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六章 人狼

 六章 人狼



「キャーッ!!」

 ハルが一目散に逃げ出すと、人狼と化したザークスは凄まじい唸りを上げて追ってきた。廊下に出るとすぐさま一番目の角を曲がり、広間への階段を下へ下へと一段ぬかしで駆け下りる。しかしザークスは十数段あろうかという階段を一気に飛び降りてハルとの距離を縮めてきた。

 二階の踊り場まで差し掛かろうとしたその時、ザークスはハルの頭上を飛び越えて、ハルの前方は踊り場の中央あたりに着地。ついにハルは追いつかれてしまった。

 踵を返して三階へと引き返す。

 その時、不意にハルの右足に激痛が走った。そのままものすごい力で階段半ばから踊り場まで引きずり下ろされる。

 右足に食い込むザークスの鋭い爪。さらにもう一方の前足が、ずしりとハルの背中を踏みしめ、爪を立てた。それでもハルは、何とか逃れようと必死でもがく。しかし、もがけばもがくほどに爪が食い込んでくる。

 しまった、動けない!!

 階段の角という角に全身ガタガタとぶつけた上に、したたか頭を打って意識も朦朧としている。鋭い足の痛みに遅れて、打撲の鈍い痛みがじんわり神経を伝わってきた。ザークスの重みは容赦なくハルを押しつぶす。じわりじわりと食い込む爪。身を切るような激痛と内臓を吐き出しそうな重みにうめきながら、ハルはひたすら意識を失うまいと歯を食いしばって耐えていた。

 生臭い温かな吐息。はっ、はっ、という息遣いが、耳に近い。ハルの顔のすぐ傍には、ザークスの濡れた鼻と鋭い牙がある。眼光はギラリと残酷さを増し、その表情はまるでおぞましい笑顔のようだ。まるで得物を捕まえた至極の喜びに満ち溢れているかのように見える。

 殺される――!

 ついに覚悟を決めたその時。ハルの上からザークスが吹っ飛んだ!!


「カギ!!」

 やっとの思いで状態を起こすと、すぐ目前でカギがザークスともんどりうって取っ組み合っていた。上になり、下になり、両者共に相手に止めを刺そうと必死だ。

「姫、逃げてッ・・・!!」

 本能が逃げろと叫んでいるのに、ハルの足は一向に凍りついたまま動かない。

「姫ッ!!」

 その呼びかけに、ようやく自我を取り戻すと、ハルは痛む足を引きずりながら必死で階段を登った。


 無我夢中で飛び込んだ三階の一室。そこは、もうずいぶん使われていないアトリエだった。そこにはたくさんの巨大なキャンパスや、石膏でできた立像がいたるところに立っていて、それらの多くは白い布がかぶせられている。さながら暗がりの中に漂う幽霊のようでもあった。

 ハルは描きかけのキャンパスから白い布を拝借し、頭からすっぽりかぶると、立像の並びに参列した。布の目は思いのほか粗く、ほつれた小さな穴から部屋の中を見渡すことができた。

 息を整え、心を落ち着かせるハル。しかし、痛む身体はガクガク震え、足もすくんでしまい、まるで自分のものでは無いかのように思えた。

 遠くに聞こえる鈍い音。短いうめき声。ザークスの咆哮。

 カギがまだ戦っている。きっと、きっとカギがザークスをやっつけて迎えに来てくれる。それまでの辛抱だ。だから、それまで・・・、


 ガシャーン!!


 その時、凄まじい音がして先程まで聞こえていた乱闘の気配がなくなった。

 何も、聞こえない。ハルは思わすその場にへたり込んでしまった。

 長い長い静粛。耳の奥で高鳴る鼓動。安心、それとも不安?言い知れない胸騒ぎ。この孤独の中で、ハルはカギの安否が気がかりでならなかった。

 間もなく。カチャッ、という音と共に、アトリエの扉が開かれた。

 そしてアトリエに入ってきた人物の姿にハルは息を呑んだ。


 そこに入ってきたのは、おびただしい鮮血に濡れた人狼、ザークスだった。

 果たして、カギはどうなってしまったのだろうか?

 ハルは息を潜めてその様子を布越しに見つめた。

 ザークスは、鼻をひくつかせながら足音を忍ばせてゆっくり部屋に踏み込んできた。一つ一つの立像に鼻を近づけて、ハルを探している。

 言い知れない不安と静かな恐怖が、ハルの心を締め付ける。

 ガタン!!

 ザークスは五体目の立像も違うと解ると、ついに癇癪を起こして立像をなぎ倒した。その後に、バリバリと石膏を噛み砕く音が続く。

 ハルは息を呑み、溢れてくる涙を必死で堪えた。

 ザークスは一体、また一体と立像を調べ、ついにハルの近くにまでやって来た。

 ガタン!!バキッ、バキバキ・・・。

 ハルのすぐ隣の立像が破壊された。ザークスの巨大なシルエットが、立像の首を噛み砕いているのが見える。ここで動いてしまったら最期、あの立像のように噛み砕かれてしまうだろう。

そしてついに、いまや無残にも粉々に破壊されてしまった立像に飽きたザークスは、いよいよハルに向かって真っ直ぐ歩み寄ってきた。

 ハルの周囲をぐるりと回って、匂いをかぎながら様子を伺っている。

 へたり込んだハルの目線の位置に、四つん這いになったザークスの眼があった。ザークスの粗い息遣い、喉がなる音、床を引っかく爪の音が間近に聞こえる。

 ザークスが、ハルの顔面に鼻を押し付けてきた。すぐそこに、ザークスの獰猛な血にまみれた紅い牙が在る。むせ返るほどの、生臭い血のにおい。ハルの心臓は口から飛び出しそうなほどに高鳴っていた。この音がザークスの耳に聞こえやしないか気が気でない。ましてや、再びザークスが癇癪など起こそうものならひとたまりも無いだろう。

 ガルル・・・。

 ザークスがハルの眼と鼻の先で唸る。ハルは息を止め、この時ばかりは神様とやらに祈らずにはいられなかった。――あたしは、ここで死ぬのだろうか?

