とある魔王とその側近の話〈後編〉
嵐は何時の間に、そしてどこに消えたのだろう。
あれほど窓の外で荒れ狂っていた雷は彼方へと消え、空を覆い尽くさんばかりに立ちこめていた黒雲の隙間からはまるい月が顔を出し、月影さやかな夜の空気が二人をやさしく包んでいた。やがて白く、やわらかな手がルルシャルクの両頬にその感触を慈しむように置かれる。細い指先がその眦に浮かんだ涙の粒をそっとほどいた。
「ルル様、ルルシャルク様。吾が君、私の最愛にして最も大切な御方様」
エリスステラの宥めるような優しい声と両腕がルルシャルクの小さな身体とこころを引き寄せ、包み込む。我知らずとしゃくり上げていたその背を宥め慰めるように掌をがあてられ、その指がやわらかな黒髪をやさしく梳かし撫でる。まだ子どもらしさを残したその背は小さくあたたかで――体温をうつした黒髪は艶やかさとやわらかさを備えており、梳かすそばからさらさらと指の先へと流れていく。そのやわらかな感触がエリスステラに無上の幸福をあたえる。だがルルシャルク自身は、といえばこみ上げてくるものを呑みこむことにただ、ただ必死だった。
「エリス……俺は、俺はいつまでもチビじゃ嫌だ。今のままじゃ嫌なんだ。早く成体に、真の魔王になりたい……」
それは小さなつぶやき。小さな祈りにして願いの言葉。
その唇から転がり落ちた本心はエリスステラに向けているようで、それでいて自分自身に言い聞かせているかのようにも聞こえた。その身体はまだ小さくて、大人びた振りをしていてもその精神もまた、その身体と同じくらい未熟で幼いというのに……彼の喉の奥、胸の奥底からこみ上げてくるものは願いの言葉。己へのもどかしさと今、自身が背負うものには見合わない、寸足らずだという自分自身への認識の苦さだった。
どれほど多くのものがその小さな肩に、背にのし掛かりつつあるのか。それはルルシャルク自身も、完全に理解できているとは言い難い。しかし、五十四という幼さながらも……彼にもうすうす分かることがある。聡い彼だ、気づくことも、思うこともあるわけで。
未熟だ、というだけではない。その小さな身体にはまだ受け止めきれないものがある。炎帝という称号にはまだ足りない。魔界を統べる魔王という事実を受け止めようにも追いつけないことがもどかしく、自分自身が許せないのだろう。
だから大人ぶってみせる。背伸びをし、まだ少し先にある大人の階段へと懸命にそのつま先をかけようとするのだろう。
だがそんな彼にエリスステラはどうしても伝えたい願いがあった。
臣下として——彼の最も側近くに侍る一の者として。
「ルル様……あまり早く、大人にならないで下さいまし」
「え?」
ルルシャルクの僅かにつりあがった眦が丸く見ひらかれた。その濡れた黒の瞳に映り込む己自身を見つめながらエリスステラは祈るようにちいさく、息をつく。その瞳のいろに、自ずと過去という郷愁への途をたどろうする自らの記憶に蓋をするために。そして現在、目の前に確かに在るルルシャルクへの想いのために。
「私は……いえ、皆が今のルル様ご自身を慕っております。支えになりたいと心より思っております。ダンタリオン殿もエリゴス公もムールムール侯爵も……他の魔界の者すべてがそうです。ですから、あまり急がないで下さりませ。そのまま、焦ることなくお心のままにごゆるりとお育ちあそばされることこそが我ら配下一同、心からの願いにございます」
「エリスステラ……」
ルルシャルクの眦から頬へと伝う透明な滴が描くその軌跡を、エリスステラの優しい指先がゆっくりとなぞり上げ、そっと拭き取る。魔王の、ルルシャルクの涙を目にするのも、それを拭き取ることができるのもエリスステラ唯一人。その役目、というよりも僥倖に恵まれているということにエリスステラが仄暗い歓びを得ているとも知らずに、全幅の信頼を寄せてくる小さな魔王がエリスステラにはたとえようもないほどにいとしく――そして、同じくらいにつらかった。
だが、そんな感傷は押し殺して心からの言葉を伝えるべく、エリスステラはこころからの想いをこめて微笑みかける。
