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誰が描いた?【マンガ・アニメ制作のリアルを描く業界ドラマ】  作者:
ARC V ー 「誰が描いた?」

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第79話 「そしてまた、白い画面の前に立つ」

 「完成」という言葉には、いつでもどこか絶対的な境界線の響きがある。

 すべてが終わった。片付いた。一つの終着点にたどり着いた。大体の人間はそんな風に解釈するし、だからこそ完成を最終的なゴールだと信じ込んでいる。

 作品だってそうだ。描き上げれば終わり。本になれば終わり。読者の元に届けば、そこでそのプロジェクトはすべて完結する。少なくとも、外から眺めている読者の目にはそう見えるはずだ。

 けれど、実際にそれを作っている本人の目の前に広がる景色は、それとは少しだけ違っていた。


 YLSスタジオの窓から、静かな朝の光が差し込んできた。

 ここ数日間、ずっと外の景色をどんよりと遮っていた灰色の曇り空は、夜のうちにどこかへ流れていってしまったらしい。代わりに、窓の向こうには澄んだ薄青色の空がどこまでも広がっていた。まだ熱を持たない柔らかい陽光がデスクの表面に落ちて、電源を入れたばかりの液晶モニターの画面に優しく反射している。

 部屋の中はまだ静まり返っていた。

 お祭り騒ぎのような達成感に浸る者もいなければ、盛大に打ち上げを祝う気配もない。つい昨日、スタジオの全員が死に物狂いで戦っていたあの原稿が、ようやく無事に完成したというのに、誰もその事実に大げさに感動している様子はなかった。

 みんな、いつも通りだ。拍気抜けするほど、いつもと変わらない仕事場の朝。


 一ノ瀬直哉は、淹れたてのコーヒーが入ったマグカップをデスクに置いた。

 それから、ちょうどPCの電源を入れたばかりの橘レイの様子を、なんとなく眺めた。

 新しい朝。新しい仕事。スケジュール的にはただそれだけのことだ。

 けれど、レイのモニターに映し出された画面を見た瞬間、直哉は思わずちょっと笑ってしまった。

 立ち上がったばかりのペイントソフト。その中心を開いているのは、完全な白紙のキャンバスだ。まだ線一本すら引かれていない、真っ白な無の空間。

 そして画面の最上部には、相変わらずのシンプルなファイル名がぽつんと表示されていた。


 new_new.psd


 実にレイらしい。一見すると整理されているようで、その実、中身はめちゃくちゃ。分かりやすいようでいて、あとから見返すとどれが最新版か分からなくなるやつだ。クリエイターの資料フォルダや作業データなんてものは、大抵どこもこんな風にできている。

「……また始めるんだ」

 直哉が作業の手を止めて何気なく訊くと、レイは画面を見つめたまま、短く「ん」とだけ頷いた。

「昨日、やっと一冊終わったばかりなのにね」

「だからでしょ」

 レイは視線をモニターから外さないまま、ちっとも迷う様子のないトーンで答えた。

 直哉は一瞬「どういうこと?」と思ったけれど、数秒の沈黙のあとで、なるほどなと合点がいった。

 終わったからこそ、また新しく始めることができるのだ。次に進むために、まずは目の前の原稿を完成させる。きっとレイの頭の中にある歯車は、そういう順番で噛み合っているのだろう。

 彼女たちにとって、一つの終わりは最終的なゴールなんかじゃない。それはただ、次の新しい扉を開くための、ただの入場券に過ぎないのだ。


 部屋の中には、また地味な静けさが戻ってきた。

 新しいデータ。白い画面。何一つ手づけされていない、まっさらな状態。

 でも、今の直哉には、その画面がただの退屈な空白には見えなかった。そこには、目に見えないいろんなものが、すでにぎっしりと待ち構えているような気がしたからだ。

 昨日までみんなで泥臭く駆け抜けてきた時間の記憶。昔の恥ずかしいデータから繋がっている、彼女だけの独特な絵のくせ。どれだけ絵柄が変わっても消えない無意識のこだわり。そして、作業工程のどこにも載らない名前のない時間。

 それらの要素は、何一つとして過去に置いてけぼりにはされていない。目に見えないインクのように、全部がそのまま、この新しいキャンバスへと引き継がれているのだ。ただ、表からは見えないだけだ。


「……また来ましたね、彼らが」


 背後から、いきなりいつもの緊張感のない声が降ってきた。

 振り返ると、案の定、ソファの上で毛布にぐるぐる巻きになった蘭華ひよりが、眠たそうな目で窓の外を眺めていた。朝だろうが昼だろうが、彼女の眠気のデフォルト設定はちっとも変わらないらしい。

「彼らって誰?」

 直哉が訊くと、ひよりは毛布の中からお馴染みのドヤ顔をフッと覗かせた。訊くまでもなかった。返ってくる答えなんて、最初から一つしか用意されていない。

「決まってるじゃないですか。夜行性のパソコン宇宙人ですよ」

「朝なのに夜行性なんだね」

「当然です。一つの原稿が脱稿した瞬間に、彼らは新しい作品のデータをハッキングしにやってくるんですよ。今回はどんな修羅場を見せてくれるのかなーって、ワクワクしながら待ってるんです」

「宇宙人も随分と暇な仕事だね」

「暇じゃありません。彼らは宇宙規模の学会で『同人作家の生態レポート・シーズン2』を発表しなきゃいけないんですから。ものすごく熱心な研究者ですよ」

 直哉は呆れたように吹き出した。

「本当に、一息つく暇もないね」

「プロですから」

 ひよりは毛布の中でふんぞり返りながら、さも自分が宇宙人の代表であるかのように偉そうに言い放った。


 レイは二人のコントのようなやり取りには特に加わらず、ただ目の前の白いキャンバスをじっと見つめていた。

 まだ線は一本もない。これから一体、どんなキャラクターを描くのかすら、直哉にはまだ分からない。

 でも、彼女の右手はもう迷っていなかった。

 液晶タブレットの上でスタイラスペンがすっと持ち上がり、少しの間だけ空中で静止する。彼女は頭の中で何かを確認するように、小さく息を吐いた。

 そして――。

 シャッ、という静かな摩擦音とともに、画面の白い空間に最初の一本の線が引かれた。

 本当に、ただの小さくて地味な一本の線だ。これだけで作品と呼ぶにはあまりにも気が早いし、現時点では何の形にすらなっていない。

 でも、間違いなく。それは、新しく始まる世界の最初の第一歩だった。


 窓の外、朝の光がゆっくりと強くなり、仕事場の色彩を鮮やかに塗り替えていく。

 部屋の中では、新しい原稿の歯車が、またいつも通りの地味な音を立てて回り始めていた。

 昨日の終わりが、今日の始まりになる。物を作るっていうのは、きっとそういうことの繰り返しなのだろう。

 終わっては、また始める。

 終わっては、また始める。

 そうやって、誰に褒められるわけでもない地味な反復を繰り返しながら、彼女たちの日常は、どこまでも、どこまでも地続きに続いていく。

 液晶モニターの画面には、真っ白な無のキャンバスが広がっている。いや――さっきまでは、そうだった。

 今、そこには彼女自身の手で引かれた、確かな一本の線が残されている。そしておそらく、数秒後にはまた次の新しい線が足されるのだろう。その後に、また次の線が。

 すべてのプロセスが、今この瞬間から、また新しく始まろうとしていた。


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