第二章 継承 2
「そっち行ったぞ、メグ!」
「おっしゃああ! おりゃあああ!!」
マルコムとメグに追い立てられた黒い塊が、森の奥へと続く獣道を駆け抜けていく。
「そのまま行けええー!!」
大きな斧を振り上げながら、メグがイノシシを見送った。マルコムは両手を膝について肩で息をしながら、イノシシの走り去った森の奥へと視線を向けた。
「ミランシアさん、あとは任せたぜ」
二人はうまくやってくれたようだ。獣道の上に斜めにかかった太い木の枝の上で、幹に体を預けて獣道のずっと先を見つめていたミランシアは、いちど耳元の紋様を指で撫でると、手にした弓を構えた。矢筒から取り出した三本の矢を右手の指の間に握りこむ。
ミランシアは視線を少し手前に戻した。こちらに向かう途中で二股に分かれて逸れていく脇道を、ミヤが木の枝を柵のようにして塞いでくれている。そこを通り過ぎたイノシシが真っ直ぐこちらに向かってきたら、あとは射るだけだ。
「あっ」
まだ遠くに見えるイノシシと目が合った気がして、ミヤは息を飲んだ。あのイノシシは自分めがけて突っ込んでくるに違いない。一度そう思ってしまうともうだめだった。全力で森を駆けるイノシシが思っていたよりずっと大きく、速く見えてくる。
──もしイノシシが自分に向かってきたら、大きな声と身振りで驚かせるんだ。
言い聞かされていたミランシアの言葉が脳裏に蘇る。頭では分かっている。でも、体が動かない。すぐ目の前まで迫っているイノシシの動きが、とてもゆっくりとしたものに変わっていった。
「ミヤ!」
遠くから叫び声と共に鋭く風を切る音がした。驚いたイノシシが不意に体を捻って向きを逸らし、ミヤのすぐそばを掠めるようにしてミランシアが待ち伏せる先へと走り去っていく。
その後ろ姿を呆然と見送ると、ミヤはその場にへたり込んだ。ふと気づくと、イノシシが向きを変えたあたりの地面に、ミランシアの放った矢が深々と突き立っていた。
一度はミヤのいる脇道へ向かおうとしたイノシシがこちらへ向きを変えたのを確かめると、ミランシアは淀みなく弓を引き絞った。
まだやや遠いはずのイノシシの顔が、ミランシアの目の前に大きく迫る。ミランシアは、いつものように心が透き通っていくのを感じた。獲物を仕留める時、フルーレの民の心はいつも、透き通る。
イノシシがミランシアの待つ木の枝の下を走り抜けようとしたその時、彼女は手にした残りの二本の矢を一気に放った。
獲れたイノシシの血抜きをし、内臓を取り除く。それが終わると、ミランシアは小川の流れで両手を洗い、立ち上がった。
「よし、終わったぞ」
「初めて見たぜ。結構、手間かかるんだな」
マルコムが、しげしげとイノシシを眺める。
「ねー、早く焼肉しようよ!」
待ちきれない様子で、メグが甲高い声を上げる。ミヤも目を輝かせ、小さく何度も頷いた。
「いや、これは食べずに売ろう」
マルコムが大きく頷いた。
「そうだぜ、手持ちの金がもう底をついてるんだからな」
ええー、と肩を落とすメグにミランシアが笑って言った。
「そのかわり、安くて美味い鳥を買って食べよう」
「やった!」
目まぐるしく表情を変えるメグに、皆が笑った。
「おじさーん! これ、買い取りおねがーい!」
「はいよ。ちょっと待ってくれ、今行くから……え?」
太い棒にくくりつけたイノシシを一人で担いで運んできたメグの姿を見て、肉屋の店主は目を丸くして絶句した。
イノシシは思ったよりも高く売れた。あとは鳥を丸ごと一羽買い求めて、残った金はもちろん山分けだ。
「一番大きいのにしよ!!」
吊るされた鳥がずらりと並ぶのを前にしたメグが、目を見開いて鼻息を荒くする。
「いや、こっちだ」
ミランシアが、メグが目をつけているのよりもやや小ぶりなものを指差した。
「えー、なんかちっちゃくない?」
メグが口を尖らせるのを見て、ミランシアが言った。
「そっちは見かけは大きいが、痩せてる。今はこっちの方が脂が乗っていて美味いんだ」
岩陰の『拠点』へ戻り、四人は焚き火を囲んだ。
ミランシアは、買い求めた鳥を手際よく捌き、食べやすい大きさに切り分けていった。ナイフで枝を削り、串刺しにしていく。
それが済んだら、荷袋から塩の小瓶を取り出し、振りかけていった。
ミヤが、これも使いましょうと言って、摘んできたばかりの香草を差し出す。
それを受け取ると、ミランシアは指先で葉を扱き、肉に擦り込んでいった。ほろ苦く、爽やかな香りがふわりと広がった。
「さあ、焼くぞ」
しばらくすると、火に炙られた肉から脂が落ち、炎の中でじゅっ、と音を立てた。
待ちきれなくなったメグが、
「はやくはやくー! がんばれー!」
と応援し始めるのを聞いて、皆が笑った。
ここで野宿生活を始めて、もうひと月近くになっただろうか。最初のうちは不安ばかりだったが、今ではここがすっかり『家』のようになっていた。
「ミラっち! 明日は最初から鳥を獲ろうよ!」
いつでも明るくて前向きなメグ。
「イノシシに比べたら楽だろうしな」
マルコムは、昔から走りまわるのがあまり好きではなかった。
「鳥には鳥の難しさもあるが、まあ危険は少ないだろうな」
ミランシアは、ほんとうにいつでも頼りになるひとだ。
「じゃあ決まりね!」
