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3.物語の始まりと不穏な報告

 








 桃の花がひらりと舞う。グエンは荷物を纏めて家を出ようとしていた。





(その前に、墓参りか…………)





 俺の母が眠る墓へと向かう。この胸が痛むことはもうない。あのおぞましい夜を忘れることも無い。




(死んで黄泉の道を行くはずの、この身がまさか)




 好きな女性が出来た。自分でも、唐突に恋に落ちるとは思わなかった。



 美しい黒髪を揺らして彼女が笑う、下がり気味の瞳は艶々に磨かれた黒真珠のようで。




『グエン様。それではまた、明日。お待ちしていますね?』





 彼女の苦しみを取り除くにはどうしたらいいんだろう、一体。





(ズハンがこんなにも早く、俺を呼んだことも気になる。あいつ。さては何か俺に)






 隠していやがるな、と呟こうと思ったところで。先客を見つけた。父の妻だ。俺からすると義母に当たる。



 いつもの背中を曲げて庭の片隅にひっそりと佇む、石だけの墓前に手を合わせている。



 気まずい思いで桃の枝を握り締めた。



 適当に拝借したものだが、怒られてしまうだろうか。わざわざどこかで花を買いたくなどなかったのだ。それに金もあまり無い。



 いつも売っている漢方薬とて、そう高いものではない。



 辺りには桃の花が咲き誇り、すぐ近くには屋敷がひっそりと佇んでいる。



 この目の前に座り込む、義母に何と声をかけたものか。足元の芝生を踏みしめ、グエンはささっと自分の身なりを整える。



 こんなことでお小言を食らいたくはない。



 とは言えども今の自分の格好はいつもと同じく、ぼろぼろの黒衣と黒い沓なのだが。ほんの僅かにあった私物とも呼べるものは、白い布に包んで背負っている。






(……出て行くと。そう言ったからだろうか)







 この女性は本当に良くしてくれた。俺にも、母にも。



 俺が蘇って真っ先に喜んだのも彼女だった。泣いて「もう二度と会えないかと思った」と叫ばれて、強く抱き締められたあの時から。



 自分にとって「お母さん」とはこの女性だけである。そんなことをつらつらと考えていると、彼女が振り返った。



 白髪混じりの灰色の髪はそっけなく、しかし綺麗に纏めて低い位置でお団子にされている。そこへ黒に赤い玉がついた簪を差して、いつもと同じく灰色の上衣に灰色の前掛けを着て、灰色のふくらんだ(スカート)を履いていた。




