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第55話 ハルウの凶行

 ズッ……という鈍い音を上げながら、ハルウの右手が引かれる。沈黙が支配した廊下に、その音はよく響いた。

 引き抜かれた鋏の先から、ぽたり、ぽたりと鮮血が滴り落ちる。それを追うように、男の体がゆっくりとその場に頽れた。


「なん……?」


 レイは、すぐには事態が飲み込めなかった。何故男は突然倒れたのか。ハルウが何をしたのか。ハルウが握りしめている赤いものは何なのか。


(……血?)


 認めたくない、けれどそれは、この数日で嫌になるほど見慣れた色であった。


「それ……刺したの?」


 知らず震える声で問いかける。違うよと、いつもの締まりのない笑顔で否定してほしいと願いながら。

 石床に転がった男を見下ろしていたハルウは、確かに顔を上げていつものように無邪気に首を傾げた。

 そして。


「? 見た通りだよ。こいつが、僕の邪魔をするから」

「邪魔って……!」

「それよりさ、この法術、壊してよ。外に出れば、もう出来るでしょ?」


 声を荒らげるレイなど見えないように、ハルウが当たり前の顔で要求する。自分を閉じ込める、不可視の結界を壊せと。

 けれど、レイにそんなことが出来るはずもない。

 この扉を抜けて屋敷の外へ出れば、神法が使える。法術を解除するか、法術符そのものを破壊することは、恐らく可能だ。だが、使者の男はそれをまだ許していない。

 レイは、話し合って、互いに理解し合って、先へと進みたいのだ。ハルウの要望に従うことは、それを裏切ることだ。


「……出来ないよ。だって、まだ了承をもらえてもないのに」

「了承って」


 ハルウが、うっそりと失笑した。たっぷり血の付着した鋏を立て、見せつけるように血を振る。


「坊主。その男を外に運べ」


 レイがハルウの仕草に圧倒されている間に、ヴァルがリォーに指示を出す。


「……分かった」

「ど、どういうことですの? お兄様、あの方どうして……」


 リォーの了解に、背中に張り付いていたカーラが心細げに問いを上げる。思えば、カーラはハルウと直接会話を交わしたことがまだなかった。味方と思っていた者の突然の凶行に、怯えるのも無理はない。


「カーラ。先に外に出てろ」

「は、はい」


 カーラを更に奥に見える扉に向かわせてから、リォーが男の容態を簡単に確認する。脇に手を入れて丁寧に引きずっていくのを、ハルウは最早一瞥もくれなかった。

 ただ眼前のレイを見詰めて、笑う。いつもと全く同じ顔で。


「レイ。壊してよ。じゃないと、この先も僕と一緒に行けないよ? それで、レイは平気なの? 僕がいなくてさ」

「……っ」


 レイは、すぐには言葉が出なかった。

 ハルウが一緒に行動しないということが簡単に想像できないくらい、当たり前に傍にいた。平気かと問われても、考えたことがないのだから分からない。

 ただ、身に染みて知っていることがある。

 レイが落ち込んだ時、叱咤するのがヴァルで、励ますのがハルウの役回りだったということだ。


『泣くぐらいなら、必要とされるように努力しな』


 九年前もそうだった。

 記憶も曖昧なうちに帝国での和平記念式典は終わり、そのまま聖砦に戻されたレイは、それから何か月もめそめそと泣いて過ごした。

 自分が何か大きな失敗をしたせいだと。ついに母に見限られたのだと。

 セレニエルは心配し、ヴァルは呆れた。

 ヴァルの言葉はいつでも厳しい上に正論で、立ち直った後にはレイを奮い立たせる言葉になった。勉強を好きになることはなかったが、逃げる回数は減った。

 だが戻された直後は、その言葉を素直に受け止めるにはレイは傷付きすぎていた。

 そんなレイを、そっと抱きしめて慰めてくれたのがハルウだった。


『僕がいるよ。君は要らない子なんかじゃない。僕は君じゃなきゃダメなんだから』


 ハルウは毎日のようにそうレイを励ました。そのせいか、あの頃はいつもハルウにくっついていた。自分が自分自身を肯定できないから、自分を肯定してくれる他者の言葉に飢えていたのだ。

