とある魔王とその側近の話〈前編〉
以前拍手ページに掲載していたお話です
闇があった。
それは黒をも喰らう漆黒の闇。血よりも濃く、嘉酒よりも芳しいもの。麝香の香よりも芳醇な闇の気配を纏いしもの。
それを”魔”という。
真の魔はあかるく、また昏くもある。その腕は常にすべらかで、白夜のようにやわらかな光を放つかと思えば、瞬く間に昏く、闇の谷底に叩き落とされるような恐怖と闇をそのなかに抱えている。
真の魔はつめたく、また熱くもある。その杯は常になみなみと、溢れんばかりに満たされているかと思えば、瞬く間に澱み、干ばつという焔に燃える炎の大地の如く干上がるような乾きをおぼえている。
魔は矛盾に満ちている。
だがそれも悠久の時を生きる魔の性質ゆえ――特に若き魔はそうと言えよう。この世のすべてを知るために、そして己自身を識るために魔はただひたすらその指先を伸ばす。求めるために、憶えるために、忘れ得ぬために、満たすために、そして失わぬために。
或いは――喰らい尽くすために。
魔界の闇夜にましろの閃光がきらめく。轟音とともに降り注ぐ光の矢が真っ黒な雲に覆われた空を破り、魔の夜を薄暮の如く白い世界に浮き上がらせる。
それは嵐。それは歓喜。それは魔を讃える歌。
なぜならばそこに闇よりもなお濃く、光よりも眩しく艶やかな魔の気配があるのだから。
雷雲を引き寄せ、雷を飼い慣らし、雨をも自在に操る魔の存在が。
黒雲に覆い尽くされた空の下にその城はあった。
切り立った崖を背に、足下はとぐろを巻くようにぐるりを鬱蒼とした森に囲まれたその城は、見た目の華美に走るよりも頑強さと守備に重きをおいた造りとなっており、城というよりも城砦と呼ぶほうが似つかわしい。
少し視線を全体へと廻らせれば誰しもがすぐに気づくだろう。頑強な城の四隅からは天に突き出す剣の如く、四本の支柱のような尖塔がそびえ立っていた。
そこから先、さらに尖塔の先からは太く長い頑強な銀色の杭が突き出ており、それは竜の前脚と呼ばれるもので、飛竜で塔に降り立つ際の止まり木としての役割を担っているものだ。
これは先々代の魔王が作らせたもので、空と飛竜をこよなく愛した王は執務の合間ごと、暇をみては尖塔に上り、そこに羽を休める飛竜と語り、彼らと共に空を駆ることを好んだ。それからはるか幾年幾百年か千年か。魔王の代も変わり、はるか年月を経た今も黒雲の下に変わらぬ銀色の光を放っている。
そして今この瞬間、その頭上にまたひとつ、閃光が瞬く。
視界だけでなく、呼吸さえをも奪いかねないほどに焼けつくようなその瞬きは、大粒の雨粒を引き連れてこの地へと降り注いだ。
冷たい雫が無骨な城を冷たい雨の色へと濡らし、染め上げていくその様は、濡れた指先でなぞりあげるかのように素早い。
そしてそれは四つの尖塔のひとつ、かの魔竜マギダ・ドラグが愛用したという、もっとも大きな竜の前脚の下にあるこの居室においても同じだ。
天上に届かんばかりの高さに設えられた見事なフランス窓はこの暴風雨にもかかわらず開け放たれており、おおきな雨粒がはためくカーテンすらも押しのけて、荒れる勢いのままに室内へと降り注ぐ。
そして今、その冷たい雫が絹織りの敷物の、濃い臙脂を濡れ色に染めあげていく様を見つめる一人の男の姿がそこにあった。
燈ひとつ灯されていない室内は暗く、瞬く閃光の白のみが男の輪郭をその暗闇に浮かび上がらせる。
男は窓に向けて誂えられた大きな長椅子の、その肘に背を預けるように寝そべっていた。膝に置いた本の頁が風に乱れるのも構わず、乱雑に投げ出した脚は真っ直ぐに伸びており、膝上までを包む長靴は元は濃い柿渋色だったであろう、くすんで履きこんだ風合いこそあるものの、いまなおにぶい革独特の光沢を放っている。
一方、着崩すようにかるく羽織った上着は飾り気のない黒で、いかにも実用重視で簡素な造りだ。だが、男性にしては細みな上半身にぴたりと馴染むその線が、仕立ての良さと生地の質を示している。
そしてその額にかかる髪も、瞳の色もまた黒で――指先がうるさげにその前髪を目元からはらえば、射干玉の緑の光沢が艶やかにもその光を映した。
「この嵐に雷精が悦んでおるわ」
男がひそやかに呟く。そのすこし高めの、溢れんばかりの魔力と若さのなかに艶を含んだ声もまた愉しげで――くつくつとこみ上げてくる笑いに、かたちよい唇が自ずとゆるめられる。
揺れる魔界の大気は精霊達を呼び起こす。
荒れ狂い、乱れ咲く雷鳴は踊り狂う雷精の舞にも等しく――閃光の狭間に入り乱れ、悶えるように舞う雷精の白い裸身が浮き上がる。男から漏れ出す魔力に引き寄せられた雷精たちが男にもっと、もっとと強請るようにその小さな裸身を官能的に揺らし、捩らせながら幾千の光となって空を踊る。
