第53話 微睡みの中で
――あいたい。
遠く、どこからともなく声が聞こえた気がして、レイは空を振り仰いだ。けれど空があると思った先は真っ暗で、何も見えない。
――さびしい。
また、声が聞こえる。知らない声。男か女かも、大人か子供かも分からない。
ただ、声が聞こえる。
言葉の通り寂しそうにも、無機質にも感じる。
声は続ける。
――ここには、なにもないから。
――ひとりは、さびしい。
そうだね、とレイは言おうと思った。
けれど声になる前に、全て消えた。
黒に。
◆
鉄格子越しに差し込む朝日に、レイはぼうっと目を開けた。
ここに来てから、毎夜夢を見ている気がするのだが、ちっとも思い出せない。
ただ、胸にぽっかりと穴が空いている気がする。けれど触ってみればそんなことはなくて、空腹を感じて寝台を降りれば、そう感じたことすら忘れている。
寝癖もそのままに台所に向かう。今日もやることがないので、クァドラーの手伝いに明け暮れた。
クァドラーの指示のもと皿を並べ、教わりながら外套の穴を繕い、薬を作る。旅に持って行けるようにと、お裾分けも貰った。
薬草畑では、香りが良いものは酒の香り付けにも使うのだと教えてもらった。
「あ、もしかして、手当てした時に使ってたやつ?」
「あれは香りづけとかしていない方ですけどね」
貴重な嗜好品かと思ったのだが、どうやらやはり必需品のうちだったようだ。
「良ければ、飲んでみますです?」
「いや、そんな」
「いただこう」
「わっ」
突如下からぬっと現れたヴァルが、レイの遠慮をぶち壊した。そして本当に、次の食事からヴァルにだけ酒が供された。
◆
「……あの猫は何を飲んでるんだ」
夜、食卓の上に乗って平皿に入れられたものをペロペロと舐めているヴァルに、リォーが引きつった声を出した。
リォーの回復も順調だということで、今日はハルウ以外の面子が台所の横の食事室に集まっていた。四人が座ればいっぱいになるテーブルを囲って、今日も薬草入りのスープを啜る。
しかしヴァルの皿からは明らかに酒精の匂いが漂ってくるのだから、リォーの疑念もさもあらん。
「ガキが飲むもんじゃないよ」
「誰がガキだ」
「誰が猫だい」
久しぶりの和やかな食卓に、小さな花火が散る。そこに、クァドラーが無邪気に油に火を注いだ。
「リォー様も飲みますです?」
「は? 俺は」
「味の分からないガキになんかやらなくていいよ」
「飲む」
怪我も治りきっていないくせに、リォーが無駄に張り合った。レイは意図的に無視した。
そしてカーランシェは、そんなやり取りなど端から眼中にないようだった。
「おねえさま、食後にお部屋にいらしてくださいな。お洋服を着てみて頂きたいのです」
「もう出来たの? すごいね」
「おねえさまにいつまでも汚れた物を着せるわけにはまいりませんもの!」
「だから兄を見ろっ」
◆
カーランシェの刺繍は、見事な力作と言えた。
上衣は襟元や袖口が脱ぎ着がしやすいように大きく取られ、裾も邪魔にならないように腰紐で結べるようになっている。ズボンも足首に同色の紐が通され、調整できるようになっていた。
そしてそのあちこちに、兜菫の花が刺繍されていた。襟元、袖口、足元に、地面から咲くように青紫の小花が咲き乱れている。
「す、すごいね……」
試着した自分を見下ろして、レイは感嘆しながらも頬を引きつらせた。予想を軽く超えてきた。
「兜菫の花言葉は、美しき輝き、栄光、騎士道です! おねえさまにぴったりでしょう? あとはクラヴァットや小物を仕上げれば完璧です!」
しかし兜菫の根は、小型の魔獣なら殺せる程の毒性を持つ。女性に贈るものではない。
「でもでも、こうして見るとやはり少し物足りないようですわ。花との線対象に月と星も刺繍しましょう!」
「いやいやそれはもういいよ! それよりも今度はリォーの服を仕上げてあげてっ?」
どんどん興が乗っていくカーランシェに、レイはついに根を上げた。