 俺を見て、その皺だらけの黒い目を下げる。愛情深い仕草に何やら居心地が悪くなってしまった。



 側妻であった俺の母とも、彼女は仲が良かったのだ。いまだにその理由はよく分からない。




「挨拶に来てくれたのね、グエン。来ると思っていたわ、ここに」

「……奥様。えーっと、あー」





 お母さんと呼ぶのには、ちょっとだけ勇気がいる。



 しかしこちらの躊躇などお構い無しにずかずかと近付いてきて、ぐいっと黒襟を正され、その皺だらけの手と温度に居心地が悪くなる。




「あなたもね。この辺りのことはちゃんとしておかないと。あの家のお嬢様を貰うんでしょう?」

「貰うと。まだ、そう決まった訳じゃ……」

「決まったも同然でしょ、そんなの。ランレイから聞いたわよ。一目見て、恋に落ちたんですって?」




 そこでこちらが顔を顰めても母らしく笑って「単純なあなたらしいわ」と言い、ついでにささっと乱れた黒髪も整えられてしまう。



 視界が開けて、心配そうな母の顔がよく見えた。



「心配いらないよ」と言おうとして口を噤んだ。何となく、上手く言えないような気がしたからだ。






「…………あなたは。ずっと、彷徨っていたものね。まるで家が無い子みたいに」

「奥様。俺は……ここで、沢山のものを頂きました。いえ、頂いてしまったんです。だから」





 そこで怒った奥様がぴんと、こちらの額を弾いてくる。幼い子供のような気持ちになって、口の端を緩めて笑う。



 多分今度はきちんと笑えている。奥様も呆れたように笑って涙ぐんで、そして俺のことを強く抱き締める。別れの抱擁だった、紛れも無く。家族による。





「……淋しくなったら、いつでも帰ってらっしゃい。グエン」

「はい。…………お母さん」




 慎重にその音を呟く。太い背中へとぎこちなく手を添えていた。そうだ、いつだって帰ってこれる。でも。




「戻る気は。あんまり無いですけどね……」

「一年に数回ぐらいは、その顔を見せに来るんだよ? 何たって近所なんだからね?」

「いや。そういう意味じゃなくって」

「じゃあ、どういう意味なのよ?」




 母を安心させるために笑う。これぐらいは言っておかないと心配されるだろうから。



 それでもこれはれっきとした事実なのだが。




「あまり彼女から離れていたくないんですよ。目を離した隙に、春の風に浚われてしまいそうで」

「はぁ…………春の、風ねぇ」




 いまいちよく分からない、といった微妙な顔をされる。グエンは優しく笑って、先程折ったばかりの桃の枝をひょいっと投げて墓前に供える。




「ちょっと!? グエン!?」

「いいんですよ。母と喋りたくなったら、またいつでも呼び出すんで」




 その言葉にそうじゃないとでも言いたげに、むっつりと黙り込んだ。グエンは笑って墓を眺める。簡素な丸い石だけの、粗末な墓を。




 あまり凝ったものでは落ち着かないと、そう言っていたので。これからもあの墓は粗末なまんまだ。




 それでもこの奥様が毎朝、水と豚皮の揚げたものを供えている。母の好物だったから。




「忘れたんですか、奥様? 俺の母は死霊使いでした。そんな訳で俺もそうです」

「それは知っているわよ。でもね? 別に、世襲制でも何でもないんだし…………」

「ああ。ちょっと待って下さいよ、奥様」




 そこで両手を上げて、降参と言わんばかりに目を閉じる。付き合っていたらきりがない、このお小言には。




「俺は、死霊使いをやめるつもりはありません。そんで愛しいリーファ様と。結婚して幸せな家庭を築きます」

「そうね。向こうのお義父さんに、帳簿の付け方や仕入れのしかたをきちんと教わるといいわ」

「俺の話、聞いてました? まぁ、いいや。そんじゃ」





 くるりと背を向ける。背を向けて、寂れた庭を後にする。屋敷の正面の方は賑やかで農園の者も出たり入ったりするのに、ここはやけに静かだ。



 奥様が住む部屋と母の墓石があるここは。桃の木が咲き誇って、苔むした地面はまるで寂れた屋敷のようで。