とメグが拳を突き上げると、ミヤの方に向き直って、にっと笑った。
「ミヤ、明日も頑張ろうね!」
「はい、頑張ります!」
ミヤもつられて笑った。
次の日、四人は朝から鳥を狩りに出かけた。
『拠点』から少し歩くと、森の中から開けた荒地に出る。そこから森へ出入りする鳥を茂みの中から狙い撃ちしようということになったのだ。
狩場に向かう道すがら、メグがマルコムに尋ねた。
「ね、マルちゃん。鳥ってさ、雷薬バーンってやったら気絶したりするのかな?」
「それ、みんな言うんだよな」
マルコムは苦笑した。
「そーなの? それでそれで?」
「んじゃ、試してみるか」
そう言ってマルコムは茂みの方へと入っていった。腰の革袋から何かを取り出して、ごそごそやり始める。
メグは、目を輝かせてその様子を見つめていた。
「よーし、いくぞ。よっ、と」
マルコムが言い終えるやいなや、パァン! と乾いた音が響いて、藪の中から数羽の鳥が慌てて飛び立って行った。それを見送ると、マルコムはメグを振り返って肩をすくめた。
「毎回、こうなる」
「えー、がっかり」
「脅かすだけなら犬や人で十分だろうな」
横目に様子を見ていたミランシアが冷静に言った。それをきっかけに、四人は再び歩き始めた。
「それに、うまくいってもたぶん割りに合わねんだよな」
「そうなんですか?」
意外な面持ちでミヤが尋ねる。
「雷薬は高くつくんだ。よほどの注文じゃなきゃ、儲からねえ」
「そういえば一度だけ、国王陛下のパレードで使われてましたよね」
「ああ、あれは綺麗だったな」
沿道に並んだ人々が、国王を乗せた馬車が通りがかるのに合わせて、手にした細長い棒の先に火をつける。煌びやかな火花が吹き出してパレードを彩った光景が、二人の脳裏によみがえった。
「うちの工房の親方が、あの時は俺が全部取り仕切ったんだぞって自慢してたよ」
「でもそれっきりです。アイネでは一度も」
「そりゃエレーヌ様は質素好きだからな」
話しながら、四人は緩く曲がった道に差し掛かった。その先にある茂みを抜ければ狩場に出られる。
その時、不意に遠くから、
「お前たち! 止まれ!」
と叫ぶ声が聞こえてきた。
「やべ」
雷薬の炸裂音で警兵か何かの気を引いたかと、マルコムが血相を変える。
すでに片膝をついていたミランシアが、身を低くしろと手振りで合図した。
わずかな隙間から覗きこみ、声のした方の様子を確かめる。
「……私たちのことではないようだ」
ほっと息をつくマルコムに、だが、とミランシアが表情を曇らせる。
茂みの向こうに広がる荒地の奥に、漆黒の甲冑がうごめいていた。
騎兵が三騎。槍兵と弓兵も見えた。合わせて十五人ほどの兵たちが、荷車を曳いて逃げる一家を追っている。
すぐに、荒地の窪みに車輪を取られ、荷車は動かなくなった。
赤ん坊を背負った母親らしき女が、もう一人の子を庇うようにしゃがみ込むと、父親と思しき男が両腕を広げて黒騎士たちの前に立ちはだかろうとした。
それを見た黒騎士の一人が、槍を横薙ぎにして、柄で男の脇腹を激しく打つ。もんどり打って倒れた男が、立ちあがろうとして崩れ落ちた。
おとうさん、と泣き叫ぶ幼子の声が、ミヤたちのところまで届いてくる。
その瞬間、ミヤの頭の中が真っ白になった。気づけば、ミヤは茂みの陰から一家のもとへと飛び出そうとしていた。
「やめろ!」
慌てたミランシアが低く叫び、ミヤに組みつくようにして押しとどめた。
「離して! ミランシア!」
「だめだ、落ち着け!」
ミヤはなおも激しく身をよじり、黒騎士たちに向かってなにかを叫ぼうとする。その口を強く押さえながら、ミランシアが歯を食いしばるように言った。
「今行っても、何もできない! 私たちも捕えられて、それで終わりだ!」
それでもまだ、ミヤは激しくもがき続けた。
「離して! ミランシア! はなせ! うあああ!!」
くぐもった叫びと共に、ミヤの見開いた瞳から涙がこぼれ落ちる。
悲鳴にも似たかすれ声が、ミランシアの口をついた。
「やめろ、ミヤ! お前まで失いたくないんだ!」
ミヤの体がびくりと震えた。
こわばった腕から、ふっと力が抜ける。
ミヤの口を押さえた手を、ミランシアは緩めた。その指を、ミヤの涙が濡らしていた。
動きを止めた二人にメグが抱きつき、しゃくり上げるようにして泣いた。
マルコムも、その場に腰を落とし、あぐらをかいたままうなだれている。
ミランシアはミヤを抱きしめたまま、黒騎士たちを睨みつけるようにして唇を噛み締めていた。
やがて一家は、縄を打たれ、あるいは枷をはめられて、引きずられるようにして森の外へと消えていった。
四人は、憔悴しきっていた。
今夜は、野宿もできそうにない。四人は、街に戻って宿を取ることにした。
夜になっても、食堂に下りもせず皆部屋に引きこもったままだった。
誰も何も言わずに、時間だけが過ぎていく。
やがて、ミヤがぽつりと口を開いた。
「どうして、こんなことになるの」
その問いに、誰も答えられなかった。
「ひとまず、休もう。こうしていても仕方がない」
ミランシアがそう言い、皆も頷いて、それぞれのベッドへと潜り込んだ。
枯草や落ち葉の寝床より遥かに寝心地はいいはずなのに、ミヤの心はいつまでもざわざわと落ち着かないままだった。