リォーは今、畑仕事用の服を仮に着てはいるが、袖も丈もつんつるてんだ。ドレスをズボンに直すのはクァドラーがしてくれているから、できれば袖が長めのドレスを上衣に作り直してあげると喜ばれるだろう。そのどこにも、本当は刺繍など要らない気もするのだが。
「そう、でしょうか?」
「うん! これ、すごく素敵! もう十分!」
眉尻を下げて悩み始めたカーランシェに、レイはここぞとばかりに力説する。恐らくカーランシェは好きになると一直線で、趣味には凝りに凝る性質なのだろう。適度なところで止めに入らなければ、どこまでも止まらない気がする。
しかしカーランシェは、それでも名残惜しそうにレイと新しい服とを見比べた。
「でも、おねえさまの華やかさを引き立たせるには、もっと」
「カーランシェ」
再び熱の籠った構想が始まる前に、レイは次句を考える前にカーランシェの繊手を両手で包み込んだ。
間近から、その小さく美しい白貌を覗き込む。長い睫毛、高い鼻梁、化粧もしていないはずなのに桃色に染まった頬……改めて見ると、やはり同性であることが信じられないくらい美しい。
思わず見入っていると、カーランシェもまた潤んだ淡褐色の瞳に熱を込めてレイを見詰め返してきた。
「おねえさま……。ぜひカーラとお呼びになって?」
「う? うん。カーラ、ありがとうね。この服、すごく気に入ったよ」
「まぁ……!」
「だから、もう一秒も脱ぎたくないの。これ、ずっと着ていてもいい?」
レイは困惑しながらも、ここぞとばかりに声を低めた。
カーラが、益々瞳を潤ませた。
「……はい!」
そういうことになった。
◆
(なんか、どっと疲れた……)
では早速クァドラーに進捗を確かめてくると部屋を出たカーラを見送って、レイは一人脱力した。
自分の部屋に戻ろうと、ふらふら歩く。その途中、食事室からまだ光が漏れているのが見えて、レイはひょっこりと顔を出した。
「……何やってんの?」
片付けの終わったテーブルの上で、ヴァルがぴちょぴちょと酒を飲んでいた。食事中と全く変わっていない。
「見りゃ分かるだろ」
「まさか、ずっと飲んでんの?」
「後始末だよ。坊主が粋がって残すからね」
くいと、ヴァルが長い髭を揺らして向かいを指し示す。更に覗き込めば、確かにヴァルの黒い毛並みの向こうに青い髪が見えた。どうやら、机に突っ伏しているらしい。
「残したって……何杯目?」
よくやるものだと呆れながら、もうすぐ空になるヴァルの皿を片付けようと向かいに座る。そして驚いた。
「一杯目」
「えっ、寝てる……?」
隣に座ったリォーは、自分の腕の中に顔を埋めて、健やかな寝息を立てていた。頬も耳も真っ赤だ。
「一杯目でこれなの?」
人差し指で、ちょんと腕をつついてみる。少し眉をひそめただけだった。よく寝ている。
「あんまり眠れてないようだったしね。丁度いいさ」
「そう、なの?」
意外な事実に、レイは少し瞠目した。
治療後はうたた寝していたし、クァドラーが危険でないことも確信できたし、問題ないと思ったのだが。
「まぁ、気を張るなという方が無理だろ」
「……、そっか」
その言葉に、レイは自然と肩を落とした。
(リォーは、やっぱりすごいなぁ)
同じ境遇にいるはずなのに、同じものが見えているわけじゃない。リォーはレイの気付かない懸念や危険を幾つも想定して、それに対処できるようにずっと気を張っている。
(私、バカみたいに寝てた)
追われて、命を狙われている最中だというのに、我ながら間の抜けた話だ。
「さて」
ヴァルの声に、我に返る。見れば酒を舐め尽くして、満足そうに口周りを舌で洗っていた。早い。
「じゃあ、あとは任せた」
「うん。……あ」
ぴょんっと机下に降りたヴァルを見送って、器を取る。そして残ったものを見て、自分の失敗に気付いた。
「ヴァル、リォーは……」
どうするの、と聞く前に、尻尾の先が廊下に消える。
(任せたってそーゆー意味か)