「さようなら、奥様。どうぞお元気で。あと、はい。これ」

「なぁに? グエン」





 黒い懐を探って、その包みを放り投げる。年を取っても反射神経が良いのか、慌てたようにそれを受け取る音が聞こえてくる。



 振り向けなかった。照れ臭かったし、ある程度は淋しかったのだ。



 もう幼い弟妹に叩き起こされることも、彼女のお小言を聞くことも無い。まるで嫁にでも行く気分だった。それを考えると笑みが浮かんでくる。




「お誕生日の贈り物です。今日でしょ、誕生日」

「覚えててくれたのね? それなのに、あんたときたらもう。まぁ…………」

「簪。そろそろ新しいものに変えた方がいいですよ。もっと、明るい色の方が似合ってるから」





 乳白色の真珠が付いた、淡い紅色の簪を贈ってみたのだ。



 きっといつもは疲れて沈んでいる、顔色も少しは明るく見えるだろう。



 ぐしゃりと、包みを握り締めるような音が聞こえてくる。涙を堪えているような気配が漂って、自分の目頭も熱くなる。




「そんじゃあ。まぁ、どうも。長い間、お世話になりました」

「そういうのはね、グエン。馬鹿息子。ちゃんと顔を見て言うもんだよ、ちゃんと」





 ごくりと唾を飲み込む。この先を続けるのには勇気がいる。


 それでも何とか笑って振り返った。




「はい。ごめんなさい、お母さん! そんじゃあ、行ってきます!!」



 今度こそ奥様が泣いてしまった。ぐしゃりと皺だらけの顔が歪んで笑い出す。




「うん。行っといで、グエン。愛想、尽かされないようにするんだよ!?」

「余計なお世話だっての! ったく、分かりきってるよ、そんなことは……」




 くちびるの端が緩む。幸福そうに笑って、グエンは一気に駆け出した。




(さぁ、これからは)





 新しい人生が始まる。




(とりあえずは彼女の解呪だろ? ああ。それから、どこか茶屋にでも連れてってあげようかな?)




 どうやら、好奇心旺盛な性格のようだから。人でごった返している市場や城下街でもいいかもしれない。



 桃の花が美しく舞っている。久しぶりに全速力で走ったら気持ちが良かった。春の甘い風を感じ取って、期待に胸を膨らませる。




「さぁ、会いに行こう。彼女に。俺の大事な天女様が浚われてしまわないように」




 息を弾ませて、グエンは呟いた。


 早く彼女に会いたい、会いたくて堪らない。自分の私物が少ない方で良かった、これで彼女に早く会いに行ける。


























「お待ちしておりましたよ、グエン様」

「お前の出迎えはあまり嬉しくないな、ズハン」

「奥様がお待ちです。ささ、どうぞこちらに」

「俺の話、聞いてた? 俺の天女様は? 一体どこに?」

「奥様がどうも、直々に話があるようで。心配を取り除いて差し上げてください」






 どうもこいつは、俺の話を聞く気がないようだ。いつもの悲壮な顔で黒い門を開けると、俺を中へと招き入れる。



 ふとそこでこいつの年齢が気になった。前を歩くズハンの背中を見つめ、考え込む。流石に白髪は見当たらないが一体いくつなのだろう。




「そう言えば、お前。一体いくつなんだ? ズハン?」

「私ですか。私は次で二十八となります」

「二十八……? 二十八か、それは」

「老け顔とよく言われますよ。しばしば三十代後半に間違われます」




 お嬢様は十八歳だ、年の差はたったの九。そこで不安がもくもくと湧き上がる。




「護衛って言ったけどさぁ? ズハン? そのさ、お前さ、リーファ様と」

「ご心配なく、グエン様。私にも恋人がおりますので」

「へー…………そいつは知らなかった。どこの誰だ? っても、俺が知る訳ないか」

「メイリン殿ですよ。貴方の幼馴染です」

「俺、知ってた……知ってたよ……」

「それはそうでしょうね、貴方様の幼馴染ですからね」






 こいつ、命知らずにも程が無いか?




(そう言えば。俺がぐうたらしている間に、やたらと話し合っていたような…………?)





