第63話 「効率の限界点」
効率、あるいはエフィシエンシー。
それは現代を生きる多くの人間が、無条件に愛好する魔法の言葉だ。より少ない時間で。より少ない労力で。より大きな成果を上げる。そう説明されてしまえば、反論する余地などどこにもないように思える。そして、それは実際に正しい。非効率であるよりは、効率的である方が遥かに良いに決まっている。時間は有限であり、人間のエネルギーもまた、いつかは底をつく。だからこそ人は、少しでも早く、少しでも軽く、無駄を削ぎ落とすための最短ルートを探し続ける。
その日の午後、YLSスタジオに流れる空気は、どこまでも穏やかだった。
窓の外では薄い層雲がゆっくりと尾を引いて流れ、時折、隙間から差し込む陽光がデスクの上を静かに移動していく。低く一定のハミングを繰り返すエアコンの稼働音に混じって、キーボードを叩く音と、液晶タブレットを擦るペンの音が交互に響いていた。
劇的なハプニングが起きているわけではない。差し迫った締め切りに追われているわけでも、深刻なトラブルを抱えているわけでもない。それぞれが、それぞれの持ち場で、ただ目の前のタスクを淡々とこなしているだけの、平穏な時間。
一ノ瀬直哉は、自身のメインモニターに向かってデータの整理を行っていた。
類似したファイル群を適切なフォルダへ分類し、不要になった重複データを削除していく。進捗を定期的にチェックしながら進める、お世辞にもエキサイティングとは言えない地味な作業。だが、これが未来の自分たちの首を絞めないための、確実な足場固めになる。
効率化という言葉を聞いたとき、多くの人が思い浮かべるのはおそらく、こうした「未来の負荷を減らすための前払い」だろう。今この瞬間の面倒を受け入れることで、後々の時間を大きく節約する。そこには間違いなく、冷徹で合理的な価値が存在していた。
直哉は大きく背中を反らせて凝り固まった身体を伸ばし、何気なくデスクの対面に視線をやった。
橘レイは、まだ描いていた。
それも、ここ一時間ほど、完全に同じパーツに固執し続けている。キャラクターの肩。より正確に言えば、鎖骨から肩口、そして上腕へと繋がる肉体のシームレスな境界線だ。
一本の線を引き、コントロールZで消す。全体のバランスを一度確認し、再び同じ場所にペン先を置く。その変化はあまりにも微小で、数歩離れた直哉の視点からは、ビフォーアフターの差異が何一つ認識できない。しかしレイの右手は、何事かを検証するように、あるいは画面の奥に隠された正解を手探りで探すように、何度も同じ軌道を描いていた。
「……なんか、効率悪そうに見えちゃうじゃん、それ」
直哉が冗談めかして溢した呟きに、レイはペンを持った手を止めず、思いがけないトーンで返した。
「そうだね」
その肯定は、直哉の予想に反して極めて平易で、かつ残酷なほど誠実だった。いつもなら「普通だよ」と素っ気なく返すはずの彼女が、自らの行為の「非効率さ」をあっさりと認めたのだ。
「自覚はあったんだ」
「あるよ」
レイはそこで一度ペンを止め、視線を画面から外した。
直哉を見るわけでもなく、窓の外の雲を眺めるわけでもない。ただ、ここではないどこか遠くの焦点を結ばない空間を、じっと見つめるような眼差し。
「ずっと考えてる。でもね……」
彼女の視線が、再び冷たい液晶の光へと戻っていく。まだ完成に至らないイラスト。未だに正しい形を模索している無数の線。それらはすべて、完成した瞬間に不可視のレイヤーへと沈み、読者の目には触れなくなるものだ。
「それなりに早いことと、本当に良いものであることは、全く別の概念だから」
低く、しかし濁りのない声だった。
直哉はすぐに言葉を返すことができず、ただ自分のモニターへと視線を戻した。
きれいに整理整頓されたフォルダ。一分と経たずに消去されたギガバイト単位の重複ファイル。そこには明確な正解があり、数字で測れる効率があった。どれを保存し、どれを捨てるべきか、アルゴリズムのように単純明快なルールが存在している。
だが、絵を描くという行為にはそれがない。
