紙飛行機、夏空に飛ばして
夏が終わり、次の季節の秋が来る。
それは当たり前のことで、そして毎年のことだ。なのに今年はいつもの夏とは違う気がしていた。今年こそいつもの夏とは違うはず、変えられる、そうに違いない。
そう思っていた。
なのに、この馬鹿馬鹿しいくらいの脱力感と倦怠感はなんだろう。
……ああ、夏が終わる。終わってしまう。
秋好は季節の中でどれが一番すきかと聞かれたならば、たいていにおいて秋が一番すきだと答えてきた。浮ついた春よりも、くそ蒸し暑い夏よりも、指がかじかんで部活をするにも支障をきたす冬よりも――敢えて言うならば秋が一番過ごしやすい。
それだけだ。
けして”秋好”という、生まれた季節に因んだ名だからというわけではない。実際よく聞かれるわけだが、秋好はそんな感傷的な人間ではないし、高校二年の今ともなればそんなどうでもいいことよりももっと考えること、すべきことが色々とあるわけで。
十六歳と十ヶ月。あと二ヶ月で秋好は十七になる。そしてその前に夏が終わり、秋が来るわけで。
見上げた空には雲ひとつない。あの日見上げた飛行機雲の影ひとつ、残ってなぞいない。感傷も、想い出も、やりきれない気持ちも解のない問いも未だこの胸の奥ではぐるぐると渦を巻いているというのに。
ああ、夏が終わる。
秋好はあらためて、胸のなかでもう一度つぶやいた。
こぼれ落ちたつぶやきは、やがて溜息となって風にのり、河原の水音に混じって消えた。
ねっとりと、足の指の間からそれこそ耳の奥にまで纏わりつくかのような、うっとおしい湿った夏の空気のなかに、違う何かを感じる瞬間がある。
早朝の空気に混じり始めた冷たい空気のなかに混じるものだったり、いつの間にか目線よりも低くなっていた夕陽の角度にだったりもする。それはそろり、そろりと忍び足で近づいてきているかのようでいて、しかして瞬く間に今、この瞬間の空気をも一変させるかのような強い何かを孕んでいるようにも思えた。
それが秋好には、酷く不快に思えた。
朝晩の空の色に滲むいろを見つめて、だけど確実に背後に季節の変化が迫りつつあることに気づかされるから。
そしてそんな変化に気づくことなく、抗うことすらできないまま、むしろ追い抜かれていくようで。
「秋なんか、来なけりゃいいのに……」
そんな、どうにもならないことを口の中でもそりとつぶやきながら、秋好はごろりと体勢を変えた。自分自身の発した言葉なのに、それは乾いたパンが口の中に残る、ぱさつきにも似た不快感を秋好自身に残した。自分のことなのに、自分でも分からない。そんな不快感がこの数週間、いつまでも消えようとしない。
そんな感傷を振り払うように大きく空気を吸い込めば、湿り気を孕んだ土とあまい草の匂いがほのかに鼻腔をくすぐる。空気を吸い込み、あきらめにもにた溜息をはきながら寝転んだ体勢のままでひとつ横に転がれば、枕代わりに組んだ腕の筋肉がぎしりときしんだ。もう暦の上では晩夏と言えども、十六時の太陽はまだまだ高度を保っており、そしてゆっくりと焦がすように照りつけてくる。
それこそ、まるで焦らしているかのようだ。
ぼんやりとそんなことを思う。夕陽と呼ぶにはまだ高く、そして夏の陽にしては少し足りない。いかにも中途半端な晩夏とも初秋とも言い難い空気と太陽。陽だと言うのならばそれこそ瞬時に燃やして、燃え尽くしてくれればいいのに。じりじりと、だなんてまさに焦らしプレイじゃあるまいし。
秋好は分かりやすいことが好きだ。よくいえば竹を割ったような、誰かさんの口をかりればバカみたいに単純な性格なせいか、好き嫌いもはっきりしている。それは食べ物だったり、色だったり、スポーツだったり。そしてそれを自分できちんと咀嚼して飲み下すことができる程度にはそこそこ大人びてきたつもりだ。まだ高校生、だがもう高校二年生なのだから。
だから数学や物理などの理系科目が好きなのかもしれない。道を探して、ただ解だけを求めて突っ走る。そこに感情なんぞはいらない。明確な解を求めて、解けた瞬間がたまらない。だが、理数系の成績に対して文系科目は実に悲惨だ。「お前ってほんと好き嫌いが分かりやすいやつだな」と担任をえて言わしめるほどに。世界史の教科書を開くと眠くなるし、現代文も左に同じく。それこそ古文なんぞはくそ喰らえ、だ。
