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第50話 魔王の子供

 母のことは、嫌いだった。

 何事にも屈託がなく楽観的で、竹を割ったような性格で、悩むとか後悔するという姿を見たことがなかった。


『別に、私は隠していないぞ。そしてお前が私のはらから生まれたこともまた事実だ』

『……でも、知りたくなんてなかった』


 知らなければ、多少の毛色の違いに苦しんでも、母の息子であるという自信だけは揺らがなかっただろう。自分の本当の居場所に思い悩んで、道化のように足掻いたりはしなかっただろう。

 知らなければ。


『知らなければ、ルシエルを好きにはならなかったとでも言いたげだな』


 母の見透かしたような問いに、ハルウは返す言葉もなかった。胸が、馬鹿みたいに苦しい。


『……実の妹だ』

人間種ピリトスの決めた法の中では、そうらしいな』


 そう答える母は、だから何だとでも言いたげだった。

 年を経るごとに微に入り細を穿つような法が溢れかえる一種族の決め事に縛られるのは、全くもって無意味とでも考えているようだ。


『些末なことだ』


 白白明けの空を物見櫓から睨みながら、母が独白のように続ける。


『あの時、あの状況下では、お前を産むのは私にしかできなかった。そして私は託されていた』

『……殺したくせにか』


 その母の横顔があまりに廉潔としていて、知らず恨み言のような声が出ていた。だがそれは、母の行いを今更非難するとか怨訴したいというわけではない。

 ただ、矛盾しているように思えたのだ。

 殺したのなら、その子供もまた殺せば良かったのに。そうすれば、その後に生まれる全ての禍根は、生まれなかったかもしれないのに。

 だが、母の横顔が歪むことは、やはりなかった。


『そうだ。殺したからこそ、私に拒むという選択肢はなかった』

『でも、無視することはできた。出来ないと言うことも』

『味気ないな』

『それが廻りまわって自分の首を絞めているって、気付いているくせに。あなたまで、自分の愛する男を失う必要はなかったのに』


 いじけたような声に、母がやっと振り向く。

 その輝く瞳には、夜明けの空の向こうにいるはずのジオへの未練がまだ尾を引いているように、ハルウには思えた。


『対など、神々を――強い力を持ちすぎた存在を互いに縛り付けるための楔に過ぎない。それが人にまで及んでいるなどと思うのは、幻想だよ』


 豪快なくせに、どこか達観したように母が言う。

 彼女は建前や名分を使わない。だから全てのことは本心で、だからこそ時に突き放したような冷たさを感じることがある。それがまた彼女自身を苦しめていると、今まで散々に味わわされてきたくせに。


『生まれた時から対がいるなんて……不完全な自分を許すための、都合のいい言い訳に過ぎない。だがその言い訳が、人には必要なのさ』


 少しだけ寂しげに、母が笑う。

 だから、このひとを嫌いきれない。

 母のように慕いたくは、ないのに。

 慕ってはいけないのに。

 彼女は、ハルウのせいで死ぬまで独りだったのだから。


「ライルード伯爵家……。こんな時に、見つかるなんて」


 薄暗い廊下を無闇に逃げたすえ、物置のような部屋の隅で、とうとうハルウは蹲った。

 母から貰った鈍くりょくこんに光る腕輪を、隠すように握りしめる。


『それをやろう。ハルウ、お前が望むなら、それに全て封じ込めてしまったっていいんだ』


 邪魔なものも不要なものも、嫌いなものも見たくないものも、全て。

 全て無いことにして、ただの人として生きてもいいのだと。

 疑われてばかりの愛を目に見える形に残そううとするかのように、腕輪これを贈った。

 そういうところが、またハルウの癪に障ると知っているくせに。

 だが結局、ハルウはその目的では使わなかった。嫌いな母の好意など受け取りたくはないという意地ではない。

 ハルウは、奪われたものを取り返さなければならないのだ。

 何を犠牲にしても、絶対に。


「知りたくなんて、なかったんだよ……」


 忘れたくても忘れられない、悠遠の中の母の声に、今さらの恨み言が漏れる。

 望むものなんてたった一つだと、知っていたくせに。




       ◆




「空間の神……翼下避行の神法は、ハルウの血筋に反応したってこと?」

「多分ね」


 腰を落ち着ける気になれないまま問うレイに、ヴァルがどっと疲れたとでもいうように長い耳を垂らして首肯する。

 だがレイはというと、何だか納得できたという気分だった。


「ハルウって、やっぱり貴族だったんだ」

「やっぱりって何だい」

「だって、どことなく所作が優雅な時があるし、顔立ちも、私より品がいいっていうか」

「まぁ、それはそうかもね」

「否定してくれない!?」


 事実とはいえ、自分の発言に多分に傷つく。そして残念ながら、ヴァルの辞書に偽善や世辞という単語はない。


「そんなことありません!」

「カーランシェ……!」

「おねえさまは格好いいですわ!」

「…………」


 それは別に品がないことを否定していないのではと思ったが、カーランシェの瞳には自信と好意が満ち満ちていた。


「あ、ありがとう……」


 レイは不毛なお礼を述べた。ぎゅっと更に抱き付かれ、毛先が揺れる。


「だが聞いたことのない家名だ。有名なのか?」


 そんな二人をよそに、リォーが話を進める。

 エングレンデル帝国には、六侯爵家以外にも有力な貴族は山とあるが、宮廷に伺候しない家も含めればそれこそ星の数ほどだ。それは皇子だからと覚えられるものでもないだろう。