「ルル様は一日も早く成体になられることを望んでおられるようですが、幼い頃は一時のこと、いつかは遠くも懐かしい過去となることです。戻りたくとも戻れない、想い出したくとも想い出すことすら適わなくなるときがいつか必ずまいります。ですから、その真っ直ぐなおこころを大切にしてくださりませ。どうか、この時間を疎まれなさいますな。今を厭い、焦るのではなく時間を友となさりませ。ルル様は私を口煩い、邪魔な奴とお思いかもしれませんが、私は――エリスステラめは、いまのルル様にお仕えできることを心から倖せに思っておりますよ?」
「……エリス?」
ルルシャルクはどこか戸惑ったような、驚いたような表情で傍らに膝をつく側近にその目を向けた。エリスステラの表情は確かに微笑みを浮かべているというのに、その青に金の瞳孔の瞳はまるで泣き出すのを我慢しているかのように見えてしまうのはルルシャルクの気のせいなのか。その顔を見ていると、胸の奥が再び沸きたつ。先ほどとは異なる、別の熱いものがこみ上げてくる。そっと手を差し出し、その白い手を取れば、その指はやわらかくもつめたい夜風の温度に冷え切っていた。
「エリスステラ」
もう一度、幼い頃から何度も呼んできたその名を呼ぶ。あの頃からもっとも近しく、そして遠くも感じる存在の女性の名を。未だ幼さを残してはいるものの、日々握りしめた剱と手綱の跡が硬く刻みつけられたその指が、掌が確かな質量をもってして伝えるべく若い女の指先にぎゅっと絡みつき、その掌を包み込んだ。魔王の声は魔の声、その呼び声はすべてを引き寄せ、奪い去る。その手はすべてを手にするのだから。
「俺を、誰だと思っている?」
腹の底から響くような低い声が、夜の帳のおりた靜かな室内に染みこむように響く。言葉遣いは王らしからぬ乱雑さながらも、それに含まれた音はまさに魔王そのもので。
長椅子の横、ルルシャルクの傍らに膝をついた姿勢のままエリスステラがは、と顔を上げればこちらを見下ろす目と目があう。勿忘草にも似た青いその瞳を射抜くその瞳の色は黒曜石にもなぞらえられる漆黒で。子どもとは思えぬその目差しがエリスステラを絡め捕り、小さくも硬い感触のその掌がエリスステラの頭を引き寄せ、小さな胸板にその顔をぐりぐりと押しつけた。
思いがけないルルシャルクの行動にエリスステラは顔こそ表情はなくとも、内心に沸き起こるさざ波に戸惑った。一の側近として、腹心としてこれまでに重ねた年月のなか、ルルシャルクの小さな身体を抱きとめたり、抱きしめたことはあっても、抱き締められることに慣れてはいない。いきなりのことに床に両手をつき、咄嗟に身を離そうとするも、驚くほどその腕の力は強かった。
「ちょ、る・ルル様? なにを……むぐぅっ……」
「俺は! 俺は現世の魔王にして炎帝の名を継ぐモンだぞ? 最も旧き血の継承者、最強の炎の魔王ルルシャルク様には怖れも、不可能の文字も、たとえガキな今でもひとっ欠片の不足なんかもねぇ。ねぇったらねぇんだ! この俺が、俺様が言うんだから間違いねぇ! だから、だから……すぐにでっかくなる。いんや、俺は確かに見た目は子どもかもしれねーが今も十分に大人だ。少なくともお前をこうできるくらいにはな。分かったかこんちくしょー!!」
小さな身体がエリスステラの頭をその胸に閉じ込め、その掌がわしわしと、つい今この瞬間まできちんと結われていたエリスステラの金髪を乱暴に乱した。挙げ句、頭を抱えられたまま、両の羽耳の薄やわらかな部分をふにふにとつままれてはいくら冷静という名の仮面に慣れ親しんだエリスステラとてたまらない。おまけにとどめとばかりにどんな殺し文句だそれは。わざとなのか、悶え殺す気なのか、そうなのか。
床に跪いた体勢のままルルシャルクの胸に顔を押しつけられる、といった格好のエリスステラの手が戸惑ったように、何かを探すように床を彷徨い、やがて諦めたようにおずおずとその背に両手を回した。顔は見えない。しかし、その両の羽耳だけはひょこひょこと上下を繰り返していた。
そしてそんなエリスステラを(見た目も魔界年齢も)子どもらしく整った顔に、どこか満足げな表情をこめたルルシャルクがにや、とばかりに見下ろした。
