第58話 「遺留」
人間という生き物は、実にあっさりと多くの事象を忘却していく。
交わした約束。直近のスケジュール。買い物リストの備忘録。そして、何かを作り出す創作者という人種は、往々にしてそれ以外の凡百の人間よりも、遥かに多くのものを記憶の隙間から零れ落ちさせていくものだった。
いつか描こうと温めていたアイデア。いずれ直そうと誓ったデッサンの歪み。いつか役に立つかもしれないとスクラップした背景の参考資料。
保存したその刹那には、誰もがそれが世界のすべてであるかのように重要視していたはずなのだ。しかし、時間の経過と共に、それらは優先順位の濁流に押し流され、一つ、また一つと意識の表層から剥落していく。何かを忘れるということは、決して特別な異常ではない。むしろ、私たちの日常を滑らかに回すための、極めてありふれた新陳代謝だった。
その日の午後、橘レイはデスクの上に転がっていた一本のUSBメモリをじっと見つめていた。
見覚えはあった。確かに自分の所有物のはずだ。……おそらく。
問題は、その小さなプラスチックの塊の内部に、一体何のデータが格納されているのか、脳内のインデックスが完全に白紙化していることだった。
「それは何だい?」
隣のデスクから、一ノ瀬直哉がふと作業の手を止めて尋ねてきた。
「さあな。分からない」
「持ち主は?」
「……多分、俺」
実に心許ない、確信の持てない返答。しかし、消去法で考えるならば、この修羅場と化したスタジオに転がっている以上、他人の物である確率の方が遥かに低かった。
レイは諦めて、USBメモリをPCのポートへと差し込んだ。
カチリという微かな接続音の後、エクスプローラーのウィンドウが液晶画面に展開される。いくつかのフォルダアイコンが整然と(あるいは雑然と)並び、レイはその文字列を視線で追った。そして、追えば追うほどに、彼の眉間の皺は深くなっていく。
直哉もまた、興味をそそられたようにモニターを覗き込んだ。
「……中身は読めそうかい?」
画面には、以下のような、おぞましいほどに見覚えのある名前が並んでいた。
『backup』
『backup_old』
『backup_old2』
『temporary』
『temporary_final』
「「……」」
「これ、百パーセント、レイさんの仕業だね」
直哉が確信に満ちた声で断言した。
「……みたいだな」
レイは力なく同意した。世界広しと言えども、これほどまでに思考を放棄したフォルダ命名規則を平然と連発する人間を、彼は自分以外に知らなかった。
彼は一番上のフォルダをダブルクリックした。
中から飛び出してきたのは、実にあてのない雑多な残骸だった。数年前の背景資料、いつ描いたかも定かではない落書きの画像、何かのWebページのスクリーンショット。そして――プロットの途中で完全に息絶えている、見覚えのない企画書のテキストファイル。
どれもこれも、網膜には微かな既視感を呼び起こす。しかし、その細部を形作っていたはずの文脈は、とうの昔に霧散していた。それはまるで、見知らぬ他人のデスクの引き出しを、不法にこじ開けて中身を覗き見ているかのような、奇妙な居心地の悪さを伴う感覚だった。
「本当に、綺麗さっぱり忘れてるんだね」
直哉が感心したように言う。
「ああ。忘れる時は一瞬だからな」
レイはあっさりと認めた。忘れてしまったものを、いくら眉間に皺を寄せて念じたところで、失われた脳細胞のネットワークが自動的に復元されるわけではない。忘却とは不可逆の現象だ。
しかし、奇妙なバグがそこに発生した。
フォルダをさらに深く潜り、ファイルを一つずつクリックしていくうちに、閉ざされていた記憶の蓋が、じわりと内側から押し上げられるのを感じたのだ。一枚の落書き。一文のメモ書き。フォルダの歪な階層構造。それらの断片が触媒となり、霧の向こうに隠されていた過去の輪郭が、少しずつ、確実にパズルのように噛み合い始める。
「――あ」
レイの口から、小さく短い声が漏れた。
「何か思い出したかい?」
「少しだけな。これ、昔、別の連載のコンペ用に集めてた資料の山だ」
何のために集め、どんなアイデアを膨らませようとしていたのか、その詳細なストーリーまでは戻ってこない。ただ、当時の自分が確かにその熱量を持ってこれらのデータをスクラップしていたという、その「事実の温度」だけが生々しく復元される。
結局、そのコンペは流れ、これらのデータが日の目を見ることは二度となかった。しかし、消去されることもなく、この小さなフラッシュメモリの底で、今日まで生き延びていたのだ。動機はとうに死に絶えたというのに、格納された結果だけが、主人の記憶を追い越してそこに遺されていた。