目に見えないものをみて、感情の底にあるものを汲みとって、言葉の内側に包まれたものを聞き取ること。それが楽しい、と文系科目が得意なあいつは笑っていたけれど、秋好のような人間にはそれがなんなのか、そもそも彼女が何を言いたかったのかすらも分からない。目で見たこと、耳で聞くだけでは駄目なのだろうか? 人間には言葉があり、手があり、目があるのだから。それでは伝えられないとでも、わかり合えないとでも言うのだろうか。
それは、秋好には度し難く、とうてい理解できないことだ。
目に見えないものも言葉にしたくてもできない感情も、季節と年月のうつろいも——あいつのことも。
もし秋好がもっと器用な人間だったならばまた、何かが変わったのだろうか? 変えること、変わることができたのだろうか? そして、そんなことを考える自分自身が一番分からない。解のない、底のないブラックボックスに沈み込んでいるかのように不快で……何よりも、息苦しくてたまらなかった。
河川のせせらぎの音の中に、足下に転がしたままの自転車の車輪が風でカラカラと廻る音が混じって聞こえる。単調なリズムのようでいてそうじゃない。川から吹き上がる飛沫のような強い風にのったかと思えば、凪いだ薄い水面の上にちょこんと留まった水鳥のようにひっそりとしてみたり。そしてまた、いつの間にか回り出す。気まぐれな風が吹くままに、からりからりと乾いた音をたてて。
いつまでもこうしているわけにはいかない。立ち上がり、歩き始めなくてはいけない。前を向いて。前に進んで。
だが、進むためにはしなくてはいけない。残された時間は驚くほど少なく、もうすぐ後ろに迫ってきている。リミットはあと少しだというのに秋好はいじいじと靴紐を弄る子供のように立ち止まり、既に大人びた顔に途方にくれた子供の表情を浮かべていた。本人は気づいてもいないが。
そのとき、風に甘い香りが混じった。秋好は瞼は閉じたままゆっくりと鼻をひくつかせる。かさかさと草を踏む足音と、馴染んだ気配。
それはよく知ったもので、嗅ぎ慣れた——嫌になるほどに秋好に馴染んだかおりだ。
「秋……そこに、いるの?」
かさり、と靴底で踏みしめられた草の音がすぐそば近くにいるよと耳に教えてくれる。
なのに秋好は頑として瞼を閉じたまま、枕代わりにした腕でどきつく心臓音から耳を塞いだ。
握りしめた指の隙間、汗ばんだぬるつきが気持ち悪い。だけど動いたら負け、とばかりに動くことができなかった。
狸寝入りをする理由も意味もない。
だけど、いざとなると何を言えばいいのか分からなかった。解のない答えを求めることなぞ大嫌いだったはずなのに、解を与えられることに脅えている秋好自身が、いた。
ああ、意味不明だ——自分自身が。
そうやって、頭のなかで自分自身に溜息をつく。
だけどそんな風にしているうちに、起き上がるタイミングを逃してしまう。ずっと、これまで自分の気持ちを見誤って、タイミングを逃して、そうして言えなかったように。
「秋好?……寝ているの?」
嗅ぎ慣れた香りが鼻腔をくすぐる。あまくて、どこかやすらぐ香り。何かつけているわけじゃないのに、ほんのり薫るそれは秋好にとって子どもの頃からそばにいるのが当たり前で、だけどいつしかそばにいると落ち着かないものになっていた。
やがて、秋好はようやく気づいた。ずっと、それがそばにいてくれるわけじゃないんだと。
そして、ずっとそばにいてほしい理由に。
十七時の鐘の音が聞こえる。風にのったそれは空気を震わしながらとおく、ちいさく耳に届く。
子どもの頃はそれがうらめしかった。まだまだ遊び足りないのに鐘の音が聞こえれば愉しい時間が終わってしまう。「また明日ね」そう言って手を振って、それぞれの家に帰るのだ。次の約束に胸をときめかせながら。
でも一歩、一歩大人に近づくにつれて分かることがある。
「また明日」はいつまでも続くわけじゃない。いつか、そう「またいつか」になる日が、そう互いに言い合う日がくるということを知ることが、大人になるということなのかもしれない。
そして今、胸の奥で心臓の音が、どくどくと響くそれがやけに煩い。
鐘の音はまだ遠く、ほのかな波紋を耳に残しながらも響いている。
だけどそれよりもずっと、もっとずっと近い場所。寝ころんだ明好の頭のあたり、制服のスカートの衣擦れの音ともに彼女がしゃがみ込む気配を感じとることができた。思わず薄目をあけて窺えば、革のローファーに包まれたつま先が視界に入った。
