第64話 「時間の引き算」
時間という概念は、奇妙なほどに不条理だ。
私たちはそれを意図的に増やすこともできなければ、一秒たりとも止めることはできない。世界の誰にとっても、時計の針は寸分違わぬ速度で刻まれ続けている。それなのに、その体感的な長さは置かれた状況によって容易に歪んでしまう。楽しい時間は瞬く間に過ぎ去り、何かを待つ時間は退屈なほどに引き延ばされる。
そして、ゼロから何かを創り出すために費やされる時間――。それは、そのどちらとも異なる独特の重力を持っているようだった。
その日の午後、YLSスタジオには穏やかな斜光が差し込んでいた。
窓際に置かれた観葉植物の影が床の上に長く伸び、時間の経過とともにその輪郭を緩やかに変えていく。室内を満たすのは、低く一定のハミングを繰り返すエアコンの稼働音と、時折響くマウスのクリック音だけ。差し迫った締め切りも、予期せぬトラブルもない。それぞれが自分の仕事に向き合っているだけの、平穏で、どこか静止したような時間。
一ノ瀬直哉は、参考資料のデータを整理しながら、手持ち無沙汰にデスクの時計へ目をやった。
午後三時。
それからしばらく作業を進め、ずいぶんと時間が経ったように感じられて再び目をやる。
午後三時十二分。
感覚としては一時間ほどが経過したつもりだったが、冷厳なデジタル数字はその思い込みを容易に否定してみせる。直哉は小さく息を吐き、視線を正面へと向けた。
デスクの向こう側では、橘レイが相変わらずモニターを凝視していた。
昨日も、一昨日も、おそらくはその前の日も。彼女は朝からずっと、同じキャンバスに向かい続けている。イラストは確実に完成へと近づいているはずなのだ。ただ、その微小な前進のステップは、傍観者である直哉の目にはほとんど捉えられない。
一枚の絵を仕上げるために、これほどまでの時間を費やす必要があるのだろうか。ふと、そんな疑問が脳裏をよぎる。ラフがあり、リテイクがあり、チェックがある。そのプロセス自体は理解しているつもりだ。だが、それが目の前で何日も延々と繰り返される光景を見ていると、そこにある「時間の重み」に圧倒されそうになる。
「……時短、っていう言葉があるよね」
直哉が何気なく溢した呟きに、レイは画面から目を離さないまま、短く応じた。
「あるね」
世の中にはその手の言葉があふれている。時短レシピ、時短ガジェット、時短テクニック。より早く、より効率的に、より少ない労力で。その合理性を否定する理由など、どこにもない。
「できることなら、何でも短縮できた方が楽だしさ」
直哉の言葉に、レイは反論しなかった。彼女自身、デジタル環境の恩恵を存分に受けている。キーボードのショートカット、キャンバスの反転、自動保存。昔に比べれば、あらゆる作業が劇的にスピードアップしているのは紛れもない事実だ。
しかし、彼女はしばらく画面を見つめた後、ぽつりと呟いた。
「短縮できる時間はあるよ」
直哉は次の言葉を待った。
「でも、絶対に短縮できない時間もある」
直哉の視線が、レイのメインモニターへと移る。キャラクターの肩、腕、そして影の境界線。ここ数日間、彼女が何度も何度もストロークを繰り返してきた、まさにその場所だ。
確かに、こうした領域の作業を加速させるのは難しいのかもしれない。線を引くスピードは上げられる。ツールの切り替えも一瞬で済む。けれど、「これでよし」と自らを納得させるための確信だけは、どれほどテクノロジーが進化しようとも加速させることはできないのだ。
本当にこれで正しいのか。まだどこかに違和感が残っていないか。もう一度描き直すべきか。そうした内なる決断に要する時間は、外から見える作業時間よりも遥かに長く、深い。
「私、時間を劇的に短縮する裏技知ってるよ」
背後から、不意に別の声が滑り込んできた。
二人が振り返ると、ソファの上で毛布にくるまった蘭華ひよりが、妙に自信ありげな表情でこちらを見つめていた。寝起きのせいで少し掠れた声。その不敵な笑みを見た瞬間、直哉の脳裏には嫌な予感しか浮かばない。
「一応、聞くだけ聞いてあげる。何それ?」
「まず、寝ます」
「うん」
「起きます」
「うん」
「原稿が完成してます」
「完成してない」
直哉のノータイムのツッコミに、ひよりはあからさまに落胆の表情を浮かべた。
「おかしいなぁ。理論的には完璧な時間跳躍のはずなのに」
「ただの現実逃避だろ。現実がコープ(協力的)してくれないんだよ」
ひよりは仰向けにひっくり返り、天井をじっと見つめた。数秒の沈黙の後、彼女は少しだけトーンを落として言葉を紡ぐ。
「でもさ、時間を引き算したいって感覚は面白いよね」
「どういうこと?」
「みんな『時間を削りたい』って言うじゃん。時短だの効率化だのって。でもさ、本当に私たちが欲しがってるのってさ、削った結果として手に入る『自由な時間』そのものでしょ? 時間を失くしたいんじゃなくて、もっと時間が欲しいから、みんな必死で引き算の計算式を探してる。それってなんか、ちょっと健気じゃん?」
直哉はすぐには言葉を返せなかった。その突飛な解釈は、しかし妙に本質を突いているように思えた。人は時間を消去したいわけではない。その後に残る、息を吸うための余白を求めているのだ。だからこそ、少しでも無駄を削ろうと躍起になる。
窓の外では、夕暮れのグラデーションが空を静かに染め始めていた。
室内には、再びそれぞれの作業へと戻っていく単調な音だけが残される。
レイは再びスタイラスペンを走らせた。一本の線が画面に加わり、彼女は一度画面を引いて全体を見つめる。そしてまた、その線を微調整していく。
外から見れば、それはあまりにも非効率な回り道に見えるだろう。もっと要領よく、適当なところで妥協すればいいのに、と。しかし、レイにとってはその停滞こそが必要な時間だった。
カットできる時間は、いくらでもカットすればいい。
けれど、その後に残る「迷う時間」「確かめる時間」そして「納得するための時間」だけは、泥臭く自分の足で歩き通さなければならない。それらは完成した文庫本のページからは完全に消去され、誰の目にも触れることはない。
それでも、見えないからといって、無かったことにはならないのだ。
西日が部屋の色彩をセピア色に変えていく。
時計の針は容赦なく進み、残された時間は少しずつ削り取られていく。しかし、その引き算の裏側で、画面の中のイラストには、他者には見えない「確かな何か」が、ほんの少しずつ、しかし確実に足し算され続けているのだった。




