第60話 「不滅」
時に、私たちはとうに失われてしまったはずのものを、ある日突然、予想だにしない場所で再発見することがある。
その逆もまた然りだ。確かにそこにあると確信していたはずのものが、いざ必要に駆られて探してみると、煙のようにどこかへ消え失せている。
人間の記憶など、その程度の頼りない不確実なものでしかないし、デジタルストレージという箱もまた、永遠を保証してくれる完璧な器ではない。時間の経過と共に、あらゆる事象は摩耗し、色褪せ、その輪郭を変えていく。
――それでも、この世界には、決して本当の意味では「消え去らないもの」が、確かに存在するのだ。
その日の午後の「YLS Studio」は、いつものように穏やかな静寂に包まれていた。
一ノ瀬直哉はデスクで静かにキーボードを叩いて自らの作業を進め、蘭華ひよりはソファの上で分厚い毛布の塊と同化して眠りについている。橘レイは液晶モニターの前で、黙々とペンを走らせていた。
特別な事件は何一つ起きていない。新しく頭を抱えるようなトラブルもなければ、締め切りのタイマーが異常な音を立てているわけでもない。徹底して、ありふれた、退屈な日常のひとコマ。
だからこそ、静まり返った空間の中で、人間の意識は時に、予期せぬ遠い場所へとあてどなく彷徨い出してしまうのかもしれなかった。
レイはエクスプローラーのウィンドウを静かに閉じた。
ここ数日の間、彼はまるで何かの磁力に引かれるように、過去の残骸を幾度も掘り返し続けていた。保存したことすら忘れていた古いPSD。途中で息絶えた未完のラフスケッチ。数ヶ月にわたって堆積したタイムスタンプのログ。あるいは、デスクの奥から転がり出てきた、目的の曖昧なフラッシュメモリ。
それらを自覚的に探しようとしたわけではない。始まりはいつも、ただの気まぐれか、あるいは不器用な指先が引き起こした「クリックミス」という名の偶然に過ぎなかった。
それなのに、彼は結果として、自分が通り過ぎてきた無数の夜の足跡を、じっと見つめ直す時間を過ごすことになったのだった。
「……どうしたんだい?」
デスクの横から、直哉がふとレイの手元へ視線を向けながら尋ねてきた。
「いや、なんでもない」
レイは視線を画面に戻しながら、ぶっきらぼうに答えた。
なんでもない、というのは嘘だった。彼の脳裏では今、これまで発掘してきた無数の「古い筆跡」たちが、グラデーションのように重なり合っていた。
拙くて不格好だった過去の絵。意味を失った余白の殴り書き。それらを見つめていた時の、胃のあたりがじはじりと灼けるような気恥ずかしさと、かすかなノスタルジー。一年前の自分と、今の自分。変わってしまった部分もあれば、どれほど形を変えても頑固に生き残り続けている筆癖のような部分もある。そのどちらの自分もが、今のレイにとっては等しく正当な存在として感じられていた。
「何か、気になるデータでも見つかったの?」
直哉が、手元のマグカップを揺らしながら再び問いかける。
「……いや」
レイは少しの間、沈黙した。液晶ペンの先端が、白い空白の上でわずかに浮いている。それから、彼は自分の胸中にある最もシンプルな言葉を選び取った。
「だけど……まだ、ちゃんと遺ってるんだなと思ってさ」
「それは、何がだい?」
レイは3秒ほど思考を泳がせた。それを論理的な言葉という枠組みに押し込めるのは、今の彼には難しすぎた。
「……さあな。色々だよ」
直哉はそれを聞いて、諦めたように小さく笑った。
「相変わらず、説明になっていないね」
「説明する必要がないんだよ。ただの独り言だ」
「まあ、君がそう言うなら、そういうことにしておくよ」
いつもの、判で押したようなやり取り。しかし直哉の口元に浮かんだ笑みには、すべてを了解したような穏やかな温度が混ざっていた。彼はきっと分かっているのだ。レイが今、液晶画面の向こうに、自分たち以外の誰の目にも見えない無数の「時間の残像」を見つめているのだということを。
「それはですね……『創作の迷い子』から『創作の地縛霊』へと昇格した証拠ですよ」