「エリスステラ、俺は王だ。王は失敗もするし反省もするが過去は振り返らん。前へ、前へと進むのみだ。俺の前に道が示されることはないが、俺の後ろに道はできる。だから、お前は俺の背中を見ていろ。俺様の後ろに連なる道、王の道を憶えておけ。それがお前の役目だ。だから――」
そこでルルシャルクはひとつ、呼吸をおいた。強気な言葉を吐いたそのくせに、上顎を精一杯上向け、その視線を宙へと彷徨わせる。ここは夜のいろに染まった部屋にもかかわらず、その褐色の頬が夜目にもうっすらと分かる程、ほんのりと薄赤く染まっていた。それを胸元に頭ごと押しつけられたエリスステラには見えていないのをこれ幸い、とばかりにルルシャルクは次の言葉を続けた。
「だから、あんま俺を子ども扱いすんな。甘やかすな。おまえやダンタリオンや他の野郎共が今のままでいい、焦るなっつーのも分かる。だけど多少無茶しようが背伸びしようが俺は俺だ。まだガキな部分ぜんぶひっくるめて”俺”だ。だからおまえは、エリスステラは俺ごしに誰かを見るな。その誰かの影を俺に重ねて不安がるな。俺を見ろ! 信じて、黙って俺についてきやがれ!」
それは叫びにも似ていた。
「王を宥めるのも、道を諭すのも部下の役目ですから」常に冷静な態度を崩すことなく、エリスステラはルルシャルクの傍らに控えてきた。しかしどんどん前へ、自らの道をこけつまろびつしながらも走りはじめたルルシャルクを見つめる彼女の瞳が時折陰る瞬間がある。子離れにも似た淋しさ? 主を心配する過保護な部下? 違う、そうじゃない。それは――未来への不安に畏れながら過去を見つめる瞳だ。未来でなく、現在でなく、ルルシャルクの知らない過去がそこにある。そして、それが疎ましくもルルシャルクの中に焦燥感を募らせるのだった。
だがそれをルルシャルクが問い詰めるわけにはいかない。だから急いで、過去が追いつかないほど前へと早く進みたかった。怒られようと、呆れられようと――たとえ泣かれても。
ルルシャルクの腕が緩み、その胸の中からゆっくりとエリスステラが顔を上げた。常ならば人形のように綺麗であれども、知らぬ者には余所余所しくも映るその顔に、紅を刷いたよりもなお色鮮やかな朱色が挿している。その青い瞳が揺れる水面のように潤み、目の前のルルシャルクにだけ注がれた。ゆっくりとその唇がひらかれる――ただ一言。
是の言葉をつむぐために。
「はい、ルルシャルク様。私の――吾が君よ」
その瞳に映る彼はもはや幼い子でなく、未来へとその両翼を広げるべく羽化を遂げた姿であった。
* * *
この一件で何が変わるか、といえばそうではなく。
ルルシャルクが一気に大人っぽくなるか、エリスステラの小言と過保護がそのなりを潜めるかといえば、そうは都合良く進まないのが世の常で。
エリスステラのルルシャルクを見る目は多少変化があろうとも、ルルシャルクとていきなり大人になるわけではないし、突然、一夜にして背が伸びるわけではない。そこはそれ、”大人”と言えども苦手なものはあるし、譲りたくないこともある。ある日突然大人になるわけではないし、むしろ子どもじみた所もあるからこそして……。
「俺はもう大人だと言ってるだろうが! だから一人前の男扱いせよ、エリスステラ!」
「一人前……へぇ、そうですか。じゃあ、ルル様。一人前だと、男だと仰るのなら、もう私めの添い寝は必要ありませんね?」
「え?」
「一人前の男ならばお一人でご就寝されたいでしょうし、おやすみのキスもいりませんよね?」
「え? え?」
「もちろん、お風呂も一人で入れますよね? お背中も私ごとき女が流さずとも、ご自分でできますわよね?」
「ええええええ?」
ルルシャルクとエリスステラ、二人の主従間に打ち寄せる微妙な変化の波に気づきつつも、魔王城にこだますあいも変わらぬ応酬に、異相の公にして宰相閣下ことダンタリオンは愉しげにその細く切れ長の目をさらに愉しげに細め、その傍らで魔界侯爵ムールムール公は太く男らしい眉を顰めて溜息をついた。
「ぐぬー。子ども扱いする生意気な側近め! お前なんか、お前なんか、俺様が成体になった暁には嫁にしてやるんだからな!」
「はいはい」
魔界は今日も平和です。