変身すれば運べるくせに、と思ったが、もう遅い。レイはとりあえず、自分の見通しの甘さを嘆きながら食器を洗った。
◆
「――さて、どうしたものかな……」
カチャカチャと、硬いものがぶつかる音が落ち着いて、少し。そんな声が、すぐ近くで聞こえてきた。
「疲れた顔してる」
気配が、吐息とともに近付く。椅子を引くような音もする。
起きて、警戒しなければと思うのに、体が酷く重かった。睫毛を震わせるだけで頭に鈍痛が走り、身動きするのも億劫になる。
(猫がいるから、いいか……)
ヴァルなら、必要があれば疲れ果てて泥のように眠っていても、容赦なく叩き起こすだろう。
(それに、この声は……)
うつらうつらと、夢と現の狭間を漂う。その中で、ぽんと暖かな感触が髪越しに触れた。
「まったく……。心配があるなら、言ってくれればよかったのに」
憮然とした声と、つんつくと頭皮が引っ張られる感覚。痛くはない。
その手は、まるで本当に言いたいことを隠すように、髪を引っ張っては、控えめに撫でて、また引っ張ってを繰り返す。
微睡みに囁きかける、穏やかな戯れ。酒のせいで朦朧とする頭に、指と声が酷く心地良い。
「……まぁ、信用ならないだろうから、仕方ないんだけどさ」
その寂しそうな声に、ばかやろう、と口の中で呟く。
本当に信用ならないのは、否定しない奴だ。根拠もないのに頭から信用し、追従する。悪意によるものでも善意によるものでも、それは変わらないとリォーは思う。
だから、最初からリォーに反発し、全身で嫌いと明言する奴は、別に悪くないと思っている。
リッテラートゥスも、その類だ。嫌いではあるが、ある程度は信用している。奴が一番信用ならないのは、まさに同調してきた時だからだ。
「……信用なんか、関係ない」
「わあっ」
両腕の中に口元を隠したまま、ぼそりと呟く。吐いた熱い息が、腕の中に滞留して酒臭い。
「……起きてたの?」
レイが覗き込む気配がする。戦闘中は括っていた髪が、肩口でしゃらりと鳴る。目を開けないまま、リォーはそれに耳を傾けた。
是と答えれば、きっと、レイは逃げる。リォーが目を覚ましたと知れば、あからさまに退室しなくても、この優しい微睡みの時間は終わってしまう。
名残惜しいと思いながらリォーが黙っていると、予想外に返事があった。
「……信用なんか、絶対にしないからってこと?」
けれどそれは、問いと独白の間のような声だった。
酒で口が重いリォーを待たず、いじけたような声が続く。
「そんなの、分かってるよ。……でも」
「……言えるかよ」
声を出すのも億劫に思いながら、どうにかそれだけを反論する。ゆるゆると押し上げた瞼の向こうに、きょとんとするレイが見えた。
卓上の蝋燭に照らされた夜明け色の髪が、薄い肩から流れてすぐ目の前に揺れている。橄欖石の瞳にも炎の煌めきが映り込み、本物の宝石のようだ。けれど揺らめく緑は、寂しさに戸惑うようで。
(こんな、頼りない奴に)
手を引いてやりたくなる迷子のような女の子に、辛いとか苦しいとか、言えるはずがない。信用するとかしないとか、そんなことは関係ないのだ。
そもそも信用という点でなら、もうずっと昔から、変わらない。
『だから、だいじょーぶ』
九年前の、あの根拠のない言葉と笑顔が、挫けそうになる度にリォーを支えてきた。
だから。
「お前のことなんか……」
ずっと前から信用してる。
そこまでは、少しだけ酔いが醒めてきたせいで、言えなかったけれど。
だが、それが悪かった。
次に見たレイの目は、明らかに怒っていた。
「……レイ?」
理由が分からず、ゆっくりと体を起こす。隣に座るレイの顔を覗き込むと、ぷいっと顔を背けられた。
「もういい」
「? 何がだよ」
意味が分からない。
中途半端にした発言のせいで誤解を招いているなどという懸念は、酒精が残るリォーの頭には勿論ない。
「……いやなやつ」
「何だとっ?」
