第54話 外からの使者
使者がやってきたのは、その翌日だった。
伯母から緊急連絡の存在は知らされていたが、一度も使ったことはなかった。伯爵邸の場所も考えたことがなかったクァドラーには、その早さは意外に思えた。
「事情を説明してくるので、少し待っていてください」
食事室で朝食を済ませて、少ししてからの時間帯だった。リォーに仕立て直した服を渡し、片付けを済ませているところに鳴ったノッカーの音に、クァドラーは少しだけ呼吸を整えて廊下に出た。
いつも無人で、篝籠に火を入れるのもまちまちな廊下は、薄暗くて不気味なばかりだ。この中を、普段は隠されている玄関口まで向かうのは、毎月のこととはいえ複雑な心情だった。
食事を恵んでもらうだけの、義務で生かされているだけと感じる瞬間。
それが今は、朝から全ての篝籠に火を入れて周り、義務とは違う目的のために進んでいる。
妙な高揚感があった。
ふと思い立って自室に寄り、裁ち鋏を後ろ手に隠し持つ。意味は、多分ない。
「参りました」
中庭を挟んで食事室とは反対側の壁に到着すると、クァドラーは壁に見せかけた扉に向かってそう告げた。伯母から教わった、扉を開ける呪文。
数拍をあけて、目の前の壁が長方形に淡く光る。その光を縁取るように、ぎぃ、と古い鉄扉が現れた。
薄暗い廊下のせいで、鉄扉の向こうはいつも眩しいくらいだ。けれど本当の外ではないことを、クァドラーはもう知っている。扉の向こうにはまた扉があり、同じ法術がきっとある。だから、期待などしない。
ゆっくりと開かれた鉄扉の陰から現れたのは、白髪混じりの髪を後ろに撫でつけた、壮年の男だ。いつもと同じ仕立ての良い服と、淡々とした目つき。
この男が伯爵でも父でもないことは分かるが、どんな身分かはやはりクァドラーには知りようもない。
「急に呼び出して、ごめんなさいです」
クァドラーは、伯母の訓示を思い出しながら笑顔を作った。
初対面の相手には語尾に「です」を付ければ敬意が伝わるとは伯母の言葉だが、レイたちの反応を見るにあまり常識的でないことは既に察していた。
常であれば最初の呪文しか口にしないため何の問題もなかったのだが、致し方ない。学ぶ機会も場所もないのだから。
「……緊急連絡の狼煙を、確認しました。用件をお伺いします」
定型句でない男の声を不思議な思いで聞きながら、クァドラーは早速本題を切り出した。
「実は、予期せぬ来客があったのです。その方々を外に出してあげたくて」
「……何ですって?」
男の表情が驚愕に変わるのに、時間はかからなかった。言葉の真偽を計りかねるように栗色の瞳を凝視し、それから視線を薄暗い廊下の左右に走らせる。
それを追って、クァドラーも廊下の角に視線を向けた。
了承を得たら呼びに行こうと思っていたのだが、やはり全員で様子を窺っていたらしい。全員旅装に着替え、下からヴァル、レイ、カーランシェ、リォーの順で雁首を縦に並べている。朝食時には何だか少し様子がおかしかったレイも、今は真剣な顔で使者とのやり取りを見守っている。
実際、リォーやレイの怪我については治療したと言っても、やはり神法で治癒した方が治りも早いし感染症の心配もない。一刻も早く出たいのは道理であろう。
(皆さんが出て行ったら、また独り)
それは少し寂しいなと思いながら、目が合ったレイに頷いて見せる。すると、各々警戒と心配をそれぞれに滲ませながら、男の前まで進み出た。
それから数歩離れたところに、ハルウも見える。
(いたんだ)
兄妹か従兄妹か、という話が出た時以来、すっかり姿を見せないから忘れていた。ヴァルが地下墓所に出入りするのを見かけたから、そこにいるのだろうかとは思っていたが。
「そんな、本当に……」
突如現れた四人と一匹の異分子に、男が動揺も隠せず後ずさった。
自分も大概だが、男が表情を変えることも、思えば見たことがなかった。伯母と一緒に、人形かしらね、と話したこともあるくらいだ。
(人形じゃなかった)
勝手な疑惑が晴れたところで、男も全員を一通り観察し終わる。それから、何故か眉間の皺を険しくした。
「まさか、招き入れたのですか」
「え?」
予想外の疑念であった。思わず、招き入れられるんですか、と問い返しそうになった。
だがその前に、レイが間に割り込んだ。
「違います! 私が神法で、その、失敗して!」
「…………」
レイの力みように、男の目がどんどん細くなる。だが、事実は事実だ。同意を求めるようにレイの目線がこちらを向いたので、にっこりと頷いておく。
「の、ようです」
「…………」
全く納得していなさそうだった。隈と皺の目立つ目元が、一段と険しくなる。
クァドラーは、後ろ手に隠した鋏を握る手に力を込めて、笑顔のまま押し切った。
「出してくれますですか?」
「いえ、それは……わたくしめの一存では……」