 だがヴァルの答えは正反対のものだった。


「有名ってわけじゃないさ。ともすればこの国の貴族でさえその名前を覚えていなくとも不思議ではないし、どころか、いまだに貴族かどうかさえ怪しいもんさね」

「覚えてない……ってことは、昔の家ってこと?」


 没落という憂き目に遭う貴族は、少なくない。財政難や自然災害、権力闘争など理由は様々あるが、大抵はそのまま後継ぎが不在となり、爵位を国に返還することになる。


「昔……そうさね。昔も別に、特段功績があったとか、名が広く知られていたというわけではなかったろうさ。ただ、」


 ぱたり、と尻尾を落として、クァドラーを窺うように見上げる。


「その家には、良くない噂があったのさ」

「噂って……」


 もしや先祖の罪と言っていた駆け落ちと、何か関係があるのだろうか。

 レイもつられるように、全員の食器を粗方片付け終わったクァドラーに視線を滑らせる。

 目が合うと、破顔一笑された。


「魔を魅了する悪女の一族、ですよね?」

「えっ」


 それは、噂と片付けるには随分不吉な響きだった。少なくとも、クァドラーにそんな妖しげな雰囲気は感じられない。

 だというのに、一度耳にしてしまえば急にその笑みが仄暗く見えてしまうのは、なぜだろうか。


(ただの気のせい……違う、偏見だわ)


 屋敷の雰囲気と話に呑まれているだけだと、分かっている。けれど転がり出た声は、勝手に震えていた。


「魅了って、邪法か何か……?」


 賢才種ソフォスが研究したような神法とは違う何かが、クァドラーの一族にもあるのだろうか。

 しかしこの邪推に、クァドラーは「まさか」と首を横に振った。


「昔――大喪失クレヴォ時代に、ライルード伯爵家の娘が強人種スクリロスに攫われて子供を産んだことがあるんです」

「! でもそれって完全な被害者じゃ……!」

「でも、産むと決めたのはその娘です」


 レイの異議を、しかしクァドラーは言い切る前に否定した。

 その笑顔はあまりに屈託がなくて、やはりレイは空恐ろしくなった。クァドラーがその娘にどんな感情を抱いているのか、まるで見えなくて。

 だが、この話はそれで終わりではなかった。


「その一度きりだったら、そんな噂も立たなかったかもですが、その後の時代にもまた同じようなことがあったんです」

「また?」

「相手は、魔王だったそうです」

「ま……!?」


 突拍子もなく出てきた名前に、レイはついに絶句した。思わず、英雄神の供をしていたという生き字引を振り返る。

 反応は、特にない。


(一緒に魔王討伐……じゃなくて封印したんなら、少しくらい知ってそうだけど)


 沈黙は肯定、と取っていいのだろうか。

 だが俄かには信じられなかった。

 魔王の正体が孤独を司る異端神で、地上に降り立ったのも対を求めたがゆえというのは、旅の始まりに聞いた話だ。

 魔王が片端から対を奪っていったがために、人々は喪失に苦しみ、喘いだ。

 それが終わったのは、単純に英雄神の活躍があったからだと思っていたが。


(もしかして、対に出会ったから……?)


 何百年も前に封印された魔王など、恐怖心はあっても伽噺の住人くらいにしか捉えられない。今回のような事態に関わることになっても、やはり地震や嵐のような災害と同じような類にしか思っていなかった。頑張れば事前に防げる災害。

 その魔王さいがいが、最期には対に出会い、世界を巻き込むような苦悩や孤独がついに癒されたのかもしれないと考えた時、レイの中で初めて魔王が記号から命ある存在に変わった気がした。自分と変わらない、感情を持った一つの命。

 しかしすぐに感傷的になるレイとは反対に、リォーの感想はあくまでも冷静だった。


「だが魔王は、老若男女関係なく無数に攫ったり殺したりしたはずだ。それこそ、六大陸のあちこちで。ライルード伯爵家だけがそこまで忌み嫌われる理由には」

「子供が、いたそうです」


 思量するリォーの言葉に被せるように、クァドラーが先に答える。その平板な声に、レイはついに気付いてしまった。

 クァドラーが、過去の娘たちに何を思っているのか。


(何も、思ってなんかいないんだ)


 憎悪も激憤も、悲嘆も諦念も、何もない。空っぽなのだ。それが回りまわっての境地なのか、感情が生まれる以前のものなのか、あるいは先程までのレイのように、娘を記号としか捉えていないのかもしれない。命も感情もない、ただのお伽噺。