そして、その狂宴を見つめるその瞳はつい先刻までの漆黒から、いつのまにか揺らめく炎のような緋色に染まっていた。
それこそが男の本性。真の魔の証しにして今生の王たる所以。男の魔力のなせる業。
彼の男こそが神の記憶よりも旧くより存在する魔の正当なる後継者。炎帝の称号を掲げ、魔剣レーヴァフルボルリンデを傍らに侍らすことができる唯一の魔の君。その名をルルシャルク・ライスリール・モルガナ・カツォーネルフ・グリュクバルド・エピルローデ・リーヴィス……(以下略)という。
真の魔は夜を好む。真の魔は嵐を好む。そして真の魔は濡れた漆黒に擬えられるとともに――同じほどに緋を好むのだ。
男は今や完全に深紅に染まった瞳を窓の外、荒れ狂う空へと向けた。瞳だけではない。今や手が、全身が燃えるような熱をもっている。その感覚はつま先から指の先までじわり、じわりと……徐々に熱が伝わり、やがて内側に点った炎が野火のように全身へぱっと燃え広がっていくかのようだ。
しかし――それがけして不快だというわけではない。むしろ男にとっては心地よいぐらいで。
漆黒の瞳が紅にいろづくように、その身の内側に溢れだす魔力がちろちろと舌を伸ばしていく高揚感。その心地よい感覚に男はその身を委ねながら、なみなみと満たされた酒杯をゆっくりとその唇へと傾けた。絡まる蔦と燃え上がる焔を模した、細かい意匠を凝らした杯は銀細工で、その冷たい金属の感触が熱を持った掌にじんとつめたく染みわたる心地よさ。熱をともした唇が杯と出会う。僅かにできた隙間から男の下唇をつぅっと伝い、零れ落ちたその雫の色もまた紅で。その色が男の浅黒い顎に落ちたその瞬間――
バタンッッ!!
「何してるんですか、こんな暗い部屋で。目が悪くなりますよ?」
凜とした声とともに男の背中側にある扉が大きく開かれる。つかつかという足音が響いたかと思えば、暗かった室内にあっという間に光が満ちた。
「ルル様」
突然の光にぱちぱちと眩しげなまばたきを繰り返しながら男――ルル様と呼ばれたその男は、静かながらもあからさまに険を含んだその声音にぎくり、と肩を震わせた。先ほどまでの荒ぶる魔力はどこへやら、あっという間に霧散し、灯された光とともに魔の気配も押しやられる。
そして、明るい光の下に晒されたその姿は意外なことにも男と呼ぶには若かった。いや、若すぎるほどだ。見た目年齢で言えば十二・三といったところだろうか――そのやわらかに丸みを帯びた頬とまだ薄く幼さを残した胸板と、小さな肩幅の見た目からも少年と呼ぶのが似つかわしいくらいだ。
だが今は。
その瞳に浮かんだ後ろめたさと若干の怯えの表情とともに――彼はそろそろと、と長椅子の背にその身を潜めようとするも、あっという間に靴音高く回り込まれる。恐る恐る視線を上げたその先に、無表情といえるくらいに靜かな表情の若い女が立っていた。女、といっても人間ではない。丁度耳のあたり、きっちりと結った金髪の隙間からは白い羽ばたきにも似た耳のようなものがふたつ、ぴんと突き出ており、ときたまひくひくと動いている。服装は、といえばサイズこそ身体に誂えてはあるが、飾り気の欠片もない無骨な男物の軍装とかっちりとした焦茶色の長靴に身を包んでおり、革ベルトで留めた長衣の裾からはこれまたふさふさとした見事な、白い羽毛に包まれた尾が扇のように広がっていた。
そして女は少年とその膝に開け放したままの本に対し、静かながらもどこか咎めるようなものを含んだ一瞥を投げかけたのであった。
「ルル様」
ぴしり、と空気に緊張が走る。
丁寧ながらも冷たい声音でもってして、改めて愛称を呼ばれれば少年のちいさな肩がぎくり、と震えた。この声音はよく知ったもので――そう、エリスステラの長くも……やっぱり長い”お小言の声”だ。そしてエリスステラがこの声を出すときは、そう簡単には解放を赦されないということを彼は知っていた。それこそよーく知っていた。これまでの経験上、その尊き御身をもってして。
* * *
エリスステラはこれまでに何度も言ってきたことばをルルシャルク相手に繰り返す。くどくどと聞き分けのない幼子に説き聞かせるように繰り返し、繰り返し、それこそまるで繰り言のように。一方肝心のルルシャルクはといえば、別に命じたわけでもないのに律儀に長椅子の上で身を正し、しょんぼりとエリスステラからのお小言をうけている。
その姿は子どものようであり(実際、見た目でも魔界年齢でもまだ子どもなのだが)、悪戯を叱られた仔犬のようでもある。……少なくともこの魔界全土を統べる魔王には見えないことは間違いないし、とてもじゃないが見せられたものではないのだが。