 あの時期にレイを支えてくれたのは、間違いなくハルウだった。

 ハルウの励ましがなければ、子供のレイはいつまでも自分が作った思考の迷路から出られず泣き続けていただろう。いじけて、悪い方にばかり考え、もう一度頑張ろうとはきっと思えなかった。

 そのハルウがいなくて平気なのかと、ハルウは言う。


(平気……じゃ、ない)


 だがそのためだけに、無抵抗の相手に無体を働くなど、許されることではない。

 そう、強く言わなければならないのに、口から出たのはしどろもどろな声だった。


「でも、だって、こんな……」

「そう」


 と、ハルウはレイの答えが出るのも待たずに笑った。愚図愚図と決断できずにいる子供を、いい加減見限るように。


「じゃあ、自分で出るよ。こんな不快なところ、もう一秒だって御免なんだ」


 言いながら、ハルウは鋏を捨てると、おもむろに腕輪に手を伸ばした。ハルウの左目のような緑色をした宝石が嵌められた、年代物の腕輪に。


「レイ、下がりな!」

「えっ?」


 刹那、ヴァルが叫びながらレイに飛びかかった。

 それにも一瞥もくれず、ハルウが腕輪を外した腕を無造作に振る。

 すると、冗談のような爆発が起きた。


「ッッ!?」


 ヴァルに襟首を掴まれて引き倒されていた体が、爆風に煽られてあっさり扉の外に弾き出される。

 何が何だか分からないままに瓦礫が崩壊するような轟音がどよもし、砂塵が巻き上がり、視覚も聴覚も塞がれた。無数の礫が全身に降りかかり、状況把握もままならないまま体を小さくする。


「レイ!」

「おねえさま!?」


 先に外に出ていたリォーとカーラの声が轟音を抜って届く。だがレイには聞こえていなかった。


「何が……何で!?」


 悲鳴と共に、問いにもなっていない問いが次々溢れる。しかし求める声は返らなかった。


「ねえ! ハルウ! 何で!? 何でこんな……!」

「レイ! 神法だ! 防御しな!」

「神法って、でもここは……!」


 言いかけて、薄目を開けた向こうがいやに眩しいことに気付く。


(明るい……?)


 白煙が渦巻く中で目を凝らす。

 崩れた天井の向こうに、青空が見えた。

 その下で、まるで新しい人生の門出を喜ぶように、ハルウが恍惚の色を浮かべていた。


「あぁ、良い天気だ。今日という良き日を言祝ぐようだね」


 うっそりと呟くその足元に広がるのは、夥しい瓦礫の山と砂塵、歪んだ鉄扉、そして埃を被ったレイとヴァル。クァドラーの姿は見えない。

 しかしハルウの色違いの目は、そんなものは見てはいなかった。見詰めるのは、遥か先。


「……あれか」


 ハルウが、確信を持って呟く。

 視線の先にあったのは、鬱蒼と生い茂る山林の間を抜ける下り坂。その先、枝葉の間に少しだけ見える古びた建物だった。


「監視していると思ったよ」


 呟いて、瓦礫の山からひらりと飛び降りる。その身のこなしは、クラスペダの山中で最後尾をあくせく歩いていた時とはまるで違う。別人のように軽やかだ。


「ハルウ、待って!」


 石壁が崩れる音がやっと収まった中を、レイは瓦礫を掻き分けて立ち上がった。白煙が緩やかな風に攫われる向こうにみるみる遠ざかるハルウの背に向かって、何度も叫ぶ。だがその背は、まるでレイなど存在しないかのように何の反応も返さない。