 腑に落ちない気分で屋敷内を歩く。遠くの方には陰鬱な雰囲気の屋敷が佇んでいた。



 その柱も壁も黒い。横に見える小さな屋敷も真っ黒で、何だか不気味なものを感じてしまう。



 そして人の気配が感じられない。ふと視線を感じて振り返ると使用人の子供か何かが、こちらを見ていて目が合った途端に、洗濯籠を片手に走り出す。




「…………なぁ? ズハン。俺」

「どうかしましたか、グエン殿」




 不思議そうな顔のズハンに何やら居心地が悪くなってしまう。グエンは気まずそうにぼりぼりと、自分の首筋を掻いていた。




「もしかして歓迎されてない? あとなんでこんなに人の気配が無いの?」

「店と屋敷は別ですからね。あとそれから」




 そこで振り返りもせずにあっさりと言い放つ。




「グエン殿は恵まれた環境で育ったのでしょう。どこもこんな感じですよ、成金の家とは」

「おぅい、おい…………仮にも、主人に向かって成金とはな」

「俺がお仕えするのはお嬢様だけですから」





 普段の一人称は「私」だが、どうやら本音を零す時だけ「俺」になるらしい。そんな新たな発見に目を瞠って、そういやこいつも二十代後半の男かと考えを改める。



 流石にそっけない返事だと思ったのか、ズハンが付け加えた。




「優しいのは、あの方ぐらいですからね。この屋敷で。ところでグエン殿は」

「んぁ?」

「一体、おいくつなのですか? 見たところ俺より年下に見えますが」

「…………三十五」

「さんじゅう、ご。ですか。それは……」

「幼女趣味だって言ったら殺すからな? 呪い殺す」





 その言葉にふっと鼻で笑う。嫌な笑い方だった、人を馬鹿にしたような。



 羞恥に顔が熱くなって、言い訳のように身の上話を始める。どの道いつかは言わなきゃいけないことだ、こいつと親しくなるのならば。





「俺は一度死んで蘇ったんだよ。死んでいた期間のほうが、長かった。それだけだ」

「死んで…………蘇ったと? 貴方が? まさか!」




 まぁ、信じて貰えないよな。予想通りの反応だったから特に気にはならない。



 横目で不気味な屋敷を眺めて、綺麗に整えられた地面を歩く。感心なことに雑草一つ生えていない。花すらも生えていないが。



 前を歩くズハンが動揺気味に笑って、こちらを振り返る。こいつのこんな表情を見るのは初めてだった。





「それともまさか。死霊使いの方は禁術でも操れるのですか? 自分が死んだあと、蘇るために?」

「俺の母が、その命と引き換えに俺を呼び戻した。たった、そんだけのことだ」





 その言葉にズハンが口を噤む。くちびるをきゅっと引き結び、また前を向いて歩く。動揺しているのか、やたらときびきびとした歩き方だ。




「ちなみに。…………グエン殿の死因は? 餅米の食いすぎですか?」

「何で俺の死因。そんなにださいやつなの? 訂正しろよ、訂正。その予想をさ?」

「失礼。貴方は中々に、食い意地が張っているようなので」





 動揺していた割には、やけにあっさりと信じるな。眉を寄せて深く考え込む。




(普通はもっと、信じないものなんだが……)




 こちらの動揺を悟ったのか、前を歩くズハンが愉快そうに笑う。その表情を見てみたい気がしたが、見せるつもりはないらしい。こちらを振り返りもしない。




「グエン殿は。嘘を吐かないでしょう? つまらない冗談はよく口にしますが」

「うえっ。何だよ、それ? 褒めるならもっと上手く褒めろよ? ズハン殿?」

「だからです。それに」





 そこでようやく振り返って、淡い微笑を浮かべる。そんな微笑みを浮かべていると、年相応の若者に見えた。




「大事なことほど、貴方は茶化さない。あっさりと酷く優しい言葉を口にする」

「んだよ、それ…………全然意味分かんねぇし」

「三十五が若ぶっても無駄ですよ。さぁ、グエン殿。奥様がお待ちです」






















 案内された部屋に入ると、昼間だというのに薄暗かった。そして奥の寝台には一人の佳人が座っている。



 心配そうな表情の侍女の手を握り締め、リーファそっくりの美しい顔立ちを伏せていた。彼女は黒髪を綺麗に纏めて桃の花の簪を挿し、淡い水色と桃色の旗袍(チーパオ)を着ている。