どの線が最も美しいかを証明する数値など存在しないし、リテイクをここで止めるべきだと指示してくれる数式もない。どれほどデジタルツールが進化しようとも、その本質的な泥臭さだけは、最初から効率化の計算式から除外されているようだった。
「効率化ってさぁ……」
背後から、不意に別の気配が滑り込んできた。
二人が振り返ると、ソファの背もたれに横向きに頬を乗せた蘭華ひよりが、半開きの目でこちらを眺めていた。いつから二人の会話を聞いていたのかは分からない。数分前かもしれないし、もっと前からかもしれない。その読めない空気感こそが、彼女の真骨頂だった。
「……響きだけは、最高に甘美な言葉だよね」
珍しく、その切り出し方は極めて常識的なものだった。だからこそ、直哉は微かな警戒のアンテナを立てる。彼女が常識的な入り方をするときは、大抵その後にろくでもない飛躍が控えているからだ。
「そうだね。ひよりちゃんも効率化には大賛成でしょ?」
「もちろん。効率を上げましょう、時間を節約しましょう、無駄を徹底的に排除しましょう。ここまでは教科書通りの美しい世界です」
そこまで澱みなく並べ立ててから、ひよりは不敵に口角を上げた。
「だから、次のステップとして、私たちは昼寝の時間も効率化すべきなんです」
「……ほら来た。どうやって?」
「八時間の睡眠を、濃縮して二十分にする。これで一日の可処分時間が圧倒的に増えます」
「それは効率化じゃなくて、ただの生物学的な無理心中だろ」
直哉が呆れたようにツッコミを入れると、ひよりは満足そうに鼻を鳴らした。しかし、その直後、彼女はふっと視線を落とし、トーンを落とした。
「でもさ。この世にはね、どうしても効率化できないものが一つだけあるんですよ」
直哉は手を止め、彼女の横顔を見た。その声には、いつもの道化た響きが綺麗に消えていた。
「何それ?」
「迷う時間」
スタジオの空気が、わずかに張り詰めたように静まり返った。
エアコンの低い風の音だけが、部屋の輪郭を象るように響いている。レイは会話に加わることなく、ただ静かにモニターの「肩」を見つめ続けていた。彼女は今も、迷い、考えているのだろう。
「だってさ、結局のところ」
ひよりは再び天井を見上げ、スマートフォンの角でトントンと額を叩いた。
「悩まなきゃいけないときはね、どれだけツールが便利になっても、絶対に悩むようにできてるんですよ。脳みそがその泥沼を通過しないと、出てこない答えがあるから。外から見たらただフリーズして時間をドブに捨ててるように見えても、それは無駄じゃない。ただの、必要な儀式」
その言葉は、締め切り明けの誇大妄想のようでいて、奇妙な説得力を持って直哉の胸に落ちた。
それは作品作りに限った話ではないのかもしれない。人生の重大な局面において、人が選択を迫られたとき、誰もが回り道を引く。懊悩し、躊躇い、無駄に思える時間を浪費する。そのプロセスの大半は他者からは見えず、時に「非効率な停滞」として切り捨てられる。
だが、その時間が本当に無駄だったかどうかは、すべてが終わり、結果という名の一枚の絵が完成した後にしか証明できないのだ。
カチ、とレイがキーボードを叩き、データを上書き保存する。
モニターの表示に劇的な変化は起きていない。相変わらず、直哉にはその線の正解がどこにあるのかは分からなかった。けれど、ペンを置き、冷めた缶コーヒーに手を伸ばしたレイの横顔は、先ほどよりもほんの少しだけ、憑き物が落ちたように穏やかだった。
彼女の中で、何かが確実に一歩、前へと進んだのだ。どれほど非効率で、どれほど不器用な歩幅であったとしても。
窓の外では、夕暮れのグラデーションがゆっくりと空を侵食し始めている。
室内には、再びそれぞれの作業へと戻っていく静かな熱量だけが残された。
効率という言葉は、確かに世界を便利にする。けれど、その天秤だけでは測りきれない領域が、この仕事場の中心には厳然として存在している。少なくとも、ゼロから新しい何かを削り出すという営みにおいて、その足跡はいつでも、歪で、非効率な回り道の連続の中にしか残らないものだった。