言いかけたところで、男の視線がリォーに止まった。
どう見ても当主ではない者相手にそれもそうだと思っていたクァドラーは、両者の視線がぶつかったところで目を瞬いた。
「青い目に、青い髪……?」
「あっ」
リォーが、濁った声を上げて髪に手を当てる。しかしその意味が、クァドラーにはさっぱり分からなかった。
確かに、リォーの髪も目も青い。だがそれが何だと言うのか。
しかしリォーの顔色はみるみる悪化し、
「阿呆」
「あーあ」
ヴァルとレイまでもが、ここぞとばかりに詰る。しかも反論もない。
どうやら、大変な失策だったらしい。
だがクァドラーには、男の反応の方が興味深かった。
「まさか、これも陛下からの……?」
リォーの新しい旅装を熟視しながら、男が口の中でそう独り言ちる。その先は聞き取れなかったが、リォーの警戒心はみるみる上昇したようだ。
外套の下に隠した鞘のない剣に、静かに手を伸ばす。
だが熟考の末にもたらされた結論は、穏当なものだった。
「……現在、当主は仕事のため不在にしております」
「不在? どこにいるの?」
それまで一歩引いて全体を窺っていたハルウが、低い声で割り込む。これに、男は一瞥をくれただけで先を続けた。
「ですが、殿下を不用意に留め置くことはわたくしめには判断しかねます」
「それって……?」
レイが、意図を問うように声を上げる。それに一つ頷いて、男が扉を譲るように半身を開いた。
クァドラーから目を離さないようにするためか、頭は僅かにしか下げていない。
「お通りくださいませ」
それは、クァドラーにとっては意外な結末だった。どこから侵入したのか特定できないうちは、許可しないと思っていたのに。
(青い髪と目って、何だっけ……)
そういえば、そんな取り合わせをどこかで見たことがある気もする。見たというのは勿論、この屋敷にある数少ない本の中なのだが。
「……俺がここにいたことは、誰にも言わないでもらいたい」
「承知しております」
「ま、待ってください!」
意想外に手早く纏まりそうなところだったのに、異議を唱える者がいた。レイだ。
「あの、クァドさんも一緒に出ることはできませんか?」
「…………」
途端、男の目つきが明らかに変化した。
むべなるかな、とクァドラーは目を閉じた。
レイの誠意を信じていないわけではなかったが、あの言葉がどこまで本気かといえば、疑わしいと思っていた。
クァドラーに非がなくても、哀れな境遇でも、やはり魔王は恐ろしい。その影に怯えるのも、その子供が本当はどこかに存在していて復讐の機を狙っているのではと懸念するのも、外の人々にとっては的外れの妄想などではないはずだ。
気にせず扉の向こうへと歩き出していたヴァルとリォーが、何を言い出すのかとレイを振り返る。それに批難が混じっているのも、致し方のないことだった。
だが、レイは引き下がるどころか思いきって続けた。
「クァドさんから聞きました。理由は、分かりました……けど、魔王なんて五百年前も前の話だし、そもそも女性はみんな危険だなんて、何の根拠も――」
「皮肉なことに」
と、レイの言葉を強引に遮って、男が反論した。
あくまでも紳士的な対応をしていた男のその無礼な態度に、クァドラーはおや、と瞠目した。機械的だと思っていた瞳が、どこか痛ましさを含むように歪められたから。
男は続ける。
「女児の生まれない代はございませんでした。それもまた呪いのようだと、先代は仰いました。我らの先祖がしたことを、決して忘れないように」
それは、初耳だった。三十八番目の伯母には先代がいなかったと聞いたから、そんなものかと思ったのだが。もしかしたら、病気か何かで夭逝したのかもしれない。
そしてまた、思う。
(やっぱり、そういう運命なのね)
逃れられない、抗えないもの。
この屋敷には、目に見えないそれが常にある。息苦しい濃霧のようにまとわりついて、決して離すまいと雁字搦めにする。
(そう、だから……無駄なのよ)
何もかもが無駄なのだ。抗うのも、望むのも、諦めるのも、何もかも。
手の熱と汗が移った裁ち鋏も、そう囁きかけている気がした。
今だ、と。
今しかないのだ、と。
これを逃せば、クァドラーはまた独りだ。同じ一日が延々と繰り返されるだけの、無明の闇に連れ戻される。
自分が生きているのか死んでいるのかも確かめられず、世界がもう滅んでしまっていたとしても気付けないまま、ただ生きる。
一瞬と永遠の違いすら分からない、朽ちるだけの命に戻る。
(…………いやよ)
ゾッとした。
そんな恐怖は、伯母の時だけで十分だ。もしこれを逃せば、きっとクァドラーはレイたちすらも憎むだろう。
笑うという作業に苦痛を感じなくなっていたクァドラーに、それ以外の感情を思い出させた、騒がしくて命の躍動に溢れた彼らを。
一方で、けれど、とも思う。
(わたしが解放されたら、その次は……?)
