侯爵……?」


 そこに立っていたのは、ひょろりと細い体格と目をした、皺深い白髪交じりの老人――アドラーティとカーランシェを探し回るリォーを追いかけもしなかったファナティクス侯爵だった。

 珍しく、リォーの前では見せない険しい顔で室内を睨んでいる。


「これは……一体どうしたことですか」


 リォーから順繰りに見渡し、男の短剣に目を留める。今にもレイの首筋を貫こうとしていた男は、その視線を嫌がるように一歩足を引いた。


「名にし負う帝国内有数の神職者が相手とは……少々分が悪い」

「なに?」


 それは、リォーには幾分違和感を覚える警戒だった。

 確かにファナティクス侯爵は幾つかの神殿で名誉職を賜る高位神職者だが、神法が得手と聞いたことはない。暗殺者のような顔をした男が身を退くほどの神法の使い手ではないはずだ。

 と、考えさせることが目的だったのかもしれない。


「だが、こちらにも使命がある」

「!」

「おやめなさい!」


 男が再び短剣を大きく振りかざす。そこにリォーが反応するよりも早く、ファナティクス侯爵が男の前にその身を滑り込ませた。血濡れの刃物に怯むことなく、男の手元を両手で掴み上げる。

 だが成功したかに思えたのは一瞬であった。


「ッ」

「!?」


 、男がファナティクス侯爵の手首を逆に捻り上げて、その首に短剣を当てることを許してしまった。リォーが手を出す間もない。


「くっ……」


 ファナティクス侯爵が無念そうに呻きを上げるが、リォーは状況を打開させる術を考えるよりも先に頭が痛くなってしまった。信心深いことだけには一目置いていたというのに、こんなにも無謀なことをするとは思わなかった。これならば使命感など忘れて隅で怯えてくれていた方が何倍もマシだ。


「馬鹿が……」

「え……?」


 リォーの呆れの声に、刺されると身構えていたレイも困惑げに背後で起きた現状を見上げる。

 その膝元でも、ほぼ完全に近く治癒がされたマクシムが、失血によるふらつきを堪えて主を押し戻していた。


「殿下……い、今のうちに、早く……」

「……それは出来ない」


 立ち上がる侍従武官に手を貸しながらも、アドラーティが首を横に振る。マクシムの血が付いたのか、手や口元が赤く掠れている。

 そこに、更なる声がかかった。


「その通りです! フェルゼリォン殿下、どうか私のことは気にせず、兄上とともにお逃げください!」


 首に刃を当てられたままのファナティクス侯爵だ。皺だらけの顔中に冷や汗を掻きながら、リォーに向かって必死に呼び掛ける。

 その様子に、リォーは内心でファナティクス侯爵の人物像を見過っていたのかと自問した。どうにも、今までの行動や性格と、今のこの状況とが一致しない。

 しかしその答えが出ることはなかった。


「未来の皇帝が一番の忠臣を置いて逃げるというのか。見物だな」


 男が、体面も矜持も瓦解するなと言わんばかりに口端を吊り上げる。

 それが完全な事実かどうかはさておき、今ここでアドラーティがファナティクス侯爵を見捨てて逃げれば、糾弾の口実えさを与えることには違いなかった。これが平時であれば、今までのファナティクス侯爵ならここぞとばかりにアドラーティを皇帝としての資格なしとして弾劾し、リォーを押し上げようとしただろう。

 もしや男の狙いはそれかと、リォーがその正体に当たりをつけた時だった。


「どうやら無事のようだが、この有り様はなんだ」

「!」


 ぞろぞろと護衛を引き連れて、杖をついた六十歳過ぎの老人が現れた。リォーたちが到着してまず真っ先に挨拶すべきだったリハ・ネラ城の主、ラティオ侯爵ルードゥスだ。

 ルードゥスは年齢に見合わぬ鷹のような目付きで室内をめ回すと、最後に男に視線を留めて、装飾過多な杖の先をトンッと打ち鳴らした。


「伯爵殿。この暴挙の理由を伺おうか」


 しかしこの威圧的な糾弾にも、伯爵と呼ばれた男は少しも怯むことはなかった。どころか、妙なことを言った。


「閣下には、ご賛同頂けるものと思ったのですが」

「……なに?」

「この家には今、都合の良いことに、フィデス家の狗が入り込んでいます。今ここで、最後の悪足掻きとして皇太子殿下を人質に取ったとしたら、どうでしょう? 極限状態の素人では、誤って手が滑ってしまうということもあるかもしれません。そうは、思いませんか?」

「は……? なんだそれ……」


 意味が分からない、とリォーは思った。

 何故ここで突然フィデス家が出てくるのか。フィデス侯爵家が常に間者を送っているのは承知しているが、それが今この場にいて、何故アドラーティを人質に取ることが賛同されることなのか。

 しかしルードゥスが驚いたような様子を見せたのは一瞬で、次には背後にいた州軍の衛兵隊にこう命じていた。


「……連れてこい」


(どういうことだ?)