 そのゆったりとした袖と広がった裳裾(もすそ)には、桃の花と龍が刺繍されていていかにも良家の奥様といった風情だ。



 彼女は体調が優れないのか寝台に座って、侍女の手を握り締めつつか細い声を出す。




「貴方が、リーファの解呪をして下さる方ですね? 申し訳ありませんがもう少し、近くに来て頂けませんか?」





 戸惑って振り返ると、背後に立っていたズハンが「いいから、早くその通りにしろ」とでも言いたげに頷く。



 昼間なのに随分と薄暗い。それに彼女はとうに四十は過ぎているはずだが、まるで若い娘のように瑞々しく、その弱って顔を伏せた様子は思わず息を飲み込むほどに色っぽい。





(大丈夫なのか、これ? いや、まぁ。大丈夫か。何たって背後にはズハンもいるし。侍女だっているんだから…………)





 こちらを辛そうに見つめてくる、黒い瞳は美しかった。その切れ長の美しい瞳に戸惑いつつおそるおそる、なるべく刺激しないように近寄ってゆく。




 何故だか、背筋がひりひりとしていた。美しいのに妙な威圧感がある。



 本当にあの優しい、リーファを産んだ母親なのだろうか?




(でも、顔は本当にそっくりだな…………)




 背後でさらりと衣擦れの音がする。ズハンが手招きでもしたのか、それまで奥様の手を握っていた侍女がこちらを向いて見つめて、無表情で一礼するとあとは任せたとでも言うように去ってゆく。





(えーっ!? そりゃあないだろ!? えーっ…………!?)





 青ざめてズハンを振り返ると頼もしく頷いて、その侍女と共に頭を下げて扉を閉めた。顔色を失ったグエンは呆然と、その手をただひたすらに伸ばす。




 どうしよう、今すぐ逃げ出したい。が、しかし。彼女はいずれ義母となる人である。何を悩んでいるんだか知らないが、ここは話を聞いておいた方が賢明だ。



 そう、何せ俺にはあの美しいリーファ様がいる。それならば今ここで取るべき行動は。




「…………申し訳ありません。ご挨拶が遅くなりまして」




 先程までの動揺を打ち消して静かに膝を折り、頭を下げる。こちらからその顔は見えないが先程と同じく、哀しげな表情を浮かべているような気がした。





「ご存知かとは思いますが、リン家の息子のグエンと申します。以後、お見知りおきを……」

「道理で、あの子が気に入るはずだわ」





 そんな声と共にくっと、顎が持ち上げられる。一瞬眉を顰めそうになったがぐっと耐えて、その美しい瞳を見上げた。



 何せこの婦人は彼女の母親だ、嫌われたくはない。



 真っ直ぐに見つめ返すと、ほんの僅かに黒い目を見開いて妖艶な微笑みを浮かべる。



 毒婦だとかいう、不穏な単語がよぎった。あまりにも彼女と似ていない、その雰囲気も不穏な色気が漂っている切れ長の黒い瞳も。





「グエン殿は目が青いのね? 美しい色だわ。まるで冬の海のようで」

「…………ありがとうございます、奥様」




 他になんと言えばいい?



 こちらの気持ちを無視して、彼女がにっこりと少女のように笑う。ふっと顎から手を離して、こちらを見下ろしてくる。





「名乗るのが遅れたわね。初めまして、グエン殿。私はリェンファ。ご存知だろうけどリーファの母親よ。呪具を産んだ覚えは無いけどね」





 その言葉に違和感を感じる。どこか歪で、人とは何かがずれているような気がする。




(気鬱の病なのか? いや。でも、この独特な感じはまるで…………)




 狂った人間のようだ、とは続けられなかった。



 彼女が俺の手を取って悲しげに顔を伏せたまま、手の甲をゆっくりと擦り始める。ぞわりと背筋が粟立った、冥界の者のような気配がする。




(不気味な、人だな……!! くそっ、ズハンの奴! 俺のことを見捨てやがって!!)




 ああ、早くリーファ様に会いたい。




 俺の時間はリーファ様のためにあるというのに。こんな所で時間を潰していないで、早く彼女に会いに行きたい。



 彼女だって今頃はずっと、俺が早く来ないかなと思って首を長くして待っている頃だろうに────……。






「あの子は。何かと面倒な子だけれど。よろしく頼むわね、グエン殿」




 これが母親の台詞だろうか?




