第61話 「手作業の証明」
完成した一枚のイラストを前にしたとき、人はただその「結果」だけを見る。
そして、それは極めて正しい読者の在り方だ。
画面の底に埋もれた無数のラフスケッチが表に出ることはない。数十回に及ぶリテイクの跡も、懊悩に費やされた深夜の数時間も、すべては完成という名のベールの向こう側に隠蔽される。残されるのは、端正に整えられた、非の打ち所のない一枚の絵だけだ。
その日の午後、YLSスタジオには、液晶タブレットを叩くスタイラスペンの硬い音だけが、乾いた時計の針のように規則正しく響いていた。
橘レイは、朝から全く同じキャンバスに向かい続けている。
あるいは――「ほぼ同じ」と言うべきか。
レイ自身の認識では、彼女の作業は確実に前へ進んでいた。爪の先ほどの歩幅であっても、確実に。しかし、外部からその遅々とした歩みを目測するのは、極めて困難だった。
ソファから身を起こした一ノ瀬直哉が、レイのメインモニターを覗き込み、怪訝そうに首を傾げた。
「レイさん」
「ん?」
「……まだ、そこにいる?」
レイは視線を画面から外さないまま、小さく頷いた。彼女の緑がかった黒い瞳が捉えているのは、キャラクターの右手の、わずか数ピクセルに満たない曲線だ。
「うん」
「朝から、だよね?」
「そう、朝から」
「ずっと、その手のひらの角度を直してるの?」
「うん。なんか、違うから」
直哉は壁のデジタル時計に目をやった。時刻は午後三時を回っている。
昼食はとうに済ませた。適度な休憩も挟んだ。直哉自身はIT関連の本業のメール処理を何件も片付けた。それだけの時間が経過したというのに、レイはまだ同じ場所に固執している。
正確には、同じ場所を「修正し続けている」のだ。
わずかに線を削り、コントロールZで元に戻す。角度を一度だけ傾け、やはり違うと反転させる。その不毛にも思える無限ループが、数時間前から延々と繰り返されていた。
「見てるこっちが息苦しくなりそうじゃん、それ」
直哉が苦笑混じりに溢した本音に、レイはペンを止めて少しだけ考え込んだ。
「普通だよ。いつもこんな感じだし」
彼女にとっては、これが日常だった。特別なことではない。一発で思い通りの線が引けることの方が、プロとしてのキャリアの中でも稀だった。だから、この停滞に焦りを感じることもない。
直哉はもう一度、モニターの線を見つめた。
実を言うと、彼にはその修正のビフォーアフターの区別がほとんどつかなかった。二つのレイヤーを並べて高速で切り替えれば、ようやく「ああ、ここが動いた」と分かる程度だろう。リアルタイムの作業プロセスを横で見ているだけでは、ただ同じ場所をなぞっているようにしか見えない。
指の角度をほんの少し寝かせる。肉付きをミリ単位で削る。より自然な肉体の「流れ」を作る。それだけの、あまりにも微細な執着。
「でもさ」
直哉は自嘲気味に呟いた。
「完成した本を見る読者は、誰もこの数時間に気づかないんだよね」
「そうだよ」
レイはあっさりと同意した。
「それでいいの。完成した瞬間に、途中のプロセスは全部消えてなくなるから。見えないものは、無いのと同じ。それは寂しいことじゃなくて、エンターテインメントとして正しい形だしね」
「ふーん……」
直哉は冷えたコーヒーの缶を弄びながら、曖昧に相槌を打った。
これまでの人生で、彼は常に「完成された成果物」だけを消費してきた。その背後にある泥臭い工程など、想像したこともなかった。一冊の本が店頭に並び、それを買って読む。ただそれだけだ。
だが、現実を支える現場は違った。
美しい一枚の絵の裏には、膨大な数のボツ線と、自己嫌悪と、微小な失敗の死屍累々が隠されている。それらが綺麗に掃除されて初めて、作品は世に出る。
「それこそが、地道な手作業の証明ってやつじゃん?」
背後から、眠気の混じった声が降ってきた。
振り返ると、ソファに寝そべっていた蘭華ひよりが、スマートフォンの画面から顔を上げて二人を見ていた。いつもなら締切前以外は惰眠を貪っているはずの彼女が、珍しく起きて会話に参加してくる。
「何、ひよりちゃん。珍しくサブタイトルみたいなこと言って」
直哉がからかうと、ひよりは満足げに鼻を鳴らした。
「たまには綺麗にまとめたいお年頃なんです。でも実際、ド泥臭い手作業ですよ、それは。一ミリ動かして、戻して、また一ミリ動かす。外から見たら完全にフリーズしてるようにしか見えないのに、脳内だけはフル回転してる」
「まあね。進んでるのか退がってるのか、俺にはもう判別不能だけど」
「なおくんは分かってないなぁ」
ひよりはスマートフォンを放り出し、ソファの上に胡坐をかいた。
「物を作る仕事っていうのはね、登山と同じなんですよ」
「登山?」
「そう。一歩進んで、また一歩進む。足元だけを見てると、景色なんて一ミリも変わらないんです。何時間歩いても、周りはただの土と岩。もうやめたい、進んでないじゃんって思う」
ひよりはそこで言葉を切り、レイの背中を指さした。
「でもね、ふと疲れて振り返ったとき、信じられないくらい高いところに立ってることに気づくんです。あれ、私いつの間にこんな絶景まで登ってたんだっけ?って」
珍しく、その比喩は的を射ていた。
直哉は納得したように頷き、レイもまた、小さく息を吐いて笑った。
一日のうちでは、変化など目に見えない。一時間の作業なら、なおさらだ。けれど、半年前の自分の原稿を読み返したとき、そこには明らかな「断絶」がある。古い線、未熟な構図、かつての自分。
自覚できないほどの微細な変化は、確実に積み重なっている。だからこそ、彼女は今日もペンを握り続けられるのだ。
レイは再びスタイラスペンを画面に走らせた。
キャラクターの右手に、もう一本の線を足す。先ほどよりも、ほんの少しだけ、生きた人間の体温が宿ったような気がした。自己満足かもしれない。あるいは、ただの気の迷いか。
それでも、彼女は今のこの線を「良し」として、次の数ミリへ進むことに決めた。
この原稿が印刷され、文庫本として全国の書店に並ぶとき、読者はただその美しい挿絵を通り過ぎるだけだ。この右手を描くために、著者が何時間を費やしたのかを知る者は誰もいない。何度描き直され、どれほどの迷いがあったのかも、全てはインクの底に沈む。
けれど――見えないからといって、無かったことにはならない。
液晶の光の中で、モノクロの線は今も僅かに形を変え続けている。それは他者から見れば停止しているのと同じ、あまりにも静かな、しかし確かな前進。
そして、創作の世界においては、その数ピクセルの前進だけで、十分に戦う理由になり得るのだった。