(何とも思わないから、知ってる表情を適当に使ってるだけ、みたいな……)


 そこまで考えて、レイはそんな表情を他にも知っている、と思った。


(ハルウも)


 時折、そんな顔をする時がある。ちぐはぐで、適当で、空っぽ。


(……ハルウ、大丈夫かな)


 素性どころか衝撃的な事実に触れ、姿を消してしまったハルウが余計に心配になる。

 だが、リォーの驚きもまたそれどころではなかった。


「まさか、魔王の仔なのか?」

「えぇ……!? そ、そんなのがいたのですか!?」


 衝撃から戻ってきたリォーの発言に、カーランシェがついに顔を青くして声を漏らした。レイの腕にしがみつく手に力が籠る。

 雲の間に天上の楽園が見えなくても、大喪失を経験した者が身近にいなくなっても、魔王の脅威が色褪せるには、その存在はあまりに異質で強烈すぎた。

 しかしクァドラーはこれに、曖昧な微苦笑で応えた。


「どうでしょう。そもそも駆け落ちした相手が魔王だったかどうか、それさえも誰も確かめられなかったそうですから」

「どういうことだ?」

「戻ってきた娘は、何も覚えていなかったそうですの。駆け落ちした相手のことも、お腹に子供がいたことすら」

「病気か怪我か何かか?」

「さぁ?」


 駆け落ちまでした相手のことを忘れるなど、余程のことだろうに、クァドラーはまるで興味がないという風に首を傾げた。

 医者が調べても分からなかったということなのか。あるいは神法か、何らかの不思議の術をかけられた可能性もあると思ったのだが。


(分からない……知らないのかな?)


 今の返事では、原因不明なのか単なる無関心なのか分からない。

 だがリォーとカーランシェの関心は、母親よりも、魔王の血を引くかもしれない子供にあるようだ。


「……その子供は、どうなったんだ」


 リォーが、険しい顔で尋ねる。しかし返されたのは、不可解な答えだった。


「いなかったそうです」

「いない? 死産とかではなく?」

「妊娠した形跡はあったけれど、胎児だけぽっかりと消えていたそうです」

「なに?」

「そんなことが、起こるものなのでしょうか……?」


 兄妹が、怪訝に顔を見合わせる。実際、どんな不思議が起こればそんなことになるのか、レイにも皆目見当がつかない。

 子供がいたという記録が残っているのだから、死産ではなく出産したと考えられているのだろうが。


(そのひとは、悲しんだのかな)


 魔王が人と同じように対の不在に苦しみ、誰かを愛したのだと考えてしまえば、その相手の気持ちについても無視できないのがレイという少女だった。

 魔王らしき男と突然消えた娘。帰ってきた時には一切の記憶がなく、自分が妊娠したことも、子供を産んだかどうかも分からない。

 世界中の誰からも嫌われた魔王の子供を喪ったと、生死も分からないと聞かされて。その娘は、母として悲しんだのだろうか。

 それとも。



「みんな、安心しただろうね」



「ハルウ!」


 突然の声に、レイはパッと愁眉を開く。見れば入り口に、長身痩躯の優男が戻ってきていた。

 安堵とともに駆け寄るレイに、ハルウの色違いの双眸が向く、その寸前。


「魔王の子供なんて、誰も望んでいないんだから」


 ぼそりと、嘲るように吐き捨てた。その横顔が酷く殺伐としていて、レイは辿り着く前に足を止めてしまった。


「ハルウ……?」

「ね」


 問うように呼び掛けた声に、ハルウがいつもの笑顔に戻って同意を求める。しかしレイは、とても頷くことはできそうになかった。

 代わりのように、清々しい声で同意する者がいた。


「その通りです」


 クァドラーだ。ハルウと全く同じ笑顔で頷く。


「だからライルード伯爵家では、女児が生まれてしまった場合には殺すか、必要になる時までここで保管しておくのです」

「保管って……」

「後継ぎとなる男児が生まれるまでか、生まれなかった場合は、近い血筋から婿を用意して、子供を産むまで、です」


 引き攣る声で問うレイに、クァドラーはどこまでもにこにこと説明する。その口振りは、まるで無機質な制御機構システムを説明するように味気なかった。まるでどこにも、悲劇など存在しないかのように。

 そしてそれが必ずしも外道の所業だとは、最早誰も口にはできなかった。第二第三の魔王に成り得る存在を恐れない者はいないし、それが自分の血縁から出ることを望む者もまたいないのだ。


「はぁー」


 全員が押し黙る空間に、それまでずっと無言を貫いていたヴァルの、重々しい嘆息が流れる。何もかもを納得し、また呆れ切ったとでも言うように。


「そしてあんたは、この屋敷が機能し始めて四十番目の女児おんな、ということなんだね」

「はい。キリがいいと言われましたです」


 クァドラーが莞爾と微笑む。長い栗色の髪が床に座る彼女の両側に渦を巻いて、まるで抜け出すことのできない底無し沼のように、レイには見えた。



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