もう、二度と同じ目に遭わされる者はいなくなるのだろうか。それとも、やはりまた女児が生まれれば、閉じ込められるのだろうか。
相反する望みに煩悶するクァドラーは、けれどそれを表情に出しはしなかった。その方がいいと、今までの経験から学んでいたからだ。
だというのに。
「……そんなの」
クァドラーを一瞬だけ振り返って、レイが男に反論した。
「そんなの、ただの思い込みだよ」
それは、確かにそうだろう。実際の呪いであれば、そして掛けた相手が神でもなければ、暴き出して術を壊せば解呪ができた。
だが、これはそういったものではない。
ただの恐怖だ。原因は取り除きようがないし、絶つべき元もない。
魔王は元はただの強人種で、その驚異的な力は悪意の思念の集合体の依り代になったに過ぎないと検証する本すらある。
ここにある思い込みという名の呪いも、結局五百年かけて培われた誰かの思念の集合体に過ぎない。そんなものは、たとえ思い込みと一蹴しても、消し去ることは出来はしない。
「……それでも、事実です」
男が、不快感を眉間に滲ませて断ずる。
レイは子供のように眉尻を下げて、けれど頑として男の目を見て、首を横に振った。
「事実っていうのは、神様はみんな男女なんだとか、そういうことだよ。世界の半分は女だって、知らないの?」
「……これは、そんな話では」
「生の神ビオスも光の神フォスも女性で、生まれてくるのも光が降り注ぐのも、呪いじゃなくて祝福だって、知らないの?」
真っ直ぐな、自分の信じるものに真っ直ぐな瞳だった。痛みを知ってなお、悪意を知ってなお、立ち向かう。
「知ってるのに目を瞑るなんて、卑怯だよ」
「…………」
詰るのでも吐き捨てるのでもない、愚直なまでに素直な声だった。
男が声もなく押し黙るのも道理に見えた。
そして、クァドラーの思考もまた、沈黙した。
(知ってるのに、目を瞑るなんて……)
クァドラーは、知っている。クァドラーがここを出られても、悪習は終わりはしないと。新たな女児はまたここに連れてこられる。
そしてその時、その子供は――独りだ。
クァドラーが逃げたがために。
『あなたを育てられてよかった』
伯母の言葉が、中庭を覆う蔦のように手足に巻き付く。鋏を握る手が、否応なく震えた。
(伯母様……!)
声もなく、叫ぶ。
(伯母様がいたから、わたし、生きてこられたの……!)
彼女がいなければ、クァドラーは「生きる」ということの意味すら知らなかったろう。孤独も苦悩も知らず、それはある意味では幸福なのかもしれないけれど。
(いやよ……それは、いや)
カラン、と足下で鋏の落ちる音がした。男が、それに視線を向ける――その前に。
「僕もそこを通してよ」
ハルウが、言った。茶番には付き合っていられないとでも言うように。
「……え、えぇ、どうぞ」
男が、我に返って道を譲る。
緑髪の男が、ゆっくりと鉄扉をくぐる。
瞬間、バチッと光がはぜた。
「!」
ハルウが表情を一切変えずに足を引き、
「……え?」
クァドラーが初めての現象を目の当たりにして戸惑い、
「……まさか、あなたも?」
男が、ゆるゆると目を見開いた。
「あなたも、ライルード家の子供……なのですか?」
有り得ない、と言外に訴えながら、男が続ける。
既に鉄扉の向こう側にいたリォーとカーランシェが顔を見合わせ、ヴァルは目を細めて事態を静観した。
そしてレイは。
「あ、そっか。兄妹か従兄妹だから? 男でも、一族だと出られないの?」
不用意にそんな話柄を持ち出した。
途端、男の表情がみるみる剣呑となる。そして、開いていた体を戻して、扉を塞いだ。
「申し訳ございません。いくら殿下の随身とはいえ、お通しすること、まかりなりません」
「…………そう」
男の硬質な声に、ハルウは長い沈黙を挟んで、そう言った。
おもむろにその場に屈み、それからゆっくりと立ち上がって、莞爾と笑う。
「じゃあ、いいよ」
そして、右拳を男の腹に押し付けた。
「…………?」
「ハルウ? 何して……」
男が、事態が飲み込めないという風に瞬き、傍らにいたレイが不思議そうにその手元を覗き込む。
けれどクァドラーは知っていた。先程屈んだ時に、ハルウが落ちていた裁ち鋏を拾ったことを。そして突き出した右手の中から、良く切れる鋏の先端が長く出ていたことを。