 しかし、ザークスは唸っただけで、これは象であり動かないのだと確信すると、そっぽを向いて他の立像へ行ってしまった。

 ハルはしばらく目を見開いたまま、息をするのも忘れて硬直していた。

 危機一髪とはこのことだ。おそらく、口の周りに付いた血のおかげで匂いがわからなかったのだろう。

 ガタン!!バリバリ・・・。


 ああ、逃げなければ。

 ハルは、ザークスが自分から離れていくのを見計らって今度はどうにかしてここから脱出することを考えた。無論、見つかれば砕けた立像の二の舞。この命がけのかくれんぼに勝つにはどうしたらいいのだろう?そもそも、かくれんぼに勝ち負けは無いのだが。

 ハルは、ザークスが他の立像に夢中になっている隙を伺ってゆっくり立ち上がった。そして、ザークスの目を盗んでは一歩、また一歩と扉に向かって移動を始める。

 こんなに恐ろしいだるまさんころんだなんて、まったくシャレにならない。

 ガタン!バキバキバキ・・・。

「ウオオオオオオオオオオオオッ!」

 ハルははっとして足を止めた。

 咆哮。

 ザークスがまたしても癇癪を起こしたのだ。立像をバリバリ噛み砕く音。荒々しい唸りを上げながら、バキバキと手当たり次第に立像を破壊していく。

 ゴトン!

 不意に足元に飛んできた立像の首。

 瞬間、ハルははじかれたかのように扉に向かって駆け出した。


 振り返るザークス。逃げ出したハルを残虐な眼で捉えると、ザークスは手近な立像をなぎ倒すやはちきれんばかりの勢いで猛然と追いかけてきた! 

 このままでは、また追いつかれてしまう。

 逃げながら、ハルは必死で頭を働かせようやく一つの考えにたどり着いた。ザークスを外に誘い出し、その隙に城の中に逃げ込んでしまうのだ。いくらザークスでも、あの大きな扉に鍵をかけてしまえば入ってこれないはず。夜が開けたらザークスも人間に戻る。それからでも、充分策を練られるだろう。なんにしても、先ずはこの危機的状況をなんとかしなければ、確実に命は無い。

 一縷の望みに全てをかけて、足の痛みを堪えながらひたすら廊下を駆け抜ける。

 しかし、先程の階段まで差し掛かると、ハルは思わず足を止めてしまった。

 おどり場で、無数のガラスの破片に埋もれるようにして横たわるカギの姿があったのだ。その傍らで、壁にかけられていた大きな額縁は、無残にバラバラになって転がっていた。

「カギ・・・、カギ・・・?しっかりして、カギ!!」

 その肌は、氷のように冷たい。全身に傷を刻まれ、腹部には特に深い爪痕が見えた。壁に飛び散ったおびただしい血痕。真紅の絨毯は、一面どす黒く色を変えていた。もはやカギの身体には、もう一滴の血も残っていないかのようだった。

 「カギ、死んじゃったの?」

 応答は無い。ハルの目の端に、涙が浮かんだ。

 ガルルルル・・・。

 不意にザークスの唸り声がすぐ背後に聞こえた。振り返ると、階段の上からザークスがハルを見下ろしている。


 ハルは逃げた。逃げて、逃げて。というとう広間にたどり着くと、正面玄関の大きな扉にすがりついた。

 しかし、無情にも閂が重くてびくともしない。

 ハルは、自らの非力さに絶望した。怪力もなければ魔法も使えない。ましてや獰猛な人狼の前に、人間は哀れなほど無力な生き物だった。人間の、ちっぽけなハルの力では、こんな状況に太刀打ちする術など、あるはずが無いではないか。

 ハルが扉の前で絶望的に立ち往生している間に、ザークスは広間に降り立ち、全速力でハルに襲いかかろうとしていた。

 もう、ダメか・・・。

 追い詰められたハル。猛然と迫ってくるザークスを前に、なす術もなくその場に凍りついたまま。いよいよ目前まで近づいている最期の時に思いをはせた。

 どうか、せめて一瞬で死ねますように。苦しみませんように・・・!!

 ザークスが後ろ足で床をけり、ハルに飛び掛る。


 ダンッ!!


 ザークスに突進され、扉にたたきつけられたハル。体の上で、ザークスが暴れている。爪が、牙が、ハルの柔らかい皮膚を裂く。もはやなす術もなく、痛みを受け入れるほかない。そして、いよいよ首筋に鋭い牙と生暖かいザラりとした舌を感じた。

 ついに、死をも受け入れなければならない時が来てしまったのだ!


 最後の時を、今か今かと震えながら待つ。しかし、その時はしばらく待っても訪れることはなかった。

 ハルの上にいるザークスは、もはやぐったりとして動かない。

 ハルは何が起こったのか、まったくわからなかった。重たい頭をわずかに傾け、二階のバルコニーを見上げると、霞む視界にボーガンのようなものを構えたリーチェアの姿があった。

「ハル、大丈夫かしら?」

 青い顔をして、今にも階段を駆け下りてくるリーチェア。

 その声に張り詰めていたものがプッツリ切れたハルは、真っ暗な意識の中に堕ちていった。





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