「秋はほんっとうによく寝るよねぇ……」
呆れたように、なのにどこか楽しげに彼女が呟く。のばされた指先に、撫でられた頬がくすぐったくて、思わず狸寝入りがとけてしまいそうになるのをぐっと我慢する。
「まぁ……寝る子は育つって言うしねぇ。でも背は伸びても寝ている顔は昔のまんま。ふふ、ほっぺたすべすべ〜。ほんと、高二男子とは思えないよねぇ〜」
誰に話すでなく、そう独りごちる彼女はどこか楽しげだ。
「寝顔はかわいいのになぁ……」
相変わらず目を閉じたままの秋好の、顎から耳にかけての輪郭をやわらかな指先がそっと、確かめるようになぞりあげる。
確かに秋好は童顔だが高二の、もうすぐ十七にもなる男がかわいいと言われて喜ぶとでも思っているのだろうか。気にしていることなだけに、いつもならば即座に怒鳴りつけて、足音荒く立ち去っていただろう。”男と思えない”そう、改めて言われてる気がするから。
内心ではそう憤りつつも秋好はそのまま瞼をとじたまま、幼馴染が撫でるがままにさせた。
くすくすと、愉しげに笑う声がくすぐったくて、それが耳に甘く心地よかったから。
今はただ……このまま、久しぶりに触れられるそのやさしい指先の感触を味わっていたかったから。
だからもうすこし、あとすこしこのままで。
幼馴染の遙香とは、幼稚園からのつきあいだ。
実の姉弟以上に近くて、姉弟以上にそばにいる……いや、いたと思っていた。
だけどこのところ、ふたりの関係はぎくしゃくしていた。いや、遙香は変わらない。変わらず秋好に親しげに話しかけ、笑顔を向けてくれる。
なのに秋好が、秋好だけが一方的におかしな態度をとってしまう。そっけないフリをして、言葉を詰まらせて、目線を泳がせる。
秋好のほうが目線が低かったあの頃はもっと近くに感じていた。早く追いつきたいとさえ思っていた。
そのはずが、いつの間にか秋好のほうが遙香を見下ろす側になっていて。
いつの間にか流れていた年月が、目線だけでなく互いのあいだを遠ざける距離さえも連れてきたように思えた。
秋好自身、自分でも分かっていた。
目と目が合えば、視線をそらすのはいつも秋好だ。
顔を合わせれば思わずそっぽを向いて、こころにもない憎まれ口をたたいてしまう。
肝心のことばは言えないのに、生意気な言葉ばかりが口をつき、そのくせ聞きたいことも聞けなくて。
今日こそ、明日こそ……そう思ううちに月日がたって。
そしてそのまま平行線。
秋好ばかりが嫌な奴になる。そんな自分が嫌になる。
なのに、遙香は変わらない。幼馴染みの態度を崩さない。秋好が遥香より10センチも背が低くておまけに童顔で、並んで歩けばいつも彼女の弟と間違われていたあの頃からなにひとつ、変わらない。
それがさらに秋好自身を苛つかせることに、気づいてもいない。
そのことが、悔しい。
だけど。
ずっと一緒に過ごしてきたし、ずっとこの先も一緒だと思っていた。
子どもの頃、二人で過ごしたあの夏休みが永遠に続くと思えたように。二人で見上げた夏空を走る飛行機雲に果てがないように思えたように。
遙香が、父親の転勤で卒業を前にこの秋から海外に行くかもしれないという噂を聞くまでは。
気がつけば指先が放っていた。
空を切り、指先から飛び立つ紙飛行機。
子どもの頃二人で見上げた飛行機と後ろに続く飛行機雲、そして果てしなく続く青空。
いつまでも、いつ振り返ってもあると思っていた。変わることはないと思っていた。
なのに、夏は終わる。
秋が来る。
変化の、季節が。
指先から離れた紙飛行機がのせた言葉は、口をついた言葉はたった一言。
風にのって、ずっと言いたかった言葉をのせて、想いをのせて。
言いたいことは胸に溢れて言葉にならない。解のない答えは胸に詰まってやりきれない。
結果、でてきた言葉はたった一言だけ。
言葉にすると、終わってしまうような気がしていた。
解のない問いは嫌いなはずなのに、投げかけた問いに対する答えを恐れる自分自身がいる。
このまま夏が続けばいい。切実に、そう願ってしまう。
終わらない季節が。
変わるのが、怖かった。変わりたくなかった。