「ハルウ!」

「レイ、行くんじゃないよ!」


 追いすがるように走りだそうとしたレイを、ヴァルの鋭い制止が引き留めた。


「でも、ハルウが――!」


 バッと足元を振り向く。そこに見えたものに、レイはそれ以上の言葉を飲み込んだ。


「クァドさん!」


 爆風に吹き飛ばされた石壁の破片の下に、見覚えのある服の裾が見えた。クァドラーが着ていたドレスだ。


「クァドさん! 返事して!」


 レイは蒼白になってその上の瓦礫をどかした。鋭利に割れた石の断面が、持ち上げる手に食い込んで幾つも筋を作る。だが痛いと思う心の余裕はなかった。

 何故ハルウが突然あんな凶行に出たのかを一つも理解できないレイには、ただただ罪悪感しかなかった。自分のせいで、親切にしてくれたクァドラーまで傷つけた。


「クァドさ――」


 一際大きな瓦礫を持ち上げる。その下に、頭を庇うように交差された両腕が現れた。砂塵にまみれて白く、あちこちに深い裂傷が見えた。


「泣くな」

「っ」


 止まってしまった手元から、瓦礫の重さが奪われる。リォーだ。下のクァドラーに影響がないように慎重に、だが迅速に瓦礫を退けていく。


「レイ、治癒を」

「っ、うん!」


 まだ気持ちの整理がつかないレイに、リォーが手を止めずに指示する。水と風の神への枕詞を唱え終わる頃には、リォーがすっかりクァドラーを救い出していた。

 息はある。


「希うは慈愛の息吹、全てを癒せ、光霞こうか慰撫いぶ


 囁きのような声に合わせて、全身を巡る血がほんのりと温もり始めた。それがレイの指先を通って、クァドラーの肌に移る。

 体内の水と気の流れを整え、速め、自然治癒力を底上げする。みるみるうちに傷口にかさぶたが張り、血が止まる。


「あたた、かい……?」


 瓦礫を避けた草地の上に寝かされたクァドラーが、不思議そうにそう囁く。薄い瞼の下から栗色の瞳が現れて、レイは破裂寸前だった肺から一気に息を吐き出した。


「よかっ――」

「おねえさま! こちらもお願いします!」

「!」


 少し離れた所から、カーラの声だ。レイは弾かれたように瓦礫の山を飛び越えた。


「この方にも治癒を」


 辿り着いたレイを、カーラが泣きそうな顔で見上げる。座り込んだその膝の先には、腹部を真っ赤に染めた使者の男が寝かされていた。


「離れてて」


 まだ微かに治癒の気配が残っている手を、男の腹にそっと重ねる。鉄錆臭い血の匂いが、油然と鼻につく。

 手のひらの下で、どくどくといまだに鮮血が溢れ続けているような脈動が上がる。それだけ、傷が深いのだ。


(ハルウ……何で……っ)


 ライルード伯爵家と、どんな因縁があったというのだろうか。クァドラーと兄弟でも従兄妹でもないのなら、この屋敷のことも知らなかったのなら、一体何がハルウの逆鱗に触れたというのだろうか。


「……ぅ……っ」

「! 気が付きましたか!?」


 小さな呻き声に、レイは急いで呼びかける。その間にも、リォーがクァドラーを男の横に運ぶ。


「死……んで、いない……?」


 更に少し経って、やっと男が返事らしき声を上げる。それでやっと、レイの張りつめていた緊張が少しだけ緩んだ。どっと疲労が圧し掛かる。

 だが、息をついている暇はない。


「カーラ。中から清潔な布を持ってきてくれ」

「分かりましたわ」


 クァドラーに声をかけて意識を確認していたリォーが、カーラに血や汚れを拭く布を頼む。それを確認してから、レイはその場に立ち上がった。


「リォー、二人をお願い」

「追いかけるのか?」

「うん。何するか……分からないし」


 分からない、と答えるのが酷く情けなかった。けれど事実なのだ。

 あの山の下に見えるのがライルード伯爵邸だとして、そこにどれだけの人がいるかも分からないが、今の状態のハルウを行かせて何事も起きないとは思えない。


「ヴァルは」

「……あたいは、追いかけない方がいいと思うけどね」


 水を向けられたヴァルが、全身を振って埃を落としながら答える。だが、ヴァルはレイを止められるとは思っていないし、行けばついてきてくれるとレイは信じている。

 そしてそれは、リォーも同じらしい。


「後で行く」

「……うん」


 リォーの言葉に、レイは小さく頷いた。だがリォーは恐らく来ないだろう、とレイは思った。

 クァドラーたちには治癒を最後まで施したから、命に別状はないはずだ。けれどすぐ動けるかどうかは、神法士の技術と本人の体力や慣れに依る。

 そんな二人を、カーラと共に山中に残すことは、リォーは出来ないだろう。この山が予想通りクラスペダ山岳地帯の一部なら、魔獣と遭遇する可能性は皆無ではない。

 何より、これはレイが一人で解決しなければならない問題なのだ。


(頼ってばっかりじゃ、ダメだ)


 レイは胸中で自分にそう言い聞かせると、独り駆け出した。



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