「面倒だなんて、そんな…………彼女は。お嬢様は俺の天女様ですからね」




 奥様が不愉快そうに眉を顰める。そして俺の顎を掴んで持ち上げて、驚きの言葉を口にするのだった。




「あの子に飽きたら、いつでもいらっしゃい。待っているわ」


























「あー。リーファ様は俺の癒しです。これだけでもう、生きて行ける……!!」

「この男は、何をアホ臭いことを言っているのかしら?」

「黙れ、呪具。俺とリーファ様の邪魔をするんじゃない!」




 その言葉にきゅっと、眦が吊り上がる。彼女が俺の頭を撫でながら苦笑した。



 すっかりくたびれてしまった俺は、早く酸素が吸いたい気持ちで婚約者の部屋に直行したのだ。俺が乗り気だと知れば「それなら婚約者でいいだろう」と、リーファ様のお父様がそう言ってくれたらしく。





(まぁ。今は、仕事が忙しいみたいだからなぁ…………落ち着いたら食事会か)




 こちらに誘いをかけてきた、リーファ様の母親を苦く思う。が、しかし。今は寝台へと寝そべって彼女に膝枕をして貰って、この世の春を謳歌している最中だ。




 余計なことは考えないでおこうと、グエンは口の端を緩めて幸福そうに笑う。




 それなのに目の前に立った呪具がその顔立ちを険しくさせて、こちらを睨みつけてくる。




 非常に邪魔だ、何なら今すぐにでも殺してやりたい。その目に痛い唐紅の衣も何もかも気に食わない、排除したい。




「姉さんにあまり、べたべたしないでくれる? 三十五にもなって恥ずかしくないの?」

「俺が死んだのが十八で、蘇ったのが二十四だ。気分は永遠の少年なんだよ」

「意味分かんない、それ。姉さん。本当にこんな男でいいの?」




 少しだけ不安に思う。いや、とても不安に思う。こんなにべたべたしていて、彼女に嫌われたりしないだろうか?




「もしそうなったら俺は死ぬ!! もう一度俺は死にますからね!? リーファ様!?」

「えっ、ええっ!? ぐっ、グエン様!? 一体、どうなさったのですか?」





 寝台から飛び起きて、その白魚のような手を握り締めると。彼女が黒い瞳を困惑気味に揺らしてこちらを見上げてくる。



 今日は昨日とは違って、透けるような淡い桃色の襦裙を着ていた。どこからどう見ても地上に舞い降りた天女よりも可愛くて美しい。



 思わず口付けをしたくなったが、嫌われたくないのでぐっと堪える。





「こんな風に。貴女にべたべた触れる男は嫌いですか? リーファ様?」

「嫌いに決まってるじゃない。適切な距離を取りなさいよ、適切な距離を」

「黙れ、呪具。お前には聞いてねぇんだ。それから今すぐさっさとこの部屋を出てって、俺とリーファ様を二人きりに…………あでっ!?」





 そこで思いっきりごおんと、頭にお盆のような物体がふってくる。苛立って振り返ってみると、そこにはむっつりとした表情のズハンが黒い盆を持って立っていた。





「奥様とのお話はどうでしたか? グエン様?」

「俺を見捨てて、逃げやがって! 末代まで祟ってやるよ、ズハン。もっともお前があのメイリンの料理を食って死なないなら、だけどな!」





 へっと鼻で笑う。渋々と赤い顔のリーファ様から離れて、柔らかな寝台へと座り直した。しかし手はしっかりと繋いでおく。恥ずかしそうに身じろぎをしているので、更に強く強く握り締める。可愛い、好き。