続く文句に、リォーはそっぽを向いたレイの肩を掴んで強引に振り向かせた。が、酒のせいで力の加減を完全に間違えた。互いの鼻先が一瞬触れあう。
「な……」
「お……」
しまったと思った時には、橄欖石の瞳が至近にあった。緑に溺れる小さなリォーが見える。
一秒、呼吸が止まった。
先に逃げたのはリォーの方だった。パッと顔を正面に戻し、話題を、無理やり捻り出す。
「……お前こそ、もっと嫌な奴になれ」
「……なにそれ。あんたを見習えってこと?」
何故真っ先に俺を引き合いに出す、とリォーは顔をしかめた。だがその声に先ほどまでの怒気はなく、リォーは無意識に言葉を変えていた。
「そうだ」
と、らしくなく説教じみた声が出る。
「自分以外は全員敵で、弱味を見せるくらいなら踏みつけてやるくらいの気でいるんだ」
「そんなの……リォーは、そんな風にしてきたってこと?」
レイが背けていた顔を元に戻し、リォーの瞳を覗き込む。けれどそれは、すぐに伏せられた。
「でも、私にはできない。出来たら……こんなに悩んでない」
そうだろうなと、リォーは思った。欲するものが目の前にあると知っても、他人を優先するようでは。
だが、それでは何も変えられない。
「お人好しなんて、宮廷じゃいいカモだ」
また怒らせると分かっていて、厳しい言葉を選んだ。だがレイは怒るどころか苦笑して、首を横に振った。
「お人好しなんじゃない。私は、目の前の人を深読みするのが……言葉の裏を読むのが、怖いの」
「怖い?」
「周囲から悪意の目で見られてるって、知ってるから。おためごかしの、耳に心地良いことを言う人だけでも額面通りに受け取って、安穏としてたいの。だって、この人も、あの人も、心の中では私のことを蔑んで、疎んでるのかもしれない、なんて……」
周囲には悪意しかなくて、本当は自分の居場所なんかどこにもないのかもしれない、なんて。
「ずっと考えてたら、疲れちゃう」
レイは、やはり控えめに笑った。まるで、意気地のない自分を隠す、道化のように。
(そんな風に、考えるのか)
リォーも、周囲の人間の言葉を鵜呑みに出来ない環境で育った。だからこそ、騙されないように、遅れを取らないようにと、言動の裏の裏を読んだ。
リォーの中にあったのは、反撃か回避だ。騙されたままでいいなどとは、考えたこともなかった。レイの考え方など、リォーとは正反対と言える。
だがだからこそ、今までのレイの不可解な行動にも、少しだけ理解が及んだ気がした。
(何故助けたのか、なんて)
レイの目的のためなら、リォーを見捨てる機会など無数にあった。だがレイは、一度もそうしなかった。躊躇すらなかった。それがずっと疑問だったが、どうやら聞いても詮無いことだったらしい。
レイは、人の善い所ばかりを見ようとしている。だからこそ、自身もそうありたいと無自覚に思っているのだ。必死で。
「……だから、阿呆を演じるのか」
「誰が阿呆よ」
万感の思いを込めて納得したのに、いじけた声で反論された。
だが少しだけ疑問が晴れて、リォーは気分がすっきりした。酒のせいで平衡感覚はまだ少し狂っているが、それでも立ち上がることは出来る。
「もう寝る」
「ちょっと、大丈夫?」
机に手をついて椅子から立つと、レイが心配げに手を伸ばす。それを避けるように出口まで歩く。
振り返ったのは、何となくだった。
レイが、真っ直ぐにリォーを見ている。その瞳が自分を見る時だけは、歪まないといいのに、と思った。
「俺は、お前に聞き心地の良い言葉なんて使わない」
「……知ってる。でも少しくらい、私にも気遣いや社交辞令があってもいいと思うけ――」
「だから、疑うな」
「ど……、……え?」
レイの台無しな茶々も無視して、言い切る。
あとはもう、問い返すような声も視線も無視して廊下に逃げ込んだ。
酔いがまだ残っていたせいだ、と薄暗い廊下を足早に歩きながら、意味もなく自分に言い訳する。
あんなことを言ったのも、どうしようもなく頬が熱いのも。
全部、酒のせいだ。