まるで避けるように、返事はいらないとばかりに逃げ続けていた秋好をなぜ、遙香は探しに来てくれたのだろう。なぜ、まるで何事もなかったかのようにこうして、狸寝入りを続ける秋好の頬なぞをつまんでいるのだろう。
いつも以上に彼女がわからなかった。
もしかして、いつもの秋好の冗談だと思われたのかもしれない。もしくは敢えて、気づかなかったふりをしてくれているのかもしれない。
だけど。
ただ、ないものにされるのはいやだった。
誤魔化されるのも、はぐらかされるのも。
本当はずっと言いたかった。告げたかった。
そして、こたえてほしかった。
こんなぎりぎりになって、挙げ句言い逃げになってしまうとは情けないにもほどがある。
今、こうして秋好の前髪を弄る遙香の指先は変わらずに、やさしい。
だけど、このままこの手に甘え続けるのも嫌だった。
もし、この手を引っ込められても手を伸ばして、掴めばいい。差し出される手がなければ、むしろ差し出せばいい。
変化を、恐れてはいけない。
ほしいものは、解は自分の手で取りに行けばいいのだから。
「あき、私ね……」
ぽつり、と遙香が呟いた。
落とされた呟きとともに指先が離れていく気配と、その口調に滲んだ躊躇いがどうしようもなく切なくて……秋好は狸寝入りしていたことも忘れて、咄嗟にその手首を掴んで引き寄せていた。指先に力が籠もる。遠ざかりかけていた体温がふたたび近づく。
久しぶりに、数年ぶりに握りしめたその手首と肩は記憶以上に細く、やわらかだった。
「遙香!」
手首ごと引き寄せて、覗き込んだ瞳は驚きに見開かれていた。久しぶりに間近く見たその目を見つめて、子どもの頃と変わらない、と改めて思う。秋好の母親が入院したとき、自分まで涙ぐみながら秋好の掌を握りしめた八歳の遙香。できたばかりの中学の制服の裾をはためかせて得意げに微笑んでみせた十二歳の遙香。放課後の音楽室でピアノを弾きながら涙と弱みを零した十五歳の遙香。
ずっと、見てきた。そばにいた。
抱えてきた記憶は未だ色褪せず、フルカラーの記憶が花のように胸の中に咲き広がる。
変わるのが、怖かった。変わりたくなかった。
でも本当は……変わりたかった。変えたかった。
「遙香、遙香、遙香……」
繰り返し、繰り返しただ名前を呼びながら細い身体を引き寄せ、抱き締めた。手を離すと離れていきそうで、拒絶されるのが怖くて指先を絡みとって掌のなかに握り込む。馬鹿みたいだけどそれしかできなかった。さんざ意地を張ってそっけないフリをしてきたくせに、結局引き止めるように縋ってしまう自分はやはり遙香にとって弟みたいなものにしかなれないのだろうか。そうしてこのまま、離れていくのだろうか。
風に混じって聞こえる自転車の車輪が廻る音は、空回りばかりの秋好を嗤ってるみたいだ。秋の匂いを含んだ草の香りがつんと鼻を刺し、眼の奥が熱くなり、秋好はどうにか歯を食い縛ってそれを堪えた。
「あき、秋好……手首、痛いよ」
かけられた言葉に弾かれたように慌てて握りしめていた手首の拘束を緩めれば、抱き締めた身体が腕のなかでゆっくりと、その強ばりが解けていく。秋好の身体からも力が抜けていった。
……そして、ゆっくりと腕を放し、手を離した。
秋好は草の上に膝下から崩れるように座り込んだ。……かっこわるすぎる。顔が見れなくて、俯いて腕で顔を隠す。頬を嬲る風を強く、感じた。
「ごめん、俺……」
ごしごしと頬を擦る。そんな情けない顔を見られたくなくて、遙香に背を向けて立ち上がろうとしたところで、今度は秋好がやわらかな腕に背後から抱き締められた。
「秋、秋好……」
秋好の制服のシャツの背に顔を埋めたまま、躊躇いがちにつぶやくように告げられた遙香の言葉は小さく、くぐもって聞こえた。
だけど、確かに届いた。
秋好の耳と、心に。その呼びかける名前に秘められた意味を籠めて。
背後から抱き締めてくる腕の細さが頼りない。見下ろせばその掌は驚くほどに小さく、華奢に見えた。
その腕がまるで秋好から離れたくない、離したくないとばかりにしがみついてくる。震える指先がそう語っている。
だから、その掌に掌を重ねて、秋好は空を見上げた。
果てしない空が二人の頭上に広がり、まるで落ちてくるようにも思えた。真っ青な色が夕焼けの色に染まり、夜の帳が落ち始めている。
この空に、あの日見上げた飛行機雲はない。ふたり、紙飛行機で描いた軌跡もない。
ただ、重ねた掌のぬくもりがここにあった。