「元々、彼女に惚れた理由はそこなんですよ。とっても料理が美味しかったんです」

「本気かよ、お前。それって……」




 あまりの衝撃に言葉が続けられない。



 こんな時こそ婚約者の手を握り直すべきだと判断して、両手で握り締めていると目の前に立ったリンファが嫌そうに顔を顰めていた。




「あれだなぁ。人間じゃあ、無かったんだなぁ…………お前。さては高位の妖魔だな?」

「俺はれっきとした人間ですよ、グエン殿。そして、彼女とは年内にも結婚する予定です」

「色々と早すぎる! 何も若い身で死に急ぐことは無い。今からでもいいから、その話は考え直すべきだぞ?」





 平然とズハンが、どこからか熱い茶を持ってきて俺に手渡してくる。受け取るためには、彼女の手を離さなくてはならない。




(こいつ…………嫌がらせのつもりか? いい度胸だ。さっきといい、今といい)




 渋々、本当に渋々、彼女の柔らかな手を離す。もういっそのことずっと繋いでいたい。



 熱い茶を啜ってみると、ふんわりと花のような香りが漂ってきてお高いものだと分かる。目の前に立っていた呪具のリンファも彼女に促され、渋々と寝台へと腰掛けて茶を飲み始めた。



 ズハンがいつの間にか胡麻をまぶした饅頭の皿を持って、こちらをじっと見下ろしてくる。何を考えているのかはよく分からんが、意外と面倒見の良い男だった。




「あー……うまい。これ。どこの茶なんだ?」

「貴方のお姉様から頂きました。何でも婚約祝いなのだとか」

「うぇっ……あいつらもあいつらで、何かと耳が早いなぁ」





 ズハンの言葉に思わず顔を顰める。これからもよってたかって婚約祝いに結婚祝いだの何だと、上の姉と兄たちからどっさり、いる物もいらない物も含めて大量に贈られてくることだろう。





「あの家で。異質な俺に、ご苦労なこって…………」

「グエン様? グエン様は異質な存在なのですか?」





 不思議そうな彼女の言葉に笑う。



 饅頭を貪り食いながらも何となくその黒髪を梳かして、優しく見つめるとぼっと顔を赤くさせたので死にそうになった。可愛い、襲ってしまいたい。




「俺だけ腹違いの兄妹なんですよ。もしかしたら、いずれ。そんな話もするかもしれませんね」

「そうですか……それじゃあ、無理に聞き出さないでおきますね」




 照れたようにリーファ様が笑う。



「なっ、何て素敵な女性なんだ……!! すみません、誤解させちゃいましたよね!?」

「いちいちどうしてお前は、その手を握るのよ? 離しなさいよ、姉さんの手を」

「俺はこの手がないと生きて行けないんだ。生まれた時からそう、定められているんだよ」

「堂々と嘘を付くのをやめなさいよ、あんた……」

「あははは…………二人とも、落ち着いてね? あとそれから」





 そこで彼女が恥ずかしそうに顔を伏せる。永遠に見ていたい。これだけで時間が無限に潰せる。



 人生を無駄にしてしまいそうだ。



 いや、彼女の顔を見て過ぎる人生ならば。文字通り死ぬほど有意義な人生だろう。




「グエン様。その。貴方の在り方を否定する訳ではないのですが……どうぞ、リンファのことはリンファと。そう、呼んでいただけませんか?」

「分かりました、リーファ様。俺が全部悪かったと思うので、今度からはこの御方のことを、リンファ様と、そう呼ぶことにしますね・・・・・・!!」

「信者かしら。お前は。姉さんの」

「そうだよ。今頃気が付いたのか?」





 そこで焦る彼女をよそに、呪具のリンファと睨み合っていると。ズハンが無表情でぼそりと、もっと早くに教えて欲しかったことを口にする。




「そうだ、グエン様。リーファ様は今現在、命を狙われている状態なのです。それなので明日からは身辺警護もお願いできますか?」












グエンが「死んでいた期間のほうが長かった」と言っていますが嘘です。嘘というか照れ隠しです。実際はそう長くもありません。年齢にコンプレックスを抱えているので嘘を吐きました。

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