「何度申し上げればお分かりいただけるのですか? あれほど私が暗いところでの読書と夜の雷精召還は駄目だと、目が悪くなりますまだ早いです大人の遊びはいけません子どもは見ちゃダメです六十五歳禁ですと再三、まさしく耳にたこができるほど再三に申し上げているにも関わらずまだ足りないとでもおっしゃるのですか?」
「え、エリスステラぁ……」
「エリスステラぁ、じゃありませんよまったく。雨雲だけなら私もこうまで申し上げません。なんですか、雷精まで山ほど喚んで! 夜の召還はまだ早いと、お身体と目の毒ですと私とダンタリオン殿が先だってもあれほど……あ・れ・ほ・ど・口を酸っぱく申し上げたにもかかわらず、まったくお聞きになっておられなかったのですね。夜中にバルバルと大きな音を立て、ピカピカ光りながら走らせるのは人の界では『フリョーにしてヒコー。ヌ・スーンだバイクでMajiでダッシュする五秒前』のはじまりらしいですよ? おまけにルル様はただでさえここのところ夜更かしが過ぎておられますのに、刺激が強すぎて夜眠れなくなります。そしてこのせいで目までもが悪くなったらどうなされますか? 眼鏡の魔王など、ましてや『魔王様はど近眼』などと呼ばれたら格好悪いでしょうに。まったく、今生の魔王ともあろう方がそのようであらせられては、部下達にも示しがつきません!」
これだけの言葉を澱むことなく、エリスステラと呼ばれた女は一息に言い放ったその後で、牛乳瓶のような瓶底眼鏡姿のルルシャルクを思い浮かべたのか、綺麗に整った顔に構うことなく盛大に顔を顰めてみせた。そんな彼女の表情にルルシャルクはびくりと肩を震わせ、手にした杯をそっと床へ、長椅子の下へと隠そうとするも時すでに遅し、高性能センサーの如きエリスステラの鷹の目を逃れるなど、どだい無理なはなしであった。
「あ! 何をこっそり飲んでいるんですか! 寝る前の水分はお控え下さいとあれほど申し上げましたでしょうに!」
「いや、その……ほら、魔王らしい演出の練習の小道具にだな……」
「何が演出ですか!……ほら、口! 零してます。顎にもついておりますよ?」
「失礼します」との断りの後、エリスステラは懐からさっとばかりに取り出したハンカチで、ぐいぐいと彼の口元と顎にこぼれた雫を拭い取る。しかし、たとえ言葉はきつくとも、その手つきは意外なまでに優しくて――魔王こと、エリスステラの呼ぶところのルル様こと、ルルシャルクはうっとりとそのやわらかな手と胸の感触に身を委ねた。だがそんな甘い? 感覚もつかの間のこと。エリスステラの次なる小言が、その甘い感覚に今まさに酔いしれんとしたルルシャルクの背に即座に冷や水を浴びせた。
「まったく我が君ときたら! またおねしょしても知りませんよ」
「お、おねしょ!! そんな俺がまだチビだった頃の……何十年も前のことをぐちぐちと……! 我は魔王ぞ? この程度の酒なぞ取るに足らぬ。むしろこの魔界ごと、我に捧げられし供物としてすべて飲み干してくれるわ!」
「とか仰いますがこれ、ブラッドオレンジジュースですよね? しかもいつもの角砂糖二個入り」
ルルシャルクから取り上げた杯の匂いを嗅ぐまでもなく、エリスステラは冷たくもあっさりとしたツッコミでもって言葉を返す。ルルシャルクもその冷静な反応に何とか一矢報いようとも、なんとも言葉も出ないのが情けなくも悔しい。付け加えられた”いつもの角砂糖二個入り”という言葉でもって言外に”お子様”と言われたようで――一人前の男どころか、子ども扱いされている。そして、それに対して言い返せないのが腹立たしいが、現実だ。実に悔しい。そして――それが側近の、しかもエリスステラならばなおのことだ。
ルルシャルクは苛立ち沸きたつ心のまま、荒々しい動作で長椅子から立ち上がり、傍らに跪くエリスステラを睨めつけた。精一杯、その百五十センチメートルと少々という、小さな身体の背筋を伸ばして。胸を張って。
「俺はもう五十四歳だぞ! 魔王だぞ!! エリスステラのくせに、部下のくせに俺にモノ申すなんて生意気だぞ!」
未だ本来の漆黒から緋色に染まったままの、下等な魔族ならば即座に震えて退くほどの魔眼をもってしてエリスステラを見下ろすも、この場合は相手が悪かった。湖畔のごとく青く澄み切った瞳でじろり、と無表情に見上げられればびくりと身体が震えるのは身についた条件反射か、それともこの美しく慇懃ながらもけして従順とは言い難い部下の、真の恐ろしさを身をもって知っているせいなのか? そうなのか?