「それを世間では『遺留品』と呼ぶのですよ」
背後から、低く掠れた声が静寂を破った。
蘭華ひよりだった。今日の彼女はソファの上ではなく、フローリングの床の上に直接座り込んでいた。何のためにそんな不便な場所を選んでいるのか、その理由をあえて問い詰めるほど、このスタジオの男たちは無駄なエネルギーを持ち合わせていなかった。
「遺留品?」
直哉が復寸する。
「そうです」ひよりは床の上で膝を抱えながら、誇らしげにUSBメモリを指差した。「それは、過去のレイさんが、未来の自分への連絡もなしに置き忘れていった『タイムカプセルという名のスーツケース』なんです」
「スーツケースねぇ」
「当時のレイさんにとっては命の次に大事な荷物だったはずです。でも、今のレイさんはその中身を忘れてしまった。だけど、物だけはそこに厳然と存在している。だから、遺留品なんです」
ひよりはそう言うと、満足したようにコクリと一つ頷いた。
論理の飛躍は相変わらずだったが、その表現は、彼らの胸の奥に妙に鋭く突き刺さった。
デジタルデータというものは、往々にしてそういう側面を持っている。保存ボタンを押した瞬間の私たちは、決して「未来の自分へメッセージを届けよう」などという高尚な意図は持っていない。ただ、その瞬間の必要性に駆られて、あるいはただの惰性で、データをストレージの底へと放り込むだけだ。
そして何年もの歳月が流れた後、それは全く予期せぬ瞬間に、引き出しの奥から転がり出てくる古いメモ書きのように、私たちの前に姿を現す。
レイはフォルダのさらに奥へとマウスを滑らせていった。
一度も使われることのなかった背景素材。保存されたきり二度と開かれなかったジャンクファイル。途中で息絶えたネームの残骸。
どれもこれもが未完成で、どれもこれもが不完全だった。しかし不思議なことに、それらの残骸を見つめるレイの網膜は、決して不快な拒絶反応を示さなかった。
完成しなかったからこそ、それらは今もこうして、変色することなくここに遺っているのかもしれない。誰の評価も受けず、誰の消費の対象にもならなかったからこそ、当時のピュアな熱量のまま、電子の氷河の中に凍結されていられたのではないか。そんな、創作者の独りよがりな仮説が脳裏をよぎる。
「面白いもんだね」直哉が、手元のマグカップを見つめながらぽつりと呟いた。
「何がだよ」
「いや、中身を完全に忘れているのにさ。画面を見た瞬間に、それが『自分のものだ』って確信できるのがさ」
レイは動きを止め、画面を見つめ直した。
確かに直哉の言う通りだった。保存した日付も、その時の詳細な理由も忘れている。しかし、フォルダの乱雑な並び方、ラフの線の引き方、メモ書きの独特の語彙を見た瞬間、彼は細胞レベルで理解してしまうのだ。――これは、橘レイという人間が引いた線だ、と。
それは、先日古い落書きを見たときに感じた、あの「筆癖」の手触りに酷く似ていた。そこには署名もなければ、所有権を証明する透かし(ウォーターマーク)もない。しかし、画面全体から立ち上る固有の「匂い」が、紛れもなく自分の過去であることを証明していた。言語化不可能な、自己の刻印。
レイは静かにマウスを動かし、エクスプローラーのウィンドウを閉じた。
彼はそのUSBメモリの中身を綺麗に整理しようとは思わなかったし、かと言って、データをすべて削除してフォーマットしようとも思わなかった。
ただ、今日この午後において、それらが「確かにそこに在る」ということだけを確認できれば、それで十分だった。
彼は確かに忘れていた。記憶のレベルでは、完璧に失われていた。しかし、それは「無」になったわけではなかったのだ。自分が忘れてしまっただけの場所に、それはただ、主人が再び扉を開けるその瞬間を、何年も、何十年も静かに待ち続けていただけなのだ。
液晶画面がいつもの現在のネーム用紙に戻り、USBメモリはデスクの上に再び転がされた。
その小さなプラスチックの塊の内部には、今もなお、過去の橘レイという人間の断片が、眠るように息づいている。
かつて自分が置き去りにし、そして回収することを完全に忘れてしまっていた、愛おしい遺留品たちの気配。レイは液晶ペンを強く握り直すと、現在という名の新しい一線を、静かに、しかし迷いなく引き始めた。窓の外では、初夏の怠惰な陽射しが、スタジオの白い壁にゆっくりと長い影を落とし始めていた。