 いまいち事態が呑み込めない。ルードゥスの口ぶりから、暗殺者らしいこの男は客人としてラティオ侯爵家に入ったらしい。それ自体も不可解だが、あの疑り深いルードゥスが言われるままに動いていることも納得いかない。

 だが今優先すべきは、謎解きではない。リォーは、ファナティクス侯爵が捕まるどさくさで背に庇ったレイに、小声で呼びかけた。


(レイ。今のうちに兄上たちと窓から逃げろ)

(窓って……でもここ三階だよ?)

(それに窓も全部嵌め殺しだ)


 人間たちがごちゃごちゃ騒いでいる間に室内を確認し終わったらしいヴァルが、背後からそっと口を挟む。どうやら、祖父は喜ばしい報を持ってきた可愛い孫を監禁していたらしい。


(壊していい。二人なら連れて飛べるだろ)


 腹立たしいと思いながら、勝手に破壊許可を出す。

 人数だけなら、山中の崖から飛び降りた時と同じだ。レイの風鳳ふうほうの神法で外に出れば、馬車を奪うなりなんなり、脱出の術はいくらでもある。


(リォーはどうするの?)

(俺は――)


 風靴ウォラーレでどうとでもする、と答える前に、ここからでも分かるキンキン声が廊下から響いてきた。


「あぁ、アディ! 私のアディ! お願い、お父様を説得してちょうだい! 私は無実だと、あなたの口から――」


 そう喚きながら現れたのは、一人だというのに姦しい四十歳過ぎの女だった。

 衛兵隊に両脇から拘束されて歩かされてなお騒いでいたが、リォーを見て愕然と口を閉じた。


「伯母上が、なぜ……?」


 それは数年振りに会う、伯母のテオドラだった。栗色の髪も着衣も随分乱れ、頬には涙の跡まで見えるが、見間違えるはずもない。母レリアよりも頬がこけ、眉がつり上がっているが、それ以外はよく似ている。

 しかしテオドラの驚きは、リォーの比ではなかった。


「ど、どうしてその子がいるの……!?」


 リォーを指さし、驚愕に目を見開いている。そこに、もう一人同様にして連行されてきた優男が顔を出した。その顔を見て、テオドラが狂ったように身を乗り出した。


「ファビアン! 殺して! その子を殺して!」

「こ、殺すって、そんなことできるわけ……っ」

「先に第三皇子を殺そうって言ったじゃない!」


 髪を振り乱して手を伸ばすテオドラに、ファビアンと呼ばれた優男が顔を引きつらせて身を引く。引き留める衛兵隊がいなければ、今にも引っ掴んでリォーの前に押し出しそうな勢いだ。

 が、その発言以前に、リォーには気になることがあった。


「誰だ、こいつ……?」


 誰ともなく問いかける。

 答えは、意外にも眼前でファナティクス侯爵を拘束したままの男からもたらされた。


「その男は、ネストル伯爵の手の者ですよ。皇太子を殺して、その罪を殿下に被せるつもりだったのです」

「兄上を狙った刺客ってことか?」


 刺客はお前だろうがと言いたいのは一先ず脇に置き、ファビアンを睨み据える。掴みどころのない眼前の男に比べ、ファビアンは隙だらけで、どう見ても武芸者には見えない。これで演技なら、大したものだが。


「お、お前こそ、皇太子を殺しにきたんじゃないのか? あれだ、ハィニエル派だ、そうだろう!」


 全員の視線を受け、ファビアンがしどろもどろに叫ぶ。お前こそ、と言い返す時点でお粗末この上ないが、リォーにはそれだけ分かれば十分だった。


「どちらにしろ、兄上を殺しにきた連中クズってことに変わりはないってことだろ」


 どいつもこいつもと歯噛みしながら、改めて彫言の剣(レスティンギトゥル)を構える。

 だが本当の敵は、伯爵でもファビアンでも、ルードゥスでもなかった。


「あなたが……あなたがすべて悪いのよ!」


 無視されていたテオドラが、顔を真っ赤にしてリォーをギッと睨んだ。


「そんな顔で……髪色で! あなたさえいなければ、私のアディはこんなことを言い出しはしなかったのに!」

「ッ」


 興奮して赤い目尻に涙すら滲ませるテオドラに、リォーは事情も分からないながら息を飲んだ。

 それは、今までリォーが何度となく自分自身に問い続けた言葉だったからだ。


(俺が、こんな髪の色じゃなければ……)


 アドラーティは、何も苦しまずに済んだのではないか、と。

 ハィニエル派は騒ぎださず、誰も命を狙われず、無用な権力闘争も分裂も生まなかったのではないかと。


(俺が、いなければ……)


 そして、


「聞くな、フェル!」


 アドラーティが、続くその先を知っていたかのように声を張り上げる。

 けれどその言葉も空しく、女の声は否応なくリォーの耳に突き刺さった。


「あなたが死ねばいいのよ!」

「――――!」


 テオドラが、その指先で心臓を貫いてやるとでもいう気迫でリォーを指差した。その剥き出しにされた本音に堪えきれず、こんな状況だというのに剣先が震えて隙が生まれる。

 そこに、


 ガシャン!


 耳をつんざく破砕音を上げて、何かが飛び込んできた。



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