「いーえ。そのようなことを仰りながらもつい一月ほど前、就寝前にこっそりジュースを召し上がられた結果、夜中にお手洗いに行きたくなったにもかかわらず、暗い廊下を一人歩くのが嫌だと私めをたたき起こされた方はどこのどなたでしたっけ? もし、もしもですが万が一の確率でおねしょでもしてごらんなさい。あなたの描いたおねしょ地図を魔王城の竜の前脚に掲げますよ。そんなものが魔王城の旗印でもよいと仰られますか? それでもよいと申されますか? なら好きになさりませ。私は知りませんからね」
「ううう………」
立て板に水の如く正論とこれまでのルルシャルクの屈辱的実績を論理的かつ憎らしいまで冷静にまくし立てられれば、この優秀な側近に勝てた試しのないルルシャルクのこと、ぐうの音も出ない。魔王ことルルシャルクはなんとか主としての威厳をもった眼差しでもってしてエリスステラを見下ろすも、その身長差は優に十五センチはあることに改めて気づかされた。
今はこうして、エリスステラが臣下の礼を以てして跪いてくれているからこそ見下ろすことができるわけで……普段ならば肩を並べることはおろか、エリスステラを見上げることはあっても見下ろすことは適わない。手をつないで貰うことはできても、手をさしのべることはできない。
そう、どんなに魔力があろうとも、大人ぶってみせたとしても――魔界年齢にして御年まだ五十四歳にして身長百五十センチメートルと少し(断じて百四十代ではない!!)のルルシャルクでは、エリスステラに言われずともまだまだ、そうまだまだまだまだ子どもだ。こうして二人並んでいると、見た目だけでいえば十二歳くらいの小僧っ子が歳の離れた姉に叱られ、駄々を捏ねているかのようにしか見えない。
だがそんな当たり前の、これまでも、そしてこれからも分かりきった事実にもかかわらず――いや、だからこそそんな現状がルルシャルクには悔しくてもどかしくて。
生まれ落ちたときより手にした溢れる魔力と望む、望まざるに関係なく背負った魔王という地位――自分のものであっても、けして自分が掴んだものでもない生まれながらの権力――を肩にのせ、大人ぶって、強がってみたとしても現実はオレンジジュースに角砂糖を入れなくては飲めないような子どもだ。恵まれた魔力のまま、気まぐれに黒雲を喚び、雷精を弄んでみせたとしてもそれは夜更かしをする子どもが大人の手真似じみた玩具遊びをするにすぎない。自分の庭という小さな王国でままごとをするように、その手に似合わぬ犀を転がす小さな子ども。それが自分、ルルシャルクだ。
そしてそんな彼を窘め、諫めるのが脇を固める大人たちで。
中でも最も側近くに侍り、”魔王”という地位に在りながらも未だ齢満たず、幼くも子どもじみたルルシャルクを”魔王”に相応しく育て上げようとする”大人の女性”、それがエリスステラだ。母ではないし姉でもない、そして単なる部下でもない。そばにいて欲しい、しかしそばにいられると気詰まりだ。その小言が鬱陶しくもあるけれど、でも叱って欲しい、諫めて欲しい。笑って、いつまでもそばにいてほしい。そして少し前にいて、でも置いていかないでほしい。
だけど――……。
そんな、ルルシャルク自身にも名状し難い、いろんな気持ちがない交ぜになった感情の塊が喉の奥からこみ上げてくる。瞼の淵に涙の粒となって盛り上がる。その瞳の色は既に元来の黒に戻っており、先ほどまでの燃えるような緋の色はいつの間にか消え失せていた。