背後から、低く掠れた声が静寂を破った。
二人が振り返ると、そこにはソファの上で毛布を跳ね除け、眠たげな目を擦りながら上身を起こした蘭華ひよりがいた。どうやら、いつの間にか目を覚ましていたらしい。
「またオカルトかい? というか、その二つの違いは何なんだい、ひよりちゃん」
直哉が呆れたように尋ねる。
「さあ? 私にも分かりません」
「分からないのかよ」
「専門家じゃないですからね。でも、響き的に強そうじゃじゃん」
相変わらずの、根拠のない自信に満ちたドヤ顔。しかし、ひよりはすぐにいつものふざけたトーンを収め、その視線をレイのモニターへと向けた。彼女の声音が、珍しく静かな響きを帯びる。
「本当に遺るものっていうのは、目に見えるデータだけじゃないんですよ」
「データじゃない?」と直哉。
「そうです」ひよりはソファから身を乗り出し、ゆっくりと言葉を紡いだ。「ひとつのものを作るために、私たちがどれだけの『時間』をドブに捨てて、どれだけの『熱量』を消費してきたか。成果物(本)は出荷されて消えちゃいますし、フォルダだっていつかは消去されるかもしれない。でも、その不毛な時間を一番長く浴び続けたのは、他でもない『作っている人間本人』ですからね」
直哉は無言で、その言葉の意味を深く咀嚼するように目を閉じた。レイもまた、ペンを握る右手の力をわずかに抜き、彼女の言葉を静かに受け止めていた。
最表層にある完成品。その裏側にあるタイムスタンプ。そのさらに奥に眠る古いPSDと、ボツになった初期ラフの山。それらの地層の最先端に、今の橘レイという漫画家の右手は立っている。
今、液晶画面に引かれた新しい一本の線。それは決して、突発的に生まれた孤立した線ではないのだ。かつて繰り返してきた無数の失敗、遠回りを重ねた不器用な足跡、描き直しの果てにデータの海へと葬り去っていった「存在しない何万本もの線」。
そのすべての記憶と時間が、モザイク画のように混ざり合い、結晶化して、今、目の前の一本のストロークとなって液晶の上に産声を上げている。
「なるほどね……」
直哉が、静かに頷きながら口元を綻ばせた。
「……確かに、それは消えようがないね。フォルダをいくらクリーニングしたところで、僕たちがここで過ごしてきた時間そのものを消去することは、誰にもできないんだから」
読むという行為を通じて、物語と一対一で対峙してきた直哉だからこそ、その「時間の不滅性」を誰よりも強く実感できるのかもしれなかった。形のないものは、形がないがゆえに、摩耗することも、消滅することもない。
レイは何も答えなかった。ただ、胸の奥を満たしている正体不明の温かさを感じながら、再び液晶ペンの先端を画面へと滑らせた。
新しい一本の線が、光の中に鮮烈に浮かび上がる。
この線もまた、いつかは過去の古いフォルダの奥深くに格納され、地層の底へと沈殿していくのだろう。いつ开またクリックミスでこのファイルを開いた時、未来の自分は今の自分を笑うのかもしれない。
――けれど、それでもいい、とレイは思う。
どれほど時間が経とも、自分がこの部屋で、彼らと共に過ごし、削り出してきた「読書と創作の時間」だけは、決して本当の意味では消え去らないのだという確信が、今の彼の背中を静かに、しかし強固に支えていた。
モニターの中で、未完成のキャラクターは少しずつ、しかし確実にその生命の輪郭を確かなものへと変えていく。スタジオの中には再び、いつものありふれた作業のノイズが響き始めていた。エアコンの排気音、規則的なキーボードの打鍵音、指示を待つ液晶をなぞるペンの摩擦音。
ドラマチックな出来事は何一つ起きない、徹底して平坦な、いつも通りの夜。しかし、そのありふれた無駄に見える時間の集積こそが、明日という新しい物語を紡ぎ出すための、絶対に必要な苗床なのだ。レイは口元に微かな笑みを浮かべると、現在という名の美しい途上の世界へ向かって、再び堂々とペンを走らせ始めた。外では、初夏の怠惰な夜風が、スタジオのカーテンを優しく、小さく揺らし